11.広い胸に秘めたる名は1

 見張り番のいる廊下のほうから、確かに靴音が響いていた。音は次第に大きくなってきており、こちらに近づいてきているのが分かる。
「ど、どうしよう」
 少女を身で隠す真琴は怖じ気づいていた。
「足音は一人だな。……仕方ない」
 唇を噛みそうな顔で、リヴァイは腰許に手を回した。すっと構えた手には、仄明かりの中で先鋭に光るナイフが握られていた。いつの間に用意したのだろう。備品室から拝借したのかもしれない。

 片膝を突いている真琴は、咄嗟にリヴァイのジャケットの裾を引く。
「何をする気ですか。まさか」
 まさか手にかける気か。脱出まであと少しだというのに、ここで騒ぎを起こしたらすべてが水の泡になってしまう。
 リヴァイは前方を注視しながら僅かに振り返った。覚悟の面構えだった。

「ほかに方法はあるか。隠れられる場所もない。やるしかねぇだろ」
「そんなっ」
 小さな悲鳴を上げた。
「そんなことになったら、逃げられたとしても一生追われる身になってしまいますっ。あなたまでもっ」

 すべての責は真琴にある。だというのに、リヴァイまで罪を負うことになってしまう。
 良策など浮かばないのに、真琴は引きとめようと強く裾を引く。半身を軽く捩ってリヴァイが振り払ってきた。

 リヴァイは再び前方を向き直る。真琴からは彼の後頭部しか見えない。
 冗談めいた口調で、
「そうなったら面倒くせぇが、お前と一緒に地の果てまで逃げてやる」
 表情が見えなくても、口端を吊り上げているのだろうと真琴は思った。
 一緒に罪を被ってくれるという。先の見通せない暗闇へ、ともに歩んでくれるという。

 突き上げてくる想いが真琴の顔を歪ませる。
「リヴァイ……」
「大丈夫だ、何とかなる。仕留めるのは最悪の場合だ」
 緊張感が漂っている中で、リヴァイの背中がいつもよりも大きく見えたのだった。

 足音がゆっくりと近づいてくる。前方の曲がり角で、長く伸びる影が屈折していく。その影が後方の壁にぐるりと反転した。角から姿を見せたのは、フュルストだった。
 二人して息を呑んだ。リヴァイは緊張を解いたりしないけれど、真琴は過怠にも胸を撫で下ろした。――兵士でなくてよかったと。

 歩調を変えずにフュルストは歩いてくる。暗闇で影がかかる面は、口端だけがしなっていた。
「やっぱりここだった」
 体勢を低く構えた後ろ足をリヴァイはする。
「俺たちに気づいてやがったか」
「あれは恋人のフリでよかったんだよね?」
 笑むフュルストは首を傾け、
「真琴が連行されたのは知っていたし、君の髪型は特徴あるから」
 と後頭部を撫でる仕草をした。リヴァイとの距離が二メートルほどのところで立ち止まる。

「知っていた? こいつを救出しようと、潜入したとでもいうのか」
 フュルストは薄く笑んだ表情を変えない。
 リヴァイは声低く凄む。
「ここで何をしていた。何を企んでる」
「仲間を救いにきただけだよ、単なる人助けだ。君までいるとは思わなかったけどね」
「本当にそれだけか」

 フュルストは肩を竦ませた。
「何を疑ってるのさ。僕は意外と仲間思いなんだよ」
「ふざけたことを抜かしやがる。てめぇにゃ仲間を陥れようとした前科があるだろう」
 ああ、とフュルストは思い出したように笑う。
「ナイフを忍ばせたこと?」
 ナイフを持つリヴァイの手が柄を締め上げている。怒りを我慢できないという心情だろうか。
「あのときは早まったよ。何事もなくてよかったけど、いまとなっては後悔してる」

 ぞくり、と背中が寒くなった。いまの発言は、真琴を恐怖に落とすほどの残酷さが滲んでいた。本当に二重人格なのではないのかと、人間性を疑いたくなる。

「いまとなってはだと? あのときといまとで、てめぇの心境が変わったとでも?」
 リヴァイが訊き返した。
「そう、変わったんだよ。真琴の人となりを知らなかった僕の浅はかさがさせたことだ。真琴は可能性を秘めている。死なせるわけにはいかない」
 まるで道具のような言い方だった。助けに働いてくれたのが真実ならば感謝しなければならないのだろうけれど、とてもそんなふうに思える気分にはなれないものだった。

「可能性? 馬鹿か」リヴァイは強く吐き捨てる。「役に立たねぇ、足を引っ張る、厄介事を持ち込む。こんな奴に価値などない」
 言いながら片腕を薙ぎ払ってみせた。ひどい言葉の羅列だったが、言いようは若干堅い緊張が見て取れた。

「そうかもね、ただの勘だよ。でも、真琴を不思議に思ったことはない?」
「ああ、奇怪過ぎてついていけないと何度も思ったさ。度肝を抜かす阿呆な行動を取るんでな」
 真琴を馬鹿にしたものであったが、どこか現実を知りたくないといった態だった。背中が拒絶している。

「真琴の不思議さが怖いの?」
 ぎり、と歯ぎしりの音が漏れたのはリヴァイだ。
「僕よりも一緒にいる時間が長い君が、不思議に思わないわけないよね」
「もうやめて、フュルスト!」
 たまらず真琴は叫んだ。自分への疑惑をリヴァイに残すことをしてほしくないからだった。
 フュルストはやにわに眼を少しだけ丸くした。唇に指を一本添える。
「場所をわきまえようね」

