13.大掃除の真っ最中

 兵舎の二階は大掃除の真っ最中だった。
 六人部屋へ向かって廊下を慎重に進む。真琴の背よりも高い新品のクローゼットを、二人がかりで運んでいるただ中である。後ろを確認しながらゲルガーが気張った声を上げた。
「真琴! しっかり持てって!」
「重い……」
 弱音が零れた。後ろ歩きをしている彼に、「はい!」という気合いのある声は出せなかった。クローゼットの底を支える真琴の手は重量のせいで痛い。それは、二の腕の関節が抜けてしまうと思われるほどだ。

「部屋に入れるぞ! 回れ!」
 開け放たれている扉口前でゲルガーは指示してきた。摺り足に近い動作で、真琴は小刻みに向きを変えていく。扉口をくぐれるようクローゼットをまっすぐにした。
「よし! このままゆっくりだ!」
 顔を背後に巡らせたまま、ゲルガーが室内へと進んでいく。配置予定の場所では、ミケが「オーライ」といったふうに腕を振り上げているのが見えた。

 身体を反らせて真琴は踏ん張る。背筋までもが切実な悲鳴を上げていた。
「そこ、ベッドがあるから足をひっかけないようにな」
 誘導している大柄なミケを恨めしく思う。役割を交代してほしかった、と。小柄な真琴より、彼のほうが力があるだろうことは明白だった。
「ストップ! そっと底を着けろ! 手を挟むなよ!」
 歯を食いしばっている真琴は、まともな返事をさっきからできていない。喉から唸りがもれるのみだ。
 真琴は膝頭を曲げて腰を屈めた。細心の注意を払い、クローゼットの底を角から落としていく。ゲルガーも真琴を気にかけながらゆっくりと立てていく。底の全面が着地する間際に素早く手を抜いた。

 クローゼットを無事、配置することができた。ふぅ、と真琴は肩の力を抜いた。底面を担当する者としては、手を離す瞬間が一番緊張するし恐怖する。
「まったく」と息をついたゲルガーはリーゼントの前髪を整えた。「力がなさすぎだろ。こっちが冷や冷やする」
「ご苦労さん」
 とミケが彼を労った。

 真琴はまだ痺れている肩を回して、
「ミケさんが運んだほうが効率がよかったと思います。どう見たって適任ですよ」
 言うと、ゲルガーが首をボキボキと鳴らした。
「俺もミケと組みたかったぜ。気にかけ過ぎて逆に倍疲れた」
「運ぶこと自体は別に構わなかったが、なにぶんジャンケンで勝ってしまったからな」
 ミケはちょび髭を指で伸ばす仕草をした。

 三人は部屋の清掃をしていたのだけれど、新調したクローゼットを誰がここまで運ぶかジャンケンで決めたのだ。提案したのはゲルガーで、負けたのはゲルガーと真琴であった。
 水が張ったバケツの前でゲルガーはしゃがみ込む。
「ジャンケンなんて言わなきゃよかったぜ。始めからミケと運んだほうが楽だった」
 苦々しい面で雑巾を絞った。

「散々な言われようだな」
 困ったふうに笑みをみせてきたのはミケだ。
 婉曲に役に立たないと言われ、真琴だって立場がなかった。が、足を引っ張ったのは事実であり、ゲルガーはナナバと同期の古株でもあり、言わば先輩なのだ。一言物申せるわけもなく、ただ苦い思いを真琴はやり過ごした。
 絞った雑巾をゲルガーが投げてきた。
「窓拭きを頼む」
 キャッチした真琴は、「はい」とだけ言って窓の前に立った。どちらかというと苦手な、布とガラスが擦り合う嫌な音に鳥肌が立ち始める。

 窓ガラス超しに、週末には冬空に切り替わっていそうな秋空を眺めた。いい天気だ。きっと明日も快晴で、絶好の――と頭に浮かんだ次の言葉をゲルガーが攫った。床を雑巾がけしながら言う。
「明日は絶好の新兵歓迎会になりそうだ」
「昨夜まで雨続きだったからな。晴れそうでよかった」
 クローゼットを入れるために外していた扉を、枠に納めているミケが相槌を打った。

