30.上弦の月が水平線に沈むまで1

 静かな夜だったのに寝つけなかった。真琴はどうにかして寝られる向きをリヴァイの腕の中で探した。大きな動作をするとベッドが揺れてしまうから、しずしずと何度も。隣に人がいるとひどく気を使う。
 リヴァイが喉で笑った。

「眠れねぇな」
「ごめんなさい。もじもじ、うるさかった?」
 両目を閉じてじっとしていたリヴァイも寝つけていなかったらしい。
「いいや。俺も寝つけない。昼間に寝過ぎたらしい」
「もうちょっと早く起きてれば……ううん。やっぱりあのとき私が気づいた時点で起こしてあげるべきだったんだわ」
 真琴と違ってリヴァイは体力勝負の日々を生きているのだから、夜充分な睡眠を取らないと、いくら長い昼寝をしたのだとしても、次の日に支障をきたすと思う。
 リヴァイは気怠げに半身を起こした。
「過ぎたことは仕方ない。体が欲してたんだろう」
 リヴァイの視線が窓に移る。
「星が出てるかもな」

 真琴も起き上がり、ベッドの上で窓の下から見上げるように首を傾けてみた。小さな窓からの狭い景色が霞んで見える、純度の悪い硝子の透明度を上げるように意味もなく手のひらで磨いてみても、変わらなかった。
「外に出てみるか」
「就寝時間はとっくに過ぎてるのに平気? 抜け出すようなこと」
 優等生ぶりつつも、夜のデートに誘われたと真琴の胸はどきどきした。
「ここは監獄じゃない。ルールも臨機応変に。自分で責任が取れるなら、いいと思っている」
 小さなルールは自分で変えてしまう。たとえばエレン。始めの数日は憲兵団との約束通り鍵をかけられた地下牢の中で就寝していたけれど、現在の待遇はみんなと同じである。個人の尊厳を傷つけることをリヴァイは嫌ったのだ。

 ベッドから降りたリヴァイは、部屋着の上から立体機動装置を装備し始めた。星が良く見えるスポットがあるらしく、そこへ行くためには立体機動を使う。いわく、なかなか眠れない夜に、こうして一人で外へ出ては夜空をぼうと眺めていたのだという。

「私はどうしよう」
「俺がおぶる。めったにないが」
 装着した腰の装具の、固定するためのロックがかちりと音を立てた。リヴァイは調査兵団の外套をひらりとなびかせながら羽織る。
「お前はそれか」
「スカート……じゃダメ?」
 真琴は自分を見降ろした。踝までのワンピースタイプの寝間着だが裏地に暖かい素材が使われていた。

「駄目じゃないが、外は寒い。数秒といられないぞ、そんなんじゃ。羽織るものが必要だ」
「だったらストールを持っていくわ」
 リヴァイの部屋に来るときに、羽織ってきたアーガイル柄のストールを広げてみせた。両腕を横に伸ばしてもたわむぐらい、かなり大きい。
「これなら二人で使えるし、充分あったかいの、もこもこしてて」
「いいだろう」
 ストールをちらりと見てからリヴァイは外套を翻した。
「行くぞ」

 裏山まで徒歩で行き、林がトンネルのようになっている麓付近でリヴァイは振り返った。些か下がり気味の口角の、いつもの顔つきで、
「さて、お嬢さん」
 と呼び慣れない呼称で呼ばれ、真琴は眼をしばたたいた。
「淑女扱いで横抱きか、荷物扱いで引っ担がれるか、どっちが好みだ」
「なんか……二つ目の選択肢、とっても可怪しくない? 私のことを荷物扱いし――」
 言い終わる前にリヴァイはさっと片膝を突いた。両腕を後ろに反らすふうにして手首をちょいちょいと揺らす。
「時間切れだ。ガキ扱いで背負う」

「え〜。女に産まれたんだもの、せっかくだから横抱きがいいんだけど」
 真琴は頬を膨らませた。肩越しに振り返ったリヴァイは口端も上げない。
「憧れてたところ悪いな。こっちのほうが俺にとって楽だと考え直した。お前も安定する」
「それなら最初から選ばせるようなことしないで」
 ぶうたれながらも、真琴は寝間着の裾を気にしつつリヴァイの背中に覆い被さった。彼の背中は大きくて硬くて、それだけで逞しかった。不安定な横抱きよりも、こちらのほうが怖さも半減するのだろうけれど、お姫様のような横抱きもやっぱり捨て難く、惜しく思った。

