04.七色の虹が大空に弧を描いた3

 腹帯を抱きしめていると、そこへリベルタが鼻面をこすりつけてきた。くんくんと匂いを確かめているように見えた。
 リベルタの心情を汲み取ると切なくなってきてしまう。
「分かるの? お前が大好きだったご主人様の腹帯だって。覚えてるんだよね、いまでも」
 温もりが伝わる長い横顔を触れる。
「ごめんね、無理強いして。人を乗せるのが怖いんだよね、昔を思い出してしまうからつらいんだよね」

 真琴は脈打つ長い首に片腕を絡ませて寄り添った。
「怖くても大丈夫。だってあなたは一人じゃない。つらい思いは私が半分背負ってあげる。だから一緒に――ううん、三人で大空の下をまた駆けよう、リベルタ」
 顔を寄せてきたリベルタの優しい瞳に真琴は朗笑してみせた。
「腹帯、綺麗に直してあげるね。こう見えても裁縫は得意なんだから」

 厩舎の入り口には一つの人影が伸びていた。そして真琴に笑顔が戻ったころ、人影は人知れず消えていったのだった。
 裁縫道具とスカーフやハンカチなどの布を真琴は厩舎に持ち込んだ。腹這いで寝そべるリベルタの傍らで腹帯を繕い直す。深夜を超えても厩舎の仄かな明かりが消えることはなかった。

 ※ ※ ※

 翌日。上空は胸騒ぎを覚える嫌な空模様だった。
 遅めの昼食を取りにリヴァイは食堂へ向かっていた。と、ばたばたと焦っているような足音が廊下の曲がり角から聞こえてきた。曲がる寸前に、勢いよく飛び出してきた者と正面衝突する。
「気をつけろ」
 リヴァイは踏ん張ったので軽くよろめいただけで済んだ。ぶつかってきたのは真琴で、大げさなまでにぐらついて壁に片手を突く。

「ごめんなさい!」
 人の顔を確認もせずに真琴は謝ってきた。ふらつく足許のバランスを取り戻しながら走り去っていく。どうしてか焦燥している背中に、リヴァイは注意を飛ばした。
「廊下を走るな!」
 急に腹でもくだしてトイレへ向かっている最中だったのだろうか。首を捻り、リヴァイはとりあえず廊下を進んだ。

 すると今度はペトラが走ってくる姿を捉えた。真琴と同じような焦り顔だ。
(集団食中毒でも起こしたか?)
 昼食は食べないほうがいいだろうかと思いつつ、また注意しようと口を開く。
「いくらクソが漏れそうでも廊下を走るのは」

「兵長! よかった、呼びにいこうと思ってたんです!」
 細かい汗を額に浮かべ、ペトラはリヴァイの語尾に被せてきた。
「なんだ。書類が上がってやっと飯にありつけるってのに」
 腰を曲げて両膝に両手を突き、ペトラは息を整える。
「すみません、もうしばらくお昼は遠ざかることになりそうです」
「冗談だ。用を早く言え」

「真琴の馬が――、真琴の馬を引き取りに、食肉業者が来てるらしいんです」
 リヴァイははっとして真琴が去っていった方向を振り返る。
「それであいつ、あんなに焦ってたのか」
「真琴は厩舎に向かいました。私一人じゃ心許ないんで、兵長も一緒に来てくださいませんか」
 リヴァイは不快になって舌打ちをした。
「あの世話番、やりやがったな」

 本部を出ると霧雨が降っていた。ペトラと供に厩舎へと走り、リヴァイはふうわりと掛かる雨粒を腕を上げて庇う。
 前方に霞む厩舎が見えてくると、手前に荷馬車が待機している様子が見て取れた。いくつかの人影もぼんやりと見える。
 割れ気味の張った語気が響いた。真琴の声だ。

「ボクの馬に何をするんだ!」
「何するも何も、買い手がついたんでいまから運ぶんだよ!」
「そんな話は聞いてない! まだ期限だって過ぎてないんだ!」
「若いうちに売ったほうが美味い肉が取れるから高く売れるんでさ! 次いつ買い手がつくか分からんのだし、この好機を逃すのは馬鹿のすることですぜ!」

 声からして世話番と言い合っているようである。さらに距離が狭まって周囲の様子が眼に入ってきた。
 嫌がるリベルタの尻を世話番が押して荷馬車に積もうとしていた。真琴が世話番の腕にしがみつく。
「リベルタを連れていくな!」 
「しつこい兄ちゃんだ! 離せ!」
 世話番が腕を振り払った。それで、ぬかるんでいる地面に真琴は崩れ落ちた。両手を突き、顔を上げて悲痛に叫ぶ。
「頼む! 連れていかないでくれ!」

