09.空幕たるもの2

 廊下の足音が近くなる。通り過ぎざま、二人は真琴とリヴァイに気づいた。
「最近たるんでるな。秩序も何もあったもんじゃない」
 と知らない男の声がし、
「おい! 場所をわきまえろ! 自室まで我慢できないのか!」
 些か揶揄するように注意してきた。
「若いって羨ましいですね」
 微笑ましげな声はフュルストのものだった。そうして足音はまっすぐ通過していった。

 真琴は離れたくないと思ったけれど、
「やり過ごせたようですね。リヴァイ兵士長?」
 やっぱり返答はなかったが、でも何となく分かっていた。双方が奏でる鼓動から伝わるのは熱情で、離れたくないと、おそらくリヴァイもそう思っていそうだ。

 リヴァイが小さく息を吐いた。名残惜しそうに感じたのは心驕りか。
 離れていく瞬間、真琴は手につい力を入れて引き止めようとしてしまう。
「もうちょっと」
「フリは終いだ」
 されどもリヴァイに躊躇は見られず、引き剥がされてしまった。
 いつもなら、「男になど興味はない」と言うくせに。言えるような気分でないことは、周辺に漂う甘い余韻がそうさせているようだった。

 真琴はやるせなかった。いつまでこんな茶番を続ければいいのか。こんなふうにしか心を通わせられないのがつらい。どう見たって可怪しいじゃないか。これで気づいていないフリをしろというほうが酷だと思う。

 おもむろに前髪を掻き分けて、リヴァイは頭を振った。煩悩を払拭したか。真琴もいい加減、蕩けた脳を切り替えなければならない。
 リヴァイは壁に張りついて通路の様子を窺う。
「曲がっていったか。なぜあいつがここにいる」
 あいつとはフュルストのことだろう。真琴とフュルストに接点があることをリヴァイは知っている。だから意見を言っても差しつかえないか。

「潜入――でしょうか?」
「そのわりには自然体だった。それとも、一緒にいた男も仲間だってのか」
「なくはないでしょうけど」
 リヴァイは真琴を振り返る。
「奴から何も聞かされてないのか?」
「はい……」

 真琴はうわの空で頷いた。ここで鉢合わせした驚きよりも、何の作意があってここにいるのか。そっちのほうに気を取られていたのだった。
 微妙な受け答えをリヴァイは聞き入れてくれた。とぼけているようには見て取れなかったのだろう。

「こんなところで立ち往生してても怪しまれるだけだ。行くぞ、目的は書庫だったな」
「書庫とか、ほかには資料室なんかも気になります」
 リヴァイは歩き出す。
「さしもに資料室は厳重だろう、機密文書を所管している場所だからな」
 なおさら拝見したい。とはいえ、リヴァイが難しいと判断するならば従うしかなかった。そういう約束の上での探査だからだ。
「ともかく、それらしい部屋を探すぞ」
「はいっ」

 歩みを早めて傍らに並んだ真琴は、リヴァイをこっそり見る。探索の不安はいつとはなしに消え、泰然としていられるようになった。
 言わずもがな、隣で余裕綽々を見せつける彼のおかげである。すべてを委ねて大船に乗った気でいられるのは、真琴がリヴァイに絶対な信頼を置いているからにほかならなかった。

 あれからつつがなく進み、そうして行き着いた扉の上部には書庫のプレートを確認できた。
 物々しい木製の両扉の取っ手を、リヴァイは引いて開こうとした。
「鍵がかかってるな」
 引っかかる音が一瞬しただけだった。真琴はがっかりした。結局何の収穫もなしに帰るはめになるのか。

