12.広い胸に秘めたる名は2

 しばらく誰も口を開けなかった。
 脱力し、真琴はぺたんと尻を突いた。
「どうしよう。どうしてまた人が死ぬの。こんなことになるだなんて、こんなつもりじゃなかったのに。罪を重ねるつもりなんてなかったのに」
 震える両の手を見つめる。

 リヴァイは真琴の正面に回り込んで片膝を突いた。両肩を掴み、項垂れる真琴を覗き込んで言い聞かせてくる。
「お前の罪じゃない、奴の罪だ。殺ったのは奴だ」
「違う、だって。浅はかな行動を取らなければ、あのまま支部を出ていれば、監視の人は死ななかった」

 リヴァイが思わず眼を伏せたのは、肯定しそうになったからか。思い直すように強い双眸を細め、見据えてきた。
「あのまま支部を出ていたら、ガキとばあさんを救うことはできなかった。命の重さを比べるわけじゃないが、どこかで納得しろ」
 理解させるように肩を揺さぶる。
「いいか、もう一度言う。真琴の罪じゃない、奴の罪だ」

 きっと何度そう言われても罪は胸の中から消えてはくれないだろう。が、
「そうですね」
 と頷きたくない顎を上下させたのは、
「しっかりしてくれ。これから脱出しないといけないんだぞ。ガキとばあさんは衰弱してる。お前にも手伝ってもらわないといけないんだ」
 立ち上がるリヴァイの目許に、うんざりとした疲れが垣間見えたからだった。
「もう忘れろ。悲劇的妄想をしたいのなら帰ってからやってくれ」
 怒りも隠れているようであった。フュルストとのやり取りが関係しているのかもしれないが。

 マイナス思考が見捨てられたと思い込もうとする。気分は落ち込んでいく一方だったが何とか切り替えた。
 少女と老婆を救うことで少しでも償えたらいい。そう思う気持ちは、人間の自分勝手にほかならなかった。

 問題は、
「どうやって脱出するんですか? さすがに二人は目立ちます」
 真琴とリヴァイは憲兵団の格好をしているので正面から出られるかもしれないが。捕らえられていた老婆と少女はそうはいかない。
 リヴァイは地下の先に視線を投げた。
「本部なんかは、有事の際を想定して脱出ルートが用意されている」

 老婆をおんぶさせたリヴァイは、目配せしたほうへ歩き出した。真琴も少女を抱えてあとに続く。
 石壁に、真琴の背丈より低い木製の扉があった。錠前が掛けられていたが、見事にリヴァイが解錠してみせた。

 頭を引っ込めてくぐると、中は坑道のようだった。壁にあった松明をリヴァイが拝借してこなければ真っ暗で何も見えなかっただろう。
 アーチ状に木枠が組まれた低い天井を見上げ、崩落したりしないだろうか、と真琴が気がかりしていたときだった。
 前を歩くリヴァイにおぶられた老婆が顔を巡らせてきた。
「私のたった一人の身内を巨人から助けてくれて、ありがとうね」

 真琴は息を呑んだ。こんなことになってしまったあとで、どうして感謝の心を持てるのか解せなかったからだ。火傷まで負ったのに、なぜ、たおやかでいられるのか。
 言葉を紡げないでいると、老婆は困ったように笑った。

「おや、礼を言ったら変かい?」
「いえ、そうではなく。捕まる前だったら、ボクも素直に受け取れたんですが。いまは、お礼を言われる立場にないと思いますので」
「どうして? 何があったとしても、命の恩人に変わりないだろう? 礼を言うのは当然さ」
 罵られないことに戸惑っていると、老婆は先を続けた。

「物語のことはいまでもちんぷんかんだけど、海の話が拙いことだけは分かっていたよ。憲兵たちは、誰が孫に聞かせたのかを白状させたがってた。けど命の恩人を売ることなんてできないさ」
「火傷のあとが、あんなにあったのはそれで?」
 老婆は肩をすぼめてみせた。
「孫に口止めしてたからさ。頑固ばばぁ呼ばわりされても口を割る気はなかった。でも孫からしたら私の悲鳴がつらかったんだろう。とうとう喋っちゃってね」

 少女は眉を下げた。
「ごめんね。金魚姫のお話、お兄ちゃんから聞いたって言っちゃって」
 少女がそう言ったとき、リヴァイが肩越しに横顔を見せた。異なげに見えたけれど口を挟んでくることはなかった。何が気にかかったのか。
 真琴は少女に緩く頭を振ってみせた。
「謝らないでいいんだよ。君は何も悪くない」

 まだ申し訳が立たずやりきれないが、ここまで言ってくれるのに思いを無碍にするのもどうかと思う。真琴は温かい人情を受け取ることにした。
「おばあちゃんが痛がってるのに、黙っているのはつらかったね。頑張ってくれて、ありがとね」
「うんっ」
 少女は笑顔で頭を縦に振ってくれた。

「出口だ」
 リヴァイの声で前を見据えると、前方にぽっかり空いた穴が見えた。外はすでに黄昏が訪れており、暖色の明かりが出口を照らしている。暖かみのある色が、真琴からようやく不安の色を消し去ってくれた。

 路上で馬車を拾い、老婆と少女を乗せた。そのまま待機してもらい、真琴はリヴァイから今後の助言を受けていた。

「あの二人は名前を変えざるを得ないだろうな、不憫だが」
「別人として暮らしていく、ということですか。そうしないと、いつ命を奪われるか分からないから」
 真琴がしんみり言うと、リヴァイは手重そうに頷いた。
「いままで築きあげてきたものを、すべて捨て去ることになるが、命には代えがたいだろ」

