31.上弦の月が水平線に沈むまで2

 巨樹の幹にリヴァイ、彼の胸に真琴と凭れ、しばらく二人して見るともなく夜空を仰いだ。空洞な心に冷気がしみて虚しくなるばかり、会話もなくただこうしているのも虚しくなるばかり、だから古城へ戻ろうと切り出そう――白い軌跡が走って星が流れたのは、真琴がそんなことを思ったときだった。
 反射的に浅く背中を浮かせたものの、まばたきのあいだに星は消えた。流れ星だ、願い事を、なんて頭をよぎる隙もくれず。

「ねえっ、いまの見――」
 夜空は、高揚を胸にリヴァイを振り返ろうとした真琴を、またしても釘付けにする。ぽかんと口を開けた真琴の、見開きながら浮動する瞳。その瞳に次から次へと飛び込む眩い星。
「……流星群だわ。あなたもしかして、これがあるから今夜?」
 藍色の空には白い軌跡が無数に降り注いでいる。幻聴かもしれないが光が走る際に時折シャープな音まで耳に入るような。

 いましがたまでの暗さも忘れ去る、さも珍しそうにリヴァイは瞳を眇めた。
「馬鹿な、俺もたまげてる。めったに拝めないぞ。一生のうち、あるかないかだ。昼間、豚みたいに寝腐ったのを後悔もしたが、チャラにしてもいいとさえ思える」
「見て。すごい、星のシャワーみたい。いまなら……そうよ、願い事。こんなに、これだけの星よ。どれか一つに届きそう。届くかしら? こんなに降ってるんだもの」

 混乱とも興奮とも見て取れる、そんな真琴をリヴァイは物憂げに見守った。そうして励ますように腕を包むと、できるだけ天に近づこうと首を伸ばした。
「一緒に唱えてやる。届くさ、二人で願えば」
 予感めいたものに真琴の相好は陰った。意識が流星群からリヴァイに及ぶ。
「何を願うつもり」
「海へ行けるよう願う」

 純真な星々を前に、まさに願いが聞き届けられそう。その時の別れを恐れて真琴は怖じ気づきかけたが、そんなうじうじした迷いなど不純なものと思わされた。
 リヴァイは純粋に、真っ白なまでに純粋に、真琴の思いを汲んで一緒に願ってくれるという。自分のことを後回しにする彼の優しさがひどく胸にしみる。
 真琴は夜空から顔を逸らした。

「あんまり甘やかさないで。私は自分で願うから、あなたは自分の願いを聞いてもらってよ」
「待て。不快だな。勝手に俺を、女のことしか頭にねぇ、クズ野郎に仕立てるな」
「だったらどうして海へなんて。他にあるでしょ。あなたならもっと、切実な願いが」

「ぼんくらは良く考えないで決めつける。これはとても効率のいい願いだ。三回唱え切るのに、だらだら述べ立てなくていい。海へはどうやって行く? 空を飛ぶとか、とんちんかんなことをのたまうバカもいるらしいが、俺は地に足を着かないと落ち着かん。だから陸路に決まりだ。なら巨人は全滅してねぇとな。お前は、そのおこぼれを貰え」
 なんだか取ってつけたよう。切ないのを隠すように真琴はおどけて肩を竦めた。
「一つの願い事で、二つを手に入れようっていうの。願いたい放題なのに、欲張りね」

「さすがに強欲か」
 そう失笑しながらリヴァイは視線を降ろした。やがて雰囲気が懸想に満ちる。
「ようするにだ。俺も海を見てみたい。――マコと」
 寒空も温かくしてしまうリヴァイの思いは、きららかな流星の一群へ届いたろうか。真琴はリヴァイに寄り添うと、彼の確固とした胸に手を添えた。
「私も海を見たい。そのときは、リヴァイに隣にいてほしい」
 瞳を閉じて願う。ぬくもりに思いやりの分が足されたのかリヴァイの腕の中がさっきよりも温かかった。

 真琴が温かみにまどろみそうになったところで、リヴァイがぼそぼそ言い出した。しくじったな、うっかりだ、とぼやくわりに言いぐさが穏和な芝居調だった。
「俺としたことが。これは肝心だ」
 厚い胸板に添えた手に声帯の振動が響くのを、真琴は心地好いと浸りながら聞き返した。
「あなたがそんなに困ってみせるなんて相当のことね。兵士長さんは何をうっかりしたの」
「見通しの甘さにうんざりだぜ。海を見つけても、素通りしちまう可能性のあることを、念頭に置いていなかった」