 明日の夕方から新兵歓迎会がある。調査兵団を志望したエレンと同期の訓練兵がやってくる日だ。真琴たちが部屋を掃除しているのも彼らを迎えるためだった。
 扉の開閉に問題ないか確認しているミケが口を開いた。
「今年の新兵は二十一名だったか」
「多いよなー、びっくりだ」
 床を拭いていた手を止め、ゲルガーが立て膝をした。

 それは果たして多いのだろうか。一〇四期生の卒兵は二百十八名と聞いた。だがこれはウォールローゼ南方駐屯出身者からである。訓練兵団は東西南北に四つ存在しており、総勢千二百名の訓練兵がいるはずなのだ。
「四つの訓練兵団の総数からしたら、とても少なく思いますけど」
 ゲルガーはあっさりと笑う。
「去年なんかもっと少なかったんだぜ。一桁だ。部屋割りも楽なもんで、こうして一部屋空ける必要もなかった」
「今年は女子も合わせて、五部屋空けなくてはいけなくなったからな」
 ミケが真琴に答えてみせた。

「二十一名だけ」ではなく「二十一名も」という表現が正しいようだ。そして、ひどく珍しいことらしい。 
 殉職者が多数でる調査兵団に、まだ若い少年少女たちが入団してくる。あまり喜ばしいことに思えない真琴だが、古株の先輩からしたら大歓迎なのだろう。
「若い子たちが増えて、賑やかになりますね」
「ひよっ子の世話が増えるだけだ。早々に鍛えてやらんといかんしな」
 笑って、ゲルガーは再び水拭きしていく。ミケがバケツから雑巾を摘まみ出した。
「一ヶ月後には壁外調査を控えているからな」
「それだよな。新兵勧誘式で団長が宣言したって聞いたときは、一人も入団してこないと思ったもんだが」

 人員不足の調査兵団にとって新兵を確保するのに大事な新兵勧誘式で、エルヴィンは厳しい現状を包み隠さず率直に述べたらしい。
「初めての壁外調査で、新兵が亡くなる割合を話されたんですっけ」
 真琴は背後に声をかけた。窓を拭く手の力が入らなくなっていくのは、改めて調査兵団の過酷さを痛感していたからだ。

 力を込めて床を水拭きしているミケは言う。
「現実を知らしめられたというのに、南方駐屯から二十一名が残った。志望しない者が去っていくなか、残った奴らは」
 一旦止め、ミケはバケツの上で雑巾を絞る。いつも表情が乏しい彼は、いまや真情味を帯びていた。
「脚を震わせ、泣きベソながらもしっかりと立ち、心臓を捧げたらしいぞ」

 トロスト区での防衛戦と奪還線で、訓練兵は巨人の恐怖を充分に味わった。それでも二十一名が残ったという。泣きベソだったと話してくれた者のなかには、ミカサとアルミンもおそらく凛と立っていたのだろう。
 脚が震えるのに、泣きそうなのに、それでも残った。真琴の脳裏に浮かぶ情景の彼らは、健気であり、そして気高くも見えた。「二十一名も」残ってくれたのだ、この国の未来のために。

「彼らの決意が簡単に散っていかないように、生き残れるように、真摯な指導をお願いします」
 窓を拭く作業に意識などなく、真琴は新兵をただ憂いて思わず口をついていた。背後がしんとしているのに気づく。
 焦って振り向いた。真琴ごときが生意気な口を利いて良い相手ではない。
「す、すみませんでした! 先輩方に対して、とても失礼な発言でした!」
 口許が半開きのゲルガーは、はっと眼を瞬かせる。それから、少し不服そうにした。
「あ、あったり前だ、馬鹿野郎! お前に言われるまでもないぜ!」
「そうですよね! ご、ごめんなさい!」
 真琴は何度も頭を下げる。

