08.空幕たるもの1

 取調室とは様変わりして、廊下は白磁色の壁で明るかった。照明は等間隔に並ぶ、壁に取り付けられた燭台の炎である。調査兵団本部と違うのは、蝋燭やオイルを燃料としたものではないことだ。丸い硝子に囲まれた炎が燃えているのは、外からガスを引いているからで、いわゆるガス灯というものだった。

 横柄に見て取れる背中が真琴の目の前を歩いている。取調室の外で監視していた、ぎょろりとした眼が特徴の男だ。彼は真琴とリヴァイを出口へと引率している最中だった。
 艶光りする床は踵の音を響かせる。三人分の足音が壁に弾き返されて反響音を立て続けていた。

 とりあえずは無実だと認めてもらえ、この建家から出られることになった。しかるに、真琴は出口への通路に近づくにつれ、足の進みが悪くなっていた。
 とうとう三人分くらいの距離が開いてしまった。だからなのか男が顔を巡らせてきた。遠慮のない視線で、
「歩調を乱すなっ、迅速についてこんかっ」
「は、はい」
 真琴は早歩きする。それを認めた男は再び前を向いて歩き出した。
 斜め前にいるリヴァイが真琴を振り向く。はた迷惑そうな眼だ。
「トロトロしてんな。厄介ごとは、もうごめんだからな」

 そうだ、これ以上問題を起こすわけにはいかない。中央憲兵団南支部。本部ではないとしても、ここはあまりにも雰囲気が妙だ。言うなれば、住む世界が違うという感覚を覚えていた。
 しかしだからこそ、何かあるのではないかと真琴は思ってしまう。帰るのがもったいない気さえしていて、できるならば幾ばくか探査していきたかった。

 好奇心ばかりが勝っているわけでなく、危険性が孕んでいることはもちろん承知している。身内からは、人間に備わっている危険察知能力が、「やめたほうがいい」と警告してくる。だが同じくらいに、野性的感が、「探っていけ」と駆り立ててくるのだ。

 廊下は似たような概観が続いていた。似たような木製扉に、金属のドアノブ。殺風景だから、まるで迷路のように同じところをグルグル回っているのではないかとさえ思えてくる。
 男はリヴァイに話しかけていた。
「あのラルフからよく逃げられたな」
「さもすごい奴だと言いたげだが、謂れでもあるのか」
「検挙率が抜きん出ている奴で、奴に目を付けられれば、どんなに白くても黒にするってな」
「お前が言うほど、たいした奴じゃなかった」

 角を曲がる。視線の先にある卓に真琴の目がいったのは、重量な空気にどうにも不釣り合いだったからだ。
 壁沿いに配置された細い猫足が三本の卓は、木彫りされた装飾に茶がかかった黒檀色で、コンソールテーブルだった。
 アンティークなものには、どうも憧れてしまう。類似したコンソールテーブルを、真琴は欲しいといつか思ったことがあった。

 そういうものを多く取り扱う店で、何時間も睨めっこし、購入を検討したことがあったが結局真琴は断念した。値段が可愛くなかったのもある。けれどそれ以上に必要性が感じられなかったことと、自分の家に突如としてアンティーク調のものが鎮座していたら、と想像してみたのだ。不相応なうえに背伸びしているようで、可笑しい光景にしか見えなかったのである。

 あのとき諦めた卓には、陶器の花瓶に花が生けられていた。せっかくの美しい花を殺すような、鮮やかな絵つけが施されている。真琴なら無地の花瓶か透明なガラス製を選ぶのに、と思っていた。

 リヴァイと男の話はまだ続いていた。汚いことを企んでいそうな顔で、ひそひそと男が言う。
「賄賂でもしたのか? そうすれば釈放してやると言われたんだろ? いくら積んだ?」
「馬鹿か。無実なのに、なぜ金を出さなきゃならない」
 平淡に返すリヴァイは、ただ聞き流しているように見て取れた。面倒なのだろう。

「誤魔化さなくていい。お前たちのことは黙っていてやるから吐けよ。俺はラルフの野郎を失墜させて追放させたいんだ。そうなれば、アイツに代わって俺が検挙率ナンバーワンだ。次期師団長補佐官に、俺かラルフかって話があってな、どうしても引きずり落としたいんだよ」
「てめぇの野望に協力できなくて残念だ。金など積んでいない。一点の曇りもねぇほど白かった、ただそれだけのことだ」
 ちっ、と男が舌を鳴らした。