 リヴァイの肩の中で真琴はころころ笑った。
「どうして素通り?」
「見間違うかもしれん、水溜まりや池と。多少大きめであったとしても、それが海だと気づかずに」
「いらない心配するのね。水溜まりや池と間違う? ないったら。規模が大違いだわ」

「俺には自信がない。なんせ海を見たことがないんだ」
 リヴァイは三白眼を絞る。
「教えてくれ、俺に。お前の中にある、海の姿を」
 眩しそうに見つめてくるリヴァイの表情が、真琴は好きだった。苦しみの分だけ増えてきた、下瞼に入る小さな皺も愛しいと思えるくらい。真琴は触れるか触れないかで、彼の目尻に指を伸ばした。

「じゃあ眼を瞑って。あなたが通り過ぎてしまわないように、私の記憶の海を、教えてあげる」
「お前を頼もしく思う。教示を受けるようで面白くないがな。まあ、最初で最後だと思えばいい」
 リヴァイは冷たい夜気がこれ以上忍び込めないくらいにストールごと真琴を抱き込むと、素直に眼を閉じた。

 まるで母親の読み聞かせを待ちわびる子供のようだ。リヴァイを見上げながら思いつつ、真琴も眼を閉じた。遠い海に思いを馳せる。
「いまは夜だから、海も夜。匂いが……潮の匂いがする」
「潮の匂い?」
「海が近くに見えてくると、独特な匂いがしてくるの。ここにしかない、あなたが初めて嗅ぐ匂い。この香りがすると、ほら、海がもう、すぐそこに見えてくる――」
 磯の香りを含んだそよ風が夜気の中を流れる。海の香りを辿っていくと、潮騒がだんだん大きくなっていった。
 真琴は海岸に足を踏み入れた。

「砂浜は白いの。柔らかくてさらさらで。裸足で歩いてると、深く沈んでいっちゃう」
「砂丘のような」
「そう、一面がそうなの。違うのは、この先に海が広がっていること」
 海は黒かった。この世の怒りも憎しみも悲しみも、全部呑み込んでしまうほどに黒かった。渚には誰もおらず、ただ延々と波が打ち寄せるだけ。海は黒いのに、飛沫だけが白い。

「波の音を聴いていると、心が凪いでいくみたい。なんでかなって思ったとき、気づかされる。人間は海との繋がりが深いんだって」
「すべての生き物は、海から生まれた」
「そう。誰もがお母さんのお腹の中で、海の音を聞いたはず、リヴァイも。心が無意識に帰りたがるんだわ」
 真琴はゆっくり波打ち際を歩いた。しゅわしゅわと泡を弾かせながら、足許をさらっていこうとする波は、冬の海だから容赦なく冷たい。

「とても綺麗、ここの海。だからかしら、水際にいっぱい貝殻が落ちてる」
 ときどき小さな巻貝や桜貝を踏んでしまい、足の裏を痛くした。と、一人で歩いていたはずなのに後ろから声をかけられる。愛しい人の声だった。潮風に逆らって振り返ると、
「さっき貝殻を拾った。小さいが、どこも欠けてねぇし、形がいい。薄い黄色の巻貝だ。お前にやる」
 瞼の内側の映像は一瞬。波打ち際に立つ人影の微笑んだ面差し、それは自分に向けられているもの。
 真琴は思わず眼を開けた。リヴァイの両目は閉じていた――かすかに顔つきを穏やかに。

 真琴は感極まって返事をできなかった。暗い海で歩いているのは一人だけかと思っていたのにリヴァイも隣にいてくれたのだ。
 沈黙のせいかリヴァイの瞼が困る。
「貝殻なんざ、困るか、もらっても。女なら宝石や服のほうを喜ぶ」
「いるっ」
 真琴は急き込んで言った。夢の海で、差し出してくれた手をリヴァイが引っ込めてしまう前に。
「ほしいっ。だって、あなたが選んでくれた貝殻だもの。嬉しくて……涙が出ちゃう」
「ならもっと拾ってやる。仰々しさがいまいち胡散くせぇが、泣くほど嬉しいらしいしな」
 眼を瞑ったままリヴァイはまんざらでもなさそうにした。

 貝殻を贈ってくれたからだけではない、夢の中でそばにいてくれたから感動したのに、この人は気づかずにきっと、手のひらいっぱいに貝殻を拾い集めてしまうのだろう。
「海が……あなたの瞳には、海が映ってるのね」