「真琴!」
 ペトラが素早く駆けつけて、屈んで真琴の背中を触れた。
「兵長を連れてきたから」
 泣きそうな顔で真琴はぱっと振り向いてきた。顔を滴る雨で判断はつかないが、もしや本当に泣いているのかもしれなかった。
 起き上がって真琴は訴える。
「リヴァイ兵士長! リベルタが、リベルタが!」

「分かってる」
 真琴の肩に手を添えて下がらせ、リヴァイは世話番の前に立ちはだかった。
「これはどういうことだ。売買の許可を出した覚えはないが」
「いや、でも……。この馬は役に立たないですし、ただの穀潰しでさあ」
 世話番は取り繕うように手揉みした。リヴァイが凄んでみせたから物怖じしている。
「高い値がつきましたし、この際もう売っ払っちまったほうがいいと思ったわけで」

「確かに穀潰しだ。エサ代ももったいねぇ」
 背後で真琴とペトラが驚愕したように眼を見開いた。逆に世話番はほっとしてみせる。
「でしょう! そうなんですよ! 兵士長さんもそう思いやすよね! だったら売って金にしたほうがいいってもんですわ!」

 真琴がジャケットの真ん中辺りを強く引っ張ってきた。
「何言ってるんですか! あの人に賛同するっていうんですか!」
 リヴァイは後ろに顔を巡らす。
「おい、早とちりするな。要はリベルタが穀潰しでないことを証明できればいい」
「そんなこと……無理ですよ。昨夜リベルタに振り落とされたばかりなんですよ。リヴァイ兵士長だって眼にしたじゃないですか」

「結果がすべて。胸クソ悪いが、この男が言ってることはまっとうだ。引き下がらせるのは容易いが、権力で物を言うわけにもいかない。一か八かに賭けるしかない」
 八の字に眉を下げた真琴は諦めの顔をしている。リベルタのために徹夜で腹帯を繕ったのか下瞼の隈が濃い。
「腹帯は仕上がったのか」
 と訊くと真琴は意外そうに眼を丸くしてみせた。

「どうしてそれを」
 こっそり様子を見ていたことをリヴァイはとぼける。「なんとなく直したんじゃねぇかと思ってな」
「はい。……また使えるように直しましたけど」
「よし、それを着用させて鞍をつけろ」自信を持たせるために肩を叩く。「大丈夫だ。今日まで頑張ってきたろ。自分とリベルタ、双方を信じろ」
 そう言うと、迷いを見せてから真琴は頷いた。
「やってみます」

 不安を隠せないというふうに真琴がリベルタに鞍を着用しているよそで、世話番は口をひん曲げる。
「無理に決まってら。三年も人を乗せてねぇんだ、たかだか一週間弱で」
「うるせぇ、黙ってみてろ」
 冷たく言うと、隣で真琴を見守っているペトラが気がかりそうにした。
「兵長。期限がまだあるとはいえ、もしダメだったらどうするおつもりなんですか。ホントに売っちゃうんですか」
「そのことについては心配しなくていい」
「え?」
 眼を丸くしてペトラは首をかしげる。横目を投げるだけにしてリヴァイは腕を組んだ。

 乗馬の準備ができたようだ。リベルタの首筋を撫でている真琴は、近づきがたい清廉な雰囲気を醸し出していた。
「お願い、乗せてね。あなたを助けたいんだ」
 意を決したように表情を引き締め、真琴が鐙に足を引っ掛ける。潔いさまに脚を振り上げてリベルタの背に乗った。
 跨がったときは威勢のよい顔つきをしていたのに、尻をつけた瞬間からびくびくして両目を強く瞑っている。けれどすでに数秒が経過しているのに気づかないのか。

 満足な面持ちでリヴァイは頷いた。ペトラが満面の笑顔で手を叩き始める。
「やったぁ! 真琴、やったね!」
 真琴がやおら眼を開けた。信じられないといった表情に変わっていく。
「嫌がらない……、ボクを嫌がらない」太陽のような笑みでこちらを向く。「乗れたっ。乗れました!」

「そんな馬鹿な――」
 右肩をだらんとだれて世話番は放心していた。彼をリヴァイは睨みつける。
「これで穀潰しでなくなったわけだ」
「い、いまさら困る……」
「困る? まさかと思うがてめぇ、金を受け取ってねぇだろうな」
 問い詰めると世話番は顔を真っ青にして立ち竦んだ。