 ミケが重く頷いた。
「俺は指導員じゃないが、気づいたらアドバイスしてやるつもりでいる。壁の外で生き残る術をな。ただならぬ覚悟を持って入団を決めてくれた奴らを、簡単には死なせないさ」
「落ちこぼれのボクよりも、先輩方のほうが新兵のことを考えてますよね。なのに不相応なことを言って申し訳ありませんでした」

 怒っているというよりは、ばつが悪そうにゲルガーは唾を飛ばしてくる。
「分かってんじゃねぇか。お前よりも俺たちのほうが気にかけてんだ」
「そんなに責めてやるな」
 苦笑したミケが宥めて穏やかに言う。
「そもそも、お前がそこまで偉そうな口を利けるとは俺は驚きだ」

 ぎくっ、とゲルガーは肩を揺らした。
「な、何かな、ミケちゃん」
「俺は知ってるぞ。お前、ナナバと賭けをしたそうじゃないか」
 真琴は控えめに訊いてみた。
「なんの賭けですか?」
「今年の新兵が何名入ってくるか、だそうだ。お前は声高々に入団ゼロに賭けたそうじゃないか」
 と言って指を一本立てる。
「なんと一万リラも」

 円に換算すると約五万円相当だ。自分が言った失礼なことも忘れて真琴の眼は白けていく。金を賭けるなんてひどいと思う。
「ナ、ナナバだって一万リラ賭けたんだぜっ。五名のほうにっ」
「賭けを持ちかけたのはゲルガーからだろう。凛々しくも調査兵団を志望してくれた新兵を、賭け事に使うとは」
 首を振ってミケは両手を上げる。
「そんな不埒な奴が兵団にいるなんて、俺はとても恥ずかしい」
 ミケに言われてゲルガーは言い返す言葉もないようだった。居心地悪そうに床を拭くことに集中して誤魔化している。
 ミケと眼が合うと、彼は真琴に口端を上げてみせた。不用意な発言をしたこの場の空気を取りなしてくれたのかもしれない。「ありがとうございます」という思いで真琴は目礼をした。

 窓拭きに集中していると、外で草むしりをしている女兵士たちに目がいった。彼女らはお喋りをしているようで、手がはかどっていない。そういえば最近になって、あまり人魚姫の話題を聞かなくなった。あれだけ世間を賑わせていたのに。
「人魚姫のブームは、もう終わっちゃったんでしょうか」
 つい通じない単語を発してしまった。慌てて言い直そうとしたのに、ゲルガーが普通に反応した。
「一時期あれだな、いろんな名称がついちまったやつだろ。飽きたのか、とんと聞かなくなったな」
「ボクの言葉が分かるんですか」
 真琴は眼を見張った。中央憲兵の男にしか通じなかったのに、何がどうしてそうなったのか翻訳されているらしい。

 ゲルガーは心外だというふうだ。
「馬鹿にすんなよ、興味ねぇ物語だったが耳にはしてたさ。ウォールローゼの運河にある岩山に、水の精っちゅう、べっぴんな女が……えーと何だったっけな」
「航行中の船員たちを誑かして、事故を引き起こすという伝説だ」
 続きをミケが答えた。
 真琴は冗談めかして笑い飛ばしたい気分だった。
「違いますよ。それ人魚姫じゃないですってば」
「伝説は二通りあるらしい。美しい姿で魅惑するほうがゲルガーが言ったやつだな。真琴が聞いたのはこっちのほうかもしれん。綺麗な歌声で魅了するほうだろう」
 ミケはすらすらと言った。

「違いますよ、話も全然違うし。人魚姫は尾びれが……そもそも河が舞台じゃなくて、海じゃないと物語そのものが成立しません」
 真琴の発言は沈黙させてしまうものだったらしい。空気を一蹴したのはゲルガーの大笑いだった。
「お前こそ違うよ。尾びれなんてついてねぇし。勝手に作り替えるなよ」
 奇妙な違和感を真琴は感じていた。人魚姫という単語が通じるし、物語の内容がすげかえっている。それにどこかで聞いた伝説のような気もするけれど。