「お姫様抱っこされてみたいな、せめて人生で一度くらいは」
「もうしたろ」
「え? いつ?」
 リヴァイの横顔を覗き込んでみるが、草地に緩く視線を落としたままで唇が開きそうもなかった。真琴を横抱きしたのは酒に呑まれたときとトロスト区で救出したとき。いずれも意識がなかった真琴は知らない。後者に限ってはリヴァイにとっておそらく思い出したくもない悪夢だろう。
 露知らず、ははんと真琴は皮肉を込める。

「気づいたんでしょー、勘違いに。だって私、覚えがないもの。以前にあなたが泣かした人だったり」
「泣かした女の数でいったら切りがねぇ」
 聞き捨てならない。「え!?」と真琴が急き込んだとき、なんの合図もなくリヴァイが立体機動に移ったので、慌ててしがみついた。
「いまのどういう意味!?」
「あ? 訓練で泣かした兵士以外の何がある」

 真っ暗な森の中を、二人は頂上を目指して樹々の合間をすり抜けていった。風圧でなびくリヴァイの髪の毛が顔を打つ、景色を追っていると眼が回りそう、だから真琴は頭を伏せた。
 リヴァイの普段はこんなものではないと思う。おそらく速度を控えめにしている、それでも充分怖かった。万が一にも落とされないようにと、勇ましい肩に巻きつけている両腕をぎゅっとすると、真琴の腕をリヴァイの手が触れた。俺を信じろ、絶対に落とさない。心音がそう言ってくれたような気がして、怖さよりも安心の割合が増した。

 立体機動で山頂まで上がっていくかと思いきや、目的のものを見失わないようにするかのように、山腹ら辺でリヴァイの速度が落ちていった。黒い絵の具で塗りつぶされたかのような山の中を真琴は見渡す。
「あなたの秘密の場所って、この辺?」
「秘密? まあ、今夜で知る奴が一人増えた」
「大丈夫、安心して。誰にも言わないわ、私。だから二人だけの秘密ね」
 リヴァイはじいっと見た。
「……自覚ないのか、お前。わりとぽろりと口を滑らせてるが」

 極太の筆を束ねたような樹々は冬季なのに緑の葉が残っていた。どれも樹齢を重ねた巨木だが、そのうちの一本の頂きに向かってリヴァイはアンカーを放った。そうしてから空気のようにふわりと着地すると、そこは空にほど近い枝の上だった。
 リヴァイの背中から降りて、真琴は怖々と爪先を着いた。飛び跳ねたくらいではびくとも揺れない密度のどっしりした太めの枝だった。
 ここからの眺めが不思議だった。上は輝かんばかりの星団、下は一つも明かりのない闇。都会の夜を上下逆さまにひっくり返したら、きっとこんなふうに見えるのだろう。

 幹よりのほうの枝にリヴァイは腰を降ろして片膝を立てた。真琴もそばに座りぷらんと両足を垂らす。穏やかな風が長い髪を優美になびかせるも、忠告を受けた通り空気が冷たかったため、持ってきたストールを二人で分け合った。
「素敵な眺め。こんな景色、ずっと独り占めにしてたなんて、ずるい人」
「独り占めしてたわけじゃない。誘う奴がいなかっただけのことだ」
「リヴァイの部下がいるじゃない」
 リヴァイは嫌そうにした。「俺があいつらを誘う? 考えただけで気色悪い」

「そう? そんなことしてくれる上官、素敵だと思うわ」
「適当に言う。ただでさえ俺は、お前のせいでおかしな噂が立ってるのに、気色悪がられる」
「まさか気にしてるの? リヴァイ兵士長は男好き――」
 おい、いいのか、と無理矢理真琴の言葉を切ってリヴァイは立て膝に腕を預けた。
「くだらないことをくっちゃべってると見逃すが。流れ星を」
 語尾に真琴は喜々と反応した。
「流れ星? ウソ、見られるの?」
「いい子にしてればな」

 真琴は流れ星を見たことがなかった。ニュースで流星群の情報が流れても都会の夜空は大抵が濁りがちで観測できた試しがない。だからいつの間にか、どうせ星なんて出てないと決めつけてじっくりと夜空を観察することが、じわじわと減っていってしまった。それで、くつろいだ様子で空を仰ぐリヴァイから色々聞きたがった。
「どんなふうだった? うらやましい、私まだ見たことなくて。ねぇ、願い事はしてみた?」
「願い事?」
「星が流れているあいだに、三回願いごとを唱えるの。そうすると願いが叶うんだって」
「実際に試してみたのか、それを言い出した奴は。怪しい」
「試したのかは分からないけど」
「三回も唱えろ? まばたきしてるうちに消えちまうのに? 何を願おうか、迷ってるうちに消え去る」
「まえもって願いを用意しておけば、きっと間に合うと思うっ」