 思わず呟くとリヴァイはさっと表情を打ち消し、当惑げに瞼をわずかに痙攣させた。そのまますぐに眼を開けてしまいそうだった。
 真琴は切迫気味に切願する。
「ダメ、眼を閉じていて。まだ海にいて」
 リヴァイはなんだ、と不可解そうにしてみせた。
 寄り添っていた身体を離して真琴は向かい合った。これからすることは卑怯なことだと思う。胸許に両手を添え、当惑を残した顔を覗き込む。

「ここは海。あなたと私は、一緒に波打ち際を歩いてる」
 黒い海には月が落ちて揺らいでいた。人を誑かす赤い上弦の月が。
「どうして、海へ来れたんだと思う?」
「――どうして」
「巨人がいなくなったのよ。だから陸を旅して海まで来ることができたの」
「――巨人がいなくなった」
「そう、いなくなった。世界は平和になったの。だからもう、あなたは闘わなくていいの。兵士じゃなくていいの」
「俺は……兵士じゃない」

「そう」
 少し戸惑っているリヴァイの顔に、真琴は唇を近づけた。
「だって、巨人がいないんだもの」
 首を自然に傾け、自分の唇でリヴァイの唇を触れた。無防備な柔らかさ、なんともいえない充足感にぶるりと震えそうになった。それも束の間――。
 咄嗟にリヴァイは警戒した。唇を固く力み、目許をひくつかせた。けれど瞳は閉じられたまま。彼はいま、平和な海で真琴に口づけされている。

「あなたがずっと背負ってきた、仲間の思いは遂げたわ。両肩は軽い、違う?」
 ぴたりと合わさる唇を真琴は再びついばんだ。薄い唇に目立った抵抗がないのをつけ込み、奪う。
「まっすぐ生きられる日が来たの」
 ずるいことをしているのは分かっている。背徳感がないわけでもない。でも夢の中だけでも幸せを感じたかった。応えてくれなくてもいい。そう思いつつ真琴は想いを唇に込め続けた。

 そのときだった。リヴァイの唇がかすかに真琴に応えた。
 思いがけず真琴は瞳を揺らす。幻想がそうさせたように見せたのではないかと自分を疑う。
 リヴァイは双眸を閉じたまま、葛藤に眉を寄せつつも、やんわりと応えてくるではないか。こころなしか顔を迫り出し、真琴の背中の上方をぎごちなく触れながら。

 口づけを受けたまま真琴は瞳を瞬かせた。眼で見ても唇の体温を感じても、まだ信じられない。試しに顎を引いてみて、リヴァイからほんの少しだけ遠ざける。するとリヴァイはその距離分、顎を突き出すようにして軽く触れるだけのキスをくれた。
 この甘酸っぱさは現実なのか。まだ半信半疑だから、意地悪のつもりはないから、夢ではないと信じたいだけだからと、真琴はもう一度顎を引いた。
 二度目はリヴァイを苛立たせた。焦らされたせいか舌打ちし、荒っぽく真琴の頭を引き寄せた。

「お前は二度も俺をコケにしてくれたが、これは楽しかったりするのか」
 不満を口にされ、ごめんなさいと真琴は再びキスを受ける。
「からかったつもりじゃなかったの。……でも」
「聞く気はない。削ぐぞ」
「きゅんて、なった」
 幻想や幻覚ではなかった。真琴は眼を閉じ、幻の海の世界へ戻った。戻る間際に舌打ち混じりの反感を買った。
「舌を削がれたいらしい」

 もっとしたい、もっとされたい。なかなか表に出る機会のない欲求が外側に発汗していくようだ。その潮吹く欲求が、リヴァイの太い首に手を回すという大胆なことをさせた。彼の首筋の薄い皮膚からの発熱を感じる、背中の窪みをやんわり撫でられる、時間をかけて口づけは深くなっていく。

「リヴァイ」
 もらえる息継ぎの合間に無性に名前を呼びたくなった。不慣れな優しさというか、そんな口づけが、真琴の胸をこそばゆくさせるのだ。
 もっとこう荒れ狂う大波のような、烈々たるキスをする人だと思っていた。実際そうなのかもしれない。現に優しいキスは得意ではなさそうだし、唇から不器用なりの精一杯を感じる。それは大切に扱ってくれているということ。
「ああ、リヴァイ」
 大海原の渚で抱き合う二人の足を、止まることなく小波が打つ。