「普通、書庫に鍵なんてつけるでしょうか。全員が鍵を所持してるわけじゃないだろうし、何か調べたいときに自由に閲覧できないと不便なのに」
「ほかの部屋と比べると、扉がいやに立派なのが気になる。鍵も頑丈なタイプだ」
「でも鍵がないですし、諦めて退散しますか?」
 リヴァイは取っ手に手を掛けたまま鍵穴を見据えている。
「いや、いま室内は無人らしい。調べるのには打ってつけだ」
「どうやって調べるというんですか? 入れないのに」

 リヴァイはポケットから針金を取り出した。まさかと思い、真琴は眼を丸くする。
「解錠できるんですか?」
「昔取った杵柄だ。腕が落ちてなければ、な」

 さらりと発したけれど、どこで取った杵柄なのか気になった。家の鍵を失くして、中に入れずに困っている人を助ける便利屋を営んでいたとは思えない。けれど独善的な憶測でリヴァイの尊厳を侵すのもどうかと思うので、真琴は聞いてみることにした。膝を突いて、鍵穴に針金を差し込んでいるリヴァイを覗き込む。

「兵団で、そういう訓練を受けるんですか?」
 中腰の真琴をリヴァイは仰ぎ見る。愚劣な奴め、というふうな力の抜けた眼をみせた。
「巨人を倒す俺たちに、そんな技術が必須と思うか?」
 逆に物問われてしまい、
「いらないですよね……」
 と真琴は苦笑い。ということはこれしかない。
「地下で暮らしていたときに覚えたんですか?」
「言わなかったか、好き勝手していたと」リヴァイは言ってから気づいたように、「真琴には言ってなかったな」と続けた。

 ピッキング技術が必要に迫られる環境とはいかに。生きるためだったのだろうけれど、真琴とはかけ離れた生活を送っていたようだ。
 具体的なことを聞きたいような好奇心と、抽象的に済ませておきたいような逃避心。前者は真琴の知らないリヴァイを知りたいという興味で、後者はリヴァイを犯罪者のような眼で見てしまうかもしれない懸念だった。
 解錠に集中しているリヴァイが話しかけてきた。

「しげしげと見てくるな。気が散る」
「例を挙げるとすれば、好き勝手とはどのようなことを?」
 探究心に勝てず、つい聞いてしまった。
 どうということはなく、リヴァイは悠然と回答すると思われたのに、僅かな静寂が起きた。
「話したって俺は構わないが、お前は軽蔑するかもしれん。おおむね世間様に顔向けできないことだ。こそ泥みたいなこともしたな。真っ白なお前には、考えられないことだろう」

 暗く寂(せき)として言うから、言葉の裏に隠された過去の労苦が汲み取れてしまった。黙々と作業をするリヴァイの背中を見ていると、ツキンと真琴の胸が痛んだ。
 犯罪者のような眼で見てしまうかもしれないという、そんな考えはくだらない心配だった。後悔に苛まれていそうな姿を前にして、そんなことを思えようか。

「生きるためだったんですよね」
 リヴァイは黙として手だけを動かしている。
「そうするしか手段がなかったからですよね。必死で生きてきた人を、ボクは白眼視なんてしないです」
「呆れるほどにお前は白すぎる。俺が犯してきた罪を、知らないからそう言えるんだ」
「そうですね」
 もの柔らかく唇を綻ばせると、リヴァイは手を止めた。嫣然としている真琴を些か奇妙そうに見上げてくる。

「ともあれ、家に忍び込んで金目のものを頂戴しちゃうとか、リンゴをくすねちゃうとか、そんなところでしょう?」
「ずいぶんと軽く言う。俺の手が血に染まっていると、微塵も思わないのか」
 人を手にかけたことは、もしかしてあるのかもしれないと思っていた。食うか食われるかの地下街で、綺麗に生きていくのは無理だろうと言い切れてしまえる。例えそうだとしても、いまリヴァイの瞳が澄んでいるのなら、神様は許してくれなくても真琴だけは許し、いまを見つめようと思えたのだった。