 ふーん、とリヴァイは気のないような返事をした。
 星に願い事などという女子が好みそうな話題なんて、リヴァイは退屈だったかもしれない。そう思わせる表情で夜空を見るリヴァイの横顔を観察した。気持ちを読み取れるようになるには長い時間が必要か。それくらい分かりづらい人ではあると真琴は思う。

 ふっ、とふいにリヴァイは空に向かって吹き出した。
「無茶なルールだ。一回唱えるのに精一杯だ」
 え!? と真琴は眼を丸くした。流れ星がいま流れたらしいということではなく、興味がなさそうに見えたリヴァイが願い事をしようとしていたことに意表をつかれたのだ。
 真琴の反応はリヴァイの不興を買う。
「どこを見てた、お前は」
 リヴァイを見つめながら物思いしていた、なんて恥ずかしくて言えない。
「い、いま流れたの? 流れ星? お、教えてよ、もうっ」
 真琴はいまさら仰向いたが、一瞬で散る流れ星が間抜けに留まってくれているはずもなく、豪華絢爛に瞬く星の集団しか眼で捉えられなかった。

「どこにある、教えてやれる暇が」
「あーあ。一晩で何回も見られるものじゃないし……今夜はもうダメかしら」
 惜しさに夜空を食いつくように眺め回している真琴が可笑しく映ったらしい。リヴァイの顔つきが砕ける。
「だから忠告したろう、くっちゃべってると見逃すと」
 主軸である幹を背にリヴァイが凭れたから、ストールが真琴を置いて彼についていってしまった。

「ねえ、どんな願い事をしてみたの? 当ててみよっか? お腹いっぱいお肉を食べられますように? もっと筋肉がつきますように?」
「なんだそりゃあ。願い事ってのはもっと特別なもんだろう」
「そう? 食料不足の現状からしたら、お肉をいっぱい食べたいっていうのは、すごく特別だと思うけど」
 どれもズレたことを言ったのは故意。真琴は眼を眇めた。リヴァイなら何を願うだろう。志半ばで散った仲間が報われるべく、この世から巨人が全滅しますように――きっとこう願ったろうか。彼はいつだってそう、自分のことは二の次なのだ。

「マコ」
 リヴァイはストールを広げながら呼んだ。脚の狭間に来いという仕草に真琴が彼に背中を預けるとストールで包んでくれた。包まれた内側が互いの体温で暖かく、幸せにほうと息をつきそうになったとき、低音が静かに言った。
「海へ行けるよう」
「えっ……」真琴が顔を巡らせると、耳許で囁くものだからリヴァイの唇が耳たぶを掠った。
「そう願ったが、間に合わなかった」
「それって」
 ――彼はいつだってそう、自分のことは二の次なのだ。

「行きたいんだろう? 海へ。メッセージボトルを海へ流してみたくて、海の物語を作っちまうほど焦がれてて、川を辿れば海があると信じてやまない」
 リヴァイは肩を竦めると寂しそうに笑った。
「あまりに哀れだろう。叶えてやりたくなる」
「……お人好しなんだから」

「星に願って叶うとは思っちゃいない。そんなもんに頼るつもりもさらさらない。だから俺が叶える。必ず海へ連れていってやる」
 思いつめたかのようにリヴァイは肩に頭を埋めた。真琴を包み込むリヴァイの腕が痛いくらいに締まる。
「分かるな? 俺が連れていってやると言ってる。一人で行くようなことはするな。そんなことはできやしないと分かってる、杞憂だと分かっちゃいるが」
 分かっていると言うわりに念を押さずにいられないようだった。真琴の出自があやふやだから不安にさせてしまうのか。
 もう潮時だろうか。汚れない澄みきった冬空と清らかな満天の星。嘘を抱き込んだまま眺め続けるのは忍びなく、打ち明けなければいけないような気がした。