 主導権などとうにリヴァイに奪われていた。彼のしたいようにされ、真琴はどんどん夢中にさせられた。泉のように想いが胸に湧きおこる、それが吐息とともに決壊して溢流していく。
「好きよ。リヴァイが好き。愛してるの」
 零れた告白に応えるように、リヴァイは悩ましげに眉を寄せ、肉感的な掠れ声で唸った。愛しむように頬を唇が滑り、こめかみや顎のラインに情熱的なキスを降らせる。そのたびに唇の濡れた音が漏れるから、真琴の身体を微弱な電流が流れた。

 白く熱っぽい吐息が星空に消える。
「どうしようもないくらい愛してる。分かってるの?」
 真琴は愛の言葉を口にした。そういえばはっきりと伝えるのは初めてだった。恥ずかしげもなく、こんなにも自然に言葉を引き出されてしまうものだなんて。身体中から愛が溢れてしまい止めようがない。
「リヴァイを思わない日なんて、一日もない」

 唇が触れれば触れるだけ身体は熱く気怠くなる。ずるりと肩に滑り落ちかけた手を、リヴァイは腕ごと掴み寄せた。そのまま真琴の顎の下に顔を割り込む。
「マコ」
 やぁ、と嬌声を上げたのは、単純に彼の熱のこもった息が、首許にくすぐったかったから。
 真琴の意味のない言動などリヴァイはそっちのけにした。窮屈な喉許を彼の唇が吸おうとしたとき、半開きのそこから艶っぽい舌がちらついて見えた。

「私、苦しいんだから。リヴァイが愛おしいのに、苦しいんだから。幸せすぎて、このまま死んじゃいたい」
「分かったから、もう黙れ」
「リヴァイは、リヴァイは私のこと――っ」
 真琴は唐突に唇を塞がれる。慕情を伝え足りないのに、多弁な舌を強く吸われた。
 リヴァイは決して愛を囁いてはくれない。囁くような人とも思えないけれど、唇を通して注がれてくる、この苦しそうなほどに止まらない想いを、愛以外に例えられるものが他にあるか。そう問われたら、愛以外にないと真琴はためらいなく言い切れるだろう。

 潮音に包まれながらリヴァイからたくさんの愛を受けていたのに、海にそぐわない音がほうと鳴いた。
 頭上からフクロウの鳴き声。その音で反発するように互いに唇を離し、瞳孔を見開く。
 フクロウは木の葉を揺さぶりながら羽音とともに飛んでいった。
 夢の海から帰ってきてしまった。もっと海にいたかったのに森林の香りが濃い。呼び起こしたフクロウを妬ましく思った。真琴は未練がましくリヴァイの襟許を引く。

「もう一回、海に戻って」
「俺が海にいたと、正気かよ」
 リヴァイは真琴の顎を取った。引き上げて、余韻の残る面差しを歪める。
「下手くそな暗示に、やすやすと俺が引っかかったとでも?」
「だってそうじゃなきゃ、あんなことした? しないわ。いままでだってそうだったもの。まやかしの海で、平和な世界を感じていたから。だから私に応えてくれたんじゃない」

「あれをまやかしに? どうして思える。夢なら、ぬくもりを感じるか」
 真琴の下唇の縁を、かさついた指の腹がなぞる。
「クソ甘く、感じるか」
 白日夢を見ていたのではないとリヴァイはいう。あの口づけは海での出来事ではなく、この木の上での出来事だったのだと。

「なら、どうしてわざと騙されるようなこと」
 リヴァイは瞳を泳がせた。やがて格好な言い訳を探し当てる。
「月だ」
「月?」
 顎を捕らわれたまま、真琴は斜め上方を見た。今夜は上弦の月、地上の生き物を幻術にかけてしまうような血の色をしている。
「そうだ。気味の悪い月。あれは俺を惑わす」
 口づけを許してしまったのをリヴァイは月のせいにした。ならば上弦の月が水平線に沈むまでは惑わされているとでもいうつもりか。

 真琴はリヴァイを見つめた。深く見つめても瞳は交わらない。彼の悩乱な視線の先はずっと、もうにっちもさっちもいかないと真琴の唇を欲しがっている。
 リヴァイを惑わせているのは月でもなく私。真琴は自分に夢中の男の頬を恋しく触れた。

「月はまだ出てるわ。雲もないから綺麗に見える。あなたはまだ、惑わされたまま?」
「ああ。惑わされて、どうしようもない。どうにかしてくれ」
 互いに双眸を薄めていき、唇を交わらせた。今宵だけ許された蜜月を、あとで心残りをおこさないように存分に味わう。
 流星の降る夜、真琴の唇には絶えず愛が降り注いだ。


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