 住み慣れた街を出て、友人も捨てて、どこかの集落に身を置かなければならないだろう。少女は小さいからまだいい。でも老婆からしたら、新天地に順応するのは並々ならない苦心を強いられるかもしれない。それでも命あっての物だねだと思えば受容してくれるだろうけれど。

 なんにしても、真琴は自分の犯した罪の大きさを実感せずにはいられなかった。己だけが無罪放免になり、平穏無事を取り戻しただなんて、神が見ていたとしたら天罰がくだるのではなかろうか――と。
「名前を変えるだなんて簡単にいいますけど、一体どこで」
「お前なら伝手があるだろう、戸籍を用意してくれそうな」
「え……」

 リヴァイに逸らされた瞳には、どこか投げやりで冷えた雰囲気があった。真琴はまじろぎもせずに、双眸の奥を掬い取ろうとした。
 伝手とはフェンデルのことを指しているのか。であるならばなぜそれが戸籍と結びつくのか。答えなら簡単に出る。真琴の出自が紛い物だと見做しているからだ。
 その場しのぎは無意味なものに思えた。だってリヴァイの瞳は、確信めいた揺るぎないものだったからだ。

 真琴はこう思う。自分は嘘の塊で生きている。偽りという泥沼に片足を突っ込んだときから、抜け出せるわけがなかったのだ。ひいてはリヴァイと対等でいられないということであり、隔たる壁は自分の責でもあった。

 真琴は半ば観念して俯いた。
「フェンデルさんに、お願いしてみます。遠縁ですから」
「それがいい」
 路上から、鍔のある帽子を被った馭者がこちらを窺っていた。「まだか」というようであったが、客を配慮できる人間のようで催促されている感じはしなかった。
 沈黙が落ちる。リヴァイはおもむろに口を開いた。

「あのガキ……、にんぎょ姫でなく、金魚姫と言っていたが。俺にあのときタイトルを言うなと伝えてきたのは、そういうことだったのか」
 リヴァイの瞳を見ることができなくて、真琴は落とした視線をただ揺らしていた。
「お前の創作した物語を、なぜラルフの奴は知り得た」
 黙っていると、ひどくしんどそうにリヴァイはかぶりを振った。
「いや、いい。追求したってお前はどうせ喋らない」
 言ってから遠くを見る。
「この世界は……俺の知らないことだらけだ。生を受けた場所だってのに、きな臭くて吐き気がする」

「ごめんなさい……」
 石畳みに向かって重い唇を開くと、リヴァイはか細く返してきた。
「なぜ謝る。謝るな――謝られたら、俺はお前を信じられなくなる」
 そうだろうなと、真琴も思った。逆の立場だったなら、こんな身元不明な人間を信用などできようか。
 それでもなお突き放さずにそばにいてくれるのは、どうしてなのか。そうさせるリヴァイの、その広い胸にある秘めたる名は、なんという名なのか。

「お前の話してくれた、にんぎょ姫の最後だが」
 ぼそりと言うリヴァイの声は、耳を傾けねば聞き逃してしまいそうなものだった。
「実際には海の泡になったんじゃないのか」
「どうしてそう思うんですか」
「娘と婚姻まで決めた王子に、にんぎょ姫に対する真実の愛があったとは、どうにも俺には思えなかった」
「助けには来てくれなかったと、そう思うんですか? それでは人魚姫が不幸じゃないですか」

 沈みゆく太陽を、リヴァイは眼を細めつつ眺めている。
「王子を殺せなかったにんぎょ姫は、望んで泡になった。だがそれは本当に不幸なことか」
 子供のころから知っている童話だ。報われなかった人魚姫を、真琴はずっと不幸だと思ってきた。けれどもリヴァイは違うと言う。

「不幸でなければ、ほかにどう思えばいいんですか」
「王子の愛は手に入らず、だがしかし殺すこともできず。にんぎょ姫は自分を犠牲にすることで愛を貫いたんだろう。神は無慈悲じゃない。そんなにんぎょ姫を哀れに思って、海の精にでもしてやったんじゃないのか」

 犠牲になることも一つの愛のかたち。
 人間が好きな優しい人魚姫は、厳しい掟から解き放たれてやっと自由を手にしたと、リヴァイは言う。航海する人間たちを、海の精となった彼女は見守りながら無事を祈る毎日を送っている。それは何よりも幸せなことなのかもしれないと思えてきた。

 リヴァイが真琴に背を向けた。夕日を浴びる彼の輪郭は、薄ぼんやりと光って見えた。
「愛する者のために死ねる――か。ありえないな。もとより、俺にそんな選択肢もないが」
 つき纏う責任の重さが彼にそう言い置かせたのか。リヴァイは一人帰り道をゆく。靴音が聞こえなくなっても、真琴は後ろ姿をずっと見つめていた。

 愛を知らなければ愛することもできない。ならば愛する者のために自分が犠牲になるなど、あろうはずもない。
 であるならばなぜリヴァイは、人魚姫が犠牲になったと想像し得たのか。溺れまいと撥ね除けている真実の愛が、その胸に存在しているからではないのか――と、真琴は思い做さずにはおれなかったのだった。


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mokuji
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