「いつかした星の話なんだけど……覚えてる?」
 古城の屋上でした話。リヴァイの頭が少し上がる。
「いま見える星の光は過去の光、そんなだったか」
「うん。どの星だろう」笑って、真琴は夜空に指を差した。「あれかな? それともあっちの青っぽい星だったり?」
「何を探してる」
「あの星だったらいいかも。一番綺麗に輝いてるし」
「マコ?」

 なるべく明るく打ち明けようと思ったのに、真琴の笑みは徐徐に萎んでいってしまった。
「光を反射した星はどれだろうって、私がいた時代に。探してみたんだけど、いっぱいあって分からなかった」
「何を言ってる」
 リヴァイはそこそこの動揺を見せた。多少鈍いくらいの人でよかったのに、そうすればわけの分からない話で終われたのにと真琴は思った。
「お前がいた時代に光った星? それが、いまここでようやく輝いて見える?」
 やめてくれと心のうちで叫ぶように、リヴァイの表情は悲しそうに歪んでいった。
「おいおいおい、待て待て待て。過去に光った星を、お前はいまここで、俺と見てる?」

「どれだけの時が、あなたとのあいだにあるか、私には分からない。百年か、千年か、一億年か。だけど私とあなたの時は不思議にこうして重なってる。重なってるの」
 自失したようにリヴァイはどこか遠くを見た。
「嘘なんだろう? いつにもましてセンスのない嘘をつく」
 そう思っているようには全然聞こえなかった。頭の可怪しい奴だと失笑されたほうが楽だと思った。信じてほしいとは願っていない。ただ、黙っているのがリヴァイを苦しめている要因の一つなら、告白しなくてはならないと思っただけ。けれどリヴァイが嘘だと言ってほしいのなら、自分を嘲笑することぐらいわけない。
「……嘘よ。夢見がちな作家が作ったような、架空の物語、まさか信じちゃったわけ」

 不安定そうな眼をしているが、リヴァイは虚勢を張るふうに顎を上げた。
「だろう? 虚構と事実くらいまともに判断できる」
「うん」
「にんぎょ姫なんていう突飛な話を思いつく奴だ、辻褄合わせはたいしたもんだと褒めてやる。お前に過去がないのも、この国で生きてきた足跡がないのも、物語でしたと全部頷かせるつもりで吐きやがって」
「良くできてるでしょ、全部頷かせちゃうんだもん。その物語ではね、あなたと初めて出逢ったときが、私がこの時代に放り出された日だった。海で津波に襲われて、溺れて辿り着いたのが、未来だったみたい」
「だから海に拘るのか」
「きっかけが海だったから――」
 言うのを迷った。迷って迷って、真琴は口にした。
「自分の時代に帰れる方法があるとしたら、海にあると思ってる。海に行くしかないと思ってる」

「帰れる方法……」少しの沈黙が落ちたが、先を続ける気はリヴァイに見られなかった。
「ヴァールハイトに入ったのは、彼らの研究の力で、帰れる道が開けると知ったから。空を飛んで、海へ出る」
 眼を伏せたリヴァイは長い嘆息を漏らした。諦めたようにぼそりと吐息で言った。
「主人公は、帰ることを望むのか」
 眉を寄せて真琴はかぶりを振った。
「分からないの」
「分からない? 何が分からなくさせてる」

 リヴァイにそれを聞かれるのが一番つらい、つらくて、真琴は顔を覆った。
「あなたよ、リヴァイよ。リヴァイがここにいるから、ここに残りたいって思っちゃうんじゃない。でもっ――生まれた場所と、家族や友達も捨てられなくて、どっちを選んだらいいか、どっちも選べなくて」
「それであのとき、俺に運命を委ねたのか。二つの大事なものを、選ばせようとした」
 真琴を包み込む腕はみるみる脱力していき、かろうじて引っ掛かっていた。はっ、と自虐的に口角を上げる。
「俺は選択してやれそうもない、これからも。そんなことを聞かされたあとじゃ、なおさらだ」

 ひどく胸苦しそうだった。優しい人だから、おそらくそう言うと思った。リヴァイは帰るなとは言えない。真琴に国や家族を捨てろとは、寂しい思いをさせると分かっているから血を吐いても言えない人だろう。リヴァイは帰れとも言えない。真琴に愛する男を捨てろとは、泣かれると分かっているから首を締められても言えない人なのだ。

 それからは物悲しく地球の話をした。世界は想像を遥かに超えて広く、壁の外には滅んだ国々がたくさんあり、大陸や島国が海で繋がっていて、その海を渡ったどこかに、真琴の生まれた国があるのだと。


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