「ちっとも思いません。ボクには赤くも見えませんよ」
「俺には赤く見える」
「それは罪のものじゃないと思います。染まって見えるとしたら、無念に散った仲間のもので、捨て切れない思いが赤く浮き立たせてくるんじゃないんですか」
 己の掌をリヴァイはしばらく見つめる。ぐっと拳にして、再度解錠に取りかかり始めた。ふっと表情を緩める。
「知ったふうな口を」
「生意気でした」

 真琴は知りたいのだ。もっと知って、深く理解したいのだ。その果てにできれば、一緒に苦しみたいし、一緒に悲しみたい。喜びや幸せはほんのちょっとでいい。支え合うことが愛なのだと思うから。

 廊下に短く高い音がこだました。解錠に成功したようだ。
 片膝に手を突いて立ち上がる間際に、リヴァイは小さく吐息を零した。
「そうでもない。知ってもらうってのは、思いのほか悪いことでもないようだ」
 素朴な言葉には温かいものがいっぱい詰まっていた、そう真琴には聞こえたのだった。

 書庫は少しカビ臭く、本から発せられる匂いで満ちていた。カーテンが引かれている窓越しから、ぼやけた陽が差し込んでいる。読書をするには、やや光が足りないくらいだが、がっつり読むつもりではないから不足はしなさそうだ。
 天井すれすれの高さがある書架は、人とすれ違うときに互いが半身を傾けなければ肩がぶつかってしまうほど、本棚と本棚のあいだが狭かった。

 ぎっしりと詰まっている書籍を、おおまかに見上げながら真琴は歩き回る。
 本の隙間から、向かいで同じように見上げているリヴァイが見て取れた。怪訝そうに眉を寄せている。
「ほとんどが、読めないタイトルのものばかりだな」

 真琴もそう思っていたところだった。リヴァイが読めないのは何ら可怪しいことではないと思う。アルミンの本を見せてもらったときと同じ現象であるからだ。
 不可解なのは、翻訳機能がある真琴にも読めないということだった。古代の文字であっても、特別な力が働いているのならば翻訳されてもよさそうなのだけれど。壁外遠征を見送ってからアルミンと帰路を共にしたときに感じた、頭に薄くかかった靄の正体はこれだったのである。

 考えられることは、真琴の歌う英語がリヴァイに通じなかったように、要は馴染みのある言語しか翻訳されない、ということだろう。それはイコール、この国の言語ならば読むのも喋るのにも不便はないということで、とするとアルミンの本は、この国の古代文字ではないという可能性が出てくるのだ。
 ――その証拠を見つけてしまった。

 真琴は脚立に足を掛け、一番上にある書物を手に取った。
「ぷらいど、あんど……次の単語が分からないわ」
 タイトルは、馴染みがあるようで馴染みがない英語だった。不勉強のため何のタイトルであるかまでは読めなかったが、そこに綴られた文字はローマ字だった。
 ほかにもないかと首を回していたら、中段に見覚えのある文字を見つけた。真琴はそこまで脚立を押す。登って、本に指を引っ掛けた。

「ハングル文字よね、これって」
 タイトルや中身など、もちろん真琴にはまったく読めない。けれど複雑な記号はどこかで見たことがあり、韓国語だと思った。まだ二冊しか見つけられていないが、もう決定的だった。――ここはやはり地球なのだ。
 険しい顔をしている真琴のもとへ、リヴァイがやってきた。手に持つ書物を凝視していると、下から問われた。
「読めるのか」
「いえ、読めません」

 真琴は首を横に振った。嘘ではなく本当に読めないのだけれど、知っている文字だということは伏せておきたかった。だって何と説明すればいいのだ。ここが地球だと思っていない人間に、世界は広いということを忘れてしまった人間に。
 文字を知っているのだと告白したら、またリヴァイに奇妙に思われる。お前は何者なのだと、また疑いの眼で見られる。それが恐くて真琴は打ち明けられなかった。