 ここが地下牢で、追われる立場にあるということよりも、いまの自分を守ることしか考えられなかった。不思議という種をリヴァイに植えつけようとしているフュルストが、真琴は心底憎く思う。
 松明の炎が揺らぐ。階上からの空気が流れ込んできたのだろう。合わせて金臭さが真琴の鼻を突いた。
 一瞬、錆びた鉄柵の匂いかと思った。途端に脚が震え出す。

「血の臭いがする」
 怯え混じりのぼそりとした声に、リヴァイが反射的に振り返った。すぐさまフュルストに向き直って睨み据える。
「てめぇ、またぞろ」
 フュルストは腕を上げて臭いを嗅いでいる。
「返り血は浴びてないはずだけどな。臭いに敏感だね、真琴は」
 フュルストを通り越した先を、リヴァイは見通そうとする仕草をみせた。フュルストは不適に笑う。
「見張り番は殺ってないよ。殺ったのは、君たちを監視していた男だ」

 リヴァイの肩が大きく上下した。息を呑んだに違いない。
 がくがくと震える手を何とか抑えようと、真琴は少女を強く抱く。
「また自分の手を染めたの」
「だってああしなかったら、君を守れない」
 怒気をよぎらせたリヴァイが間髪入れずに言い放った。
「口を塞がなくても、あの男は喋らなかった」

「君の観察眼は確かだ。あの男は大嘘つきで保身屋さんだからね。だけど絶対という言葉もないでしょ」
 リヴァイは口を利けない。
「甘いよ。真琴を本当に守りたかったら、鬼にも蛇にもなる気でないと。一パーセント未満であれ、不具合は消しておくべきだ」
「そんな守り方をして、あとでこいつが傷つくと思わないのか」
「優し過ぎるね、君は。傷はいつか癒えるけど、殺されたあとでは遅いんだよ」

「なぜそこまでして」
 リヴァイは声を絞り出す。その先は口にしたくなかったのか噤んだ。
 フュルストは揺り籠のように口端を上げた。感情のない微笑みだった。
「入れ込むのか? そうだな。真琴のためなら、僕は死ねるよ。どんなに危険な炎の渦にだって飛び込んでいける」

 そこに愛があるのかないのかは、いま見せている彼の表情からだけでは安易に判断できなかった。フュルストに寄り添ったあの晩、彼の胸には温かな愛が満ちていたから否定が難しかったのだ。
 それだけではなく、目的を果たすだけの道具として思われていると信じたくなくて、どこかで彼の人間らしさに縋ろうとしていた。
 ただ分かることは、何の力も才能もない真琴に、彼が可能性を見出しているということだった。

 リヴァイに向ける視線はすべてを見透かすレンズのようで、フュルストは突き放す物言いをした。
「何もかも捨てて、君は死ねる?」
「両極なものを一緒くたにするなど、くだらない」
「愛と死は両極じゃない。コインの裏表のように密接だよ。死ねないのなら、真琴を手放しなさい」
 唇を噛むリヴァイは、眼を伏せたのみで答えようとしなかった。

 真琴はこの場から消え去りたくてたまらなかった。愛と死を同等にするなど極論だ。馬鹿げていると分かっているのに、「死ねる」と答えられないリヴァイも、彼を責めるフュルストも、つらくて見ていたくなかったのだ。

 そんなときだった。――真琴に包まれていた少女が、腕からすり抜けていったのは。
「お兄ちゃん!」
 それは真琴のことではなく、少女がまっすぐに駆けていく先にあった。フュルストの膝許に抱きついたのだ。
 動揺したのは真琴とリヴァイだけだった。
 満面の笑みで、少女はフュルストを見上げる。見降ろす彼は、大きな手で少女の頭を触れた。手つきは優しげで、目許も同様だった。

「どういうこと」
 ついと真琴が零せば、傍らにいる老婆が口を挟みにくそうながらも言う。
「あんたたちには因縁がありそうだけど。ひどい兵士ばかりの中で、あの若者だけが親切にしてくれたんだよ」
 老婆の話し方からは、ずいぶん前からフュルストが潜入していたことを窺わせた。彼の目的は真琴の救出だけではなさそうに思えた。

 フュルストは少女に微笑みかける。
「今日はお菓子を持ってきていないんだ。その代わり、ようやく怖いところから出られるよ」
「ほんと!?」
「うん、お菓子を貰うより嬉しいでしょう?」

 真琴は知っている。フュルストの二面性を。変化した雰囲気に多少ついていけないが、この優しさも彼なのである。
 が、リヴァイは心底怪訝そうにしていた。手のひらを返したような態度に、裏を読み取ろうとしているように見て取れる。けれどおそらく、フュルストにはなんの思惑もない。
「精神異常者が」
 嫌忌を込めてリヴァイが小さく零した。

 ふいに、フュルストが一本のナイフを投げた。弧を描くナイフは銀色に見えるであろう刃部分が赤く見える。少女と老婆が閉じ込められていた牢屋の、柵のあいだをすり抜けて、ナイフは甲高い音を立てて落ちた。赤く見えたのは目の錯覚ではなく、血糊だった。
 血液に怯えて、ひゅっと息を吸った真琴を、フュルストは気にしない。

「監視の男に、すべての罪をなすりつける。あとは僕がどうにかするよ。真琴のことは頼んだからね」
 そう言い、一度少女に向かって優しく微笑んでからフュルストは踵を返す。階上へと続く角を曲がって消えた。


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mokuji
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