 懸念するようにミケは声のトーンを落とした。
「いくら兵団内だとしても、海などと簡単に口にするな。目をつけられるぞ」
「そうですね……」
 中央憲兵からまた睨まれては困る。真琴は話題を打ち切ることにした。

「どう? はかどってる?」
 と扉口から声がしたのは、黙々と掃除をしているころのことだった。ゲルガーのもう一人の賭けの相手であるナナバだ。
 ナナバは扉口に手をかけて周りを見回す。
「結構片づいてるね。男だけだから進んでないかと思って様子を見にきたんだけど」
 ナナバはもう一人、女兵士を連れていた。彼女も確かナナバと同期だったと思う。

「リーネも来たのかよ。冷やかしか? 代わってくれるんなら歓迎だが、そうじゃないなら邪魔邪魔」
 帰れ帰れとゲルガーは手で払う。リーネと呼ばれた女兵士は腰に両手を当てた。首を傾けると、緩いウェーブがかかっているミディアムヘアがなびいた。
「あんたがサボってないか監視しにきたのよ。時間ないんだからね。明日の早朝には新兵が越してくるんだから。分かってる?」
「ちゃんとやってるさっ」
 ゲルガーは唇を突き出した。

 まあまあ、とナナバがリーネを和ます。
「かなり綺麗になってるよ。新しいシーツを入れたら、もう終わりそうじゃない。真琴がいるからかな?」
 微笑まれて、真琴はただ首をかしげた。
「リヴァイの班だった真琴なら、あいつにたっぷり仕込まれてるでしょ」と言って語尾をゆっくりと強調させ、「掃除の極意」

 そういうことか、と真琴は笑い返す。
「はい、それはもう身体に染みつくほどに」
 でもちょっと寂しげな思いが滲んでしまったのは、調査兵団本部にリヴァイがいないからだった。名前を出されると偲んでしまい、真琴の表情につい影が差す。離れた想い人に心が飛んでいってしまうのだ。
 恋心は水をやらなくても果実のようにますます熟していく一方で、訪れるかもしれない別れに怯えていた怖さなど遠くへ追いやってしまうほどだった。なるほど恋はまさしく盲目だと思った。

「仕上げに入るか!」
 ゲルガーの声で、遠くへ行っていた真琴の心が戻ってきた。いつの間にかナナバとリーネはいなくなっている。
「真琴。リネン室から新しいシーツと、布団を人数分持ってきてくれ」
 六人分をボク一人でですか? と思わず突っ込もうとすると、代わりにミケが言った。
「一人では無理じゃないか? 布団はかさばる」
「おいおい。やることはほかにもあるんだぜ、ミケさんよ。第一、男相手に甘やかしてどうすんだ」
 ゲルガーは言い、びしっと扉口を指差してみせた。
「おら、行ってこい! ついでに競歩で体力作りだ!」

 ちょっとした訓練も兼ねているのだろうか、いかにも適当な感じであるが。一階と二階を何往復かすれば真琴でも運べるだろうと思い、頷いた。「わかりました」と部屋を出ていこうとしたとき。
「俺も手伝おう」とミケがついてこようとした。そこをゲルガーが止める。
「ちょちょちょ、待て待てミケさん。あんたには備品室から六着分の兵服を持ってきてもらわないと」
「そういうお前は何をするというんだ」

 本日二度目のギクリはゲルガーだ。頬を掻く反対側の手は、胸ポケットを落ち着きなく触っている。はみ出て見える箱は、
「煙草か」
 ミケにズバリ言い当てられたゲルガーは開き直った。
「酒と煙草は俺の動力源なんだよ! 仕上げに取りかかるために必要なエキスだ!」
 はちゃめちゃな言い分だった。ミケは真琴に言う。
「大丈夫か、一人で。備品室と交代するか?」

 真琴は不思議な思いに駆られた。どうしてこんなに気にかけてくれるのか。男であったなら、布団六人分くらい、たとえ大変であったとしても任せるのではないか。
 首をかしげたい思いを胸に、
「大丈夫です、ぱぱっとやっつけちゃいますから。ミケ分隊長は兵服をお願いします」
 と言い残して廊下へ出たのだった。


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