「……古代の文字でしょうか」
「百年前の――壁内に逃げることができなかった民族のものか」
 その解釈は間違っていない。
「かもしれません。時が経つにつれ、忘れ去られてしまった言語なのでしょう」

 それも間違っていないのかもしれない。ここにあるのは過去の遺産で、おそらく誰も読めないに違いない。
 リヴァイは訝しそうにしていた。半分本当のことを混ぜた真琴の嘘は、彼を完全に騙すにたり得なかったようである。だからといって問い質そうとはしてこなかったが、本当は読めるんじゃないか――と、その瞳は懐疑の色を帯びていたように見えた。

 真琴が乗っている脚立の、一段目にリヴァイは腰掛けた。
「ここにあるものは、図書館には一切ないものばかりだろうな」
 リヴァイの丸めた背中に声を落とす。
「保存を許されているのは、中央憲兵団だけかもしれませんね」
「ということは、王政の指示のもとに所管しているということだ」
 片膝に腕を置き、垂れる手を揉み潰す仕草をしている。
「大昔の遺物を一般公開せずに、なぜ隠す」
「外の世界に興味を持たないように――でしょうか」
「なぜ」

 自分に問うているようだったから、真琴は対応に困った。戸惑いながらも考えていると、リヴァイが顔を巡らせて仰ぎ見てきた。
「なぜ興味を持ってはいけない?」
 瞬きをし、真琴は一呼吸分のあとで考えを言う。
「興味を持ったとしても、壁の外は危険ですし、結局は必要のない知識ってことでしょうか」
 王政と中央憲兵団は、世界が広いことを知っているのだろう。人魚姫の物語についても、祖先から引き継いだものだと思われる。頑として秘密にするのは、興味を持った人間が次々と壁外へ出て、無駄に命を落とさぬようにという配慮からか、と真琴は思っていた。
 嫌気が差したようにリヴァイは眼を眇めた。

「俺たちのためと? 平気で人間を殺す奴らだぞ。そんなお人好しには見えない」
「決めつけ過ぎなのでは? 彼らの黒い噂が本当のことだという証拠は、どこにもないじゃないですか」 
「ならば訊く。お前はあいつらが、善良な人間に見えたか」
 真琴は天井を見上げた。染みのない壁紙にラルフの顔が浮かび上がる。邪念な瞳と、歪んだ口許と。
「……見えませんでした」
 だろう? と言いたげにリヴァイは薄目をした。それから表情を改めて、真琴から顔を逸らす。押し殺したような声で言った。
「裏がある。奴らはきな臭い」

 その裏には何が含まれるのか。推測するには材料が乏しいが、真琴にとっては、ここが別世界でなく地球だということは大きな収穫だった。
 気球で海へ出るのは、まったくの無駄ではなくなる。
(でもロウにはこう言われちゃったっけ)

『俺はさ、海なんてもん信じてないんだけど。まあ、あるとしたらだよ? どこらへんにあるんだろう?』
『どこにあるのか、だから空から探すんでしょ』
『お前、分かってる? 壁の外は無限だけど、燃料は限りがあるんだぜ』
 広い大地のどこに海があるのか、当てもないのだから探すのは無謀だとローレンツやフュルストに言われたときは詰んだ気分だった。

 もしかすると、海へ辿り着けないまま、どこかで遭難してしまうかもしれないという不安は尽きないが、強く望む思いがあれば奇跡が起こるかもしれないと信じるしかない。たとえ過去へ帰れなかったとしても、たとえ現在の日本が見る影もないとしても、生まれ育った場所に足を着くことができるのならば。

 ――そうまでして、どうして帰りたいのか。
 真琴はこう思わずにはいられなかった。愛する人ができても、帰ることを捨て切れないのはなぜなのか。何かに導かれているのではないかとさえ思えてきてならない。打ち寄せる波が、砂浜の貝殻をすべて掻き去っていくような、空幕たるものなのだけれど。


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mokuji
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