 どうやら的を射るものだったようだ。のちに分かったことだが、世話番は上の判断を仰がずに独断で売買契約を結び、挙げ句の果てに前金を貰っていたのであった。処遇についてはおいおいエルヴィンが下すだろう。

「よかったですね、兵長!」
「まったく、世話の焼ける」
 真琴はリベルタに弄ばれていた。何度も跳ねるリベルタの姿は、自分のほうが先輩だと偉ぶっているようで、楽しんでいるようにも見えた。
「しょーもねぇな。動物にも馬鹿にされてんじゃねぇか、あいつ」

「ちょっと! はしゃぎ過ぎだから! ボクはまだ乗馬初心者なんだよ!」
 必死な形相でたてがみにしがみつく真琴を見てペトラは可笑しそうにする。
「しっかり手綱を握らないとダメよ!」

 リベルタが後ろ脚に力を入れようとしていた。あれは疾駆しようとしている。軽く舌打ちをしてリヴァイは駆け寄った。
 揺れ動く手綱を掠め取り、リヴァイは鐙に足を掛けた。リベルタの背で踞っている真琴の背後に飛び乗る。
「どうどう!」
 手綱を引いて鎮める。物足りないというふうにリベルタは足踏みを繰り返していたが、リヴァイの言うことを訊いて大人しくなった。

 手綱を握る両腕の狭間には真琴が収まっていた。相変わらず華奢で小さな背中だと思った。
 リヴァイが後ろにいることは、さすがに気づいているはずだ。しゃんと半身を起こしている真琴は、しかし濡れそぼっている頭が伏せ気味だった。肩が些か緊張しているように見て取れる。
「これで終わりじゃないぞ。遠征までに乗りこなせるよう励め」

 真琴の耳許で放った声は掠れた。リヴァイの吐息が掠めたのか、真琴は首を竦めてくすぐったそうにする。そこはかとなく耳が赤い。
 俯いたまま顔を上げようとしないから真琴のうなじが露わになっていた。雪のような白さに眼を奪われそうになってリヴァイはかぶりを振る。
 意識を逸らそうとリベルタの腹部分を見降ろした。可愛い布地を使って継ぎ接ぎされている腹帯が目についた。

「ずいぶん派手に直したな、腹帯」
「カラフルなほうがいいかなって思いまして」
 やっと口を利いた真琴の口調は恥ずかしがっているような歯切れの悪さがあった。
「なぜ?」
「だって女の子だから」
「女? こいつは雄だが」
「え!? 嘘!?」真琴は絶叫した。そして雨が染み込んでいる半身を捻って振り返ってきた。次いで、「あっ」と小さく詰まらせて瞠目する。

 座高が変わらないので、互いの鼻と鼻がくっつきそうな近さだった。けれど別段気持ち悪くも思わず、リヴァイは静かに一瞥した。
 何かに取り憑かれたかのように真琴は固まったままだった。と、真琴の首に光るものがあってリヴァイの目線が奪われる。それは雫で、細い首筋を伝っていくから行き先を眼で辿ってみた。襟元に滑り落ちていったのは雨だろうか汗だろうか。いずれにしても見とれるほどに色っぽかった。
 なんにしろ――

「脅すくらいで丁度いい」
「え!?」
「ただの独り言だ」リヴァイはリベルタの腹を蹴る。「ほら、ぽかんと口を開けてると舌を噛むぞ!」
 はっ! と掛け声と同時に、リヴァイは手綱を大きく振るって疾駆させた。

 計るように雲が割れて太陽が顔を出した。次第に雨がやんで、最後の一雫が落ちる感触もなく肩を打った刹那――七色の虹が大空に弧を描いたのだった。

 ※ ※ ※

 同時刻。リヴァイの執務室で書類の整理を頼まれていたオルオは虹に気づいて窓を見やった。

「お――! すげ〜、あんなくっきり色が出てる」
 まじまじと見ていたので手許から資料が滑り落ちてしまった。厚手の青いカバーは馬の管理票である。
「やっべ!」
 しゃがんで資料を拾う。落ちた拍子に開かれたページはリベルタの項目だった。なんとなしに流し読みした内容にオルオは首を捻った。
「あれ? 真琴から聞いてた話と違うな」

 ――J六〇一一の処遇について。今月末までに乗りこなせる者が現れなかった場合は調教師のもとへ返還する。なお優秀な血統の馬であるから、永年は種馬として数多くの子孫を残すよう、調教師に強く要望すること。以上。


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mokuji
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