 青々とした芳香を放つ花々を通り過ぎる瞬間、真琴の手が導かれるように花瓶へと伸びていた。
(ごめんなさい!)
 音もなく手にし、両手を添えて花瓶を振り上げる。傾いた花瓶から、水と一緒に花々がはらはらと落ちていった。
 ちょっとのあいだ男に気絶していてほしい、そんな単純な思考の末の行動だった。
 質量を感じる陶器に、真琴は一瞬怖じ気づく。こんなものが後頭部に当たったら、ただ事ではすまないのではないか――と。
 しかし足止めできなければ探査ができない。

 振り上げた花瓶に逸早く感知したのはリヴァイだった。それは、花瓶が傾き、そこから水が零れて床に落ちる寸前の、およそ一秒にも満たない早業だった。

 真琴の突飛な行動にリヴァイが呆気に取られたのは瞬き一回分だったろう。ただちに表情を引き締めた彼に、敏捷にして腕を止められる。
 狼狽した真琴の手から花瓶が滑り落ちていく。背後の気配に気づいた男が振り返ろうとした。
「うん?」
 リヴァイがすかさず男のうなじに手刀を入れる。
 同時に、零れ落ちていく水が床を叩き、次いで花瓶が割れる音が響いた。続いてどさりと鈍い音がしたのは、監視の男が崩れ落ちたからだった。

 水のように流れる一連の動作に、逆に真琴は呆気に取られていた。が、これで終わりではない。
「大馬鹿野郎がっ。ごめんだと言ったそばからこれだっ」
 切羽詰まったようなリヴァイは稀に見る。手近なドアノブを捻る彼の上部には、備品室のプレートが張られている。運よく鍵が掛かっていなかった扉を開け放った。
 そのあいだ、真琴の腕はリヴァイにずっと捉えられたままだった。彼は男の襟ぐりを掴んで引きづり、大至急な感じで室内へ潜り込む。
 扉を閉めた瞬間に訪れた闇。埃臭い、と真琴が眉を寄せたとき、廊下から慌ただしい足音がしてきた。

「なんだ、いまの音は」
「何か割れる音がしたが」
 聞こえてくるのは渋く低い声で、兵士のものと思われる。

 暗闇に眼が慣れてきた真琴は、リヴァイが扉に耳を寄せているのに気づいた。全神経を尖らせている。
 まだ混沌としている真琴は、まじまじとリヴァイを見てしまっていた。すっ、と流し目してきた彼は唇付近に人差し指をあてがう。物音を立てるなと言いたいことは、さすがに分かった。
 このあとおそらく、こっぴどく叱られるのだろう。と予想しながら、真琴も廊下の声に集中する。

 納得いったような口調で、
「花瓶が落ちたのか。これ、王室から賜ったものだよな」
「不安定なんだよ、この卓が。しばらくしたら撤去するか」
 と聞こえたあとで、ガラスを片づけるような音がした。ややして足音は遠ざかっていった。

 リヴァイは扉に寄りかかる。眉間に皺を寄せて瞼を閉じ、天井を仰いで溜息をついた。心労がありありと伝わってくる。真琴のせいだということは言うまでもない。
 少しでも刑を軽くしようと、真琴は先手を打っておくことにした。ここはとっとと謝っておくべきだ。
「す、すみませんでした」

 常時よりも五割増しの両眼で睨められる。それで肩をびくつかせた真琴は彼に無視された。
 無言のリヴァイは薄闇の備品室で何やら漁り始めた。真琴は思った。怒られたほうが断然マシだった。無反応な態度こそ恐ろしいものはない、と身にしみたのである。

 リヴァイが段ボールから取り出したものは縄と布きれだった。気絶している男のそばで膝を突き、御手の物という具合で拘束していく。口許を塞ぐ目的で当てた布を、男の鼻まで覆ってしまっている。
(あれじゃ呼吸ができずに死んじゃうじゃないっ)
 大慌てで近づき、布をちょっと捲ってあげた。
 男を挟んだ向かいで立て膝をしているリヴァイから再び睨まれていた。強く握られて鬱血している手首をさすりつつ、真琴は上目遣いでもう一度詫び入る。

「……ごめんなさい」
「お前のやることなすこと、理解の範疇を超える」
 地を這うような低音だったが、口を利いてくれたことにほっとした。
「突発的でした。自分でも驚いてます」
「恨みから殺そうとしたのか」

 真琴は眼を見張って首を横に振る。
「ち、違いますっ、そんなのないですっ」
 言ってから、
「もしかして、殺人をさせたくなくて止めたんですか?」
 安直だったようだ。リヴァイが白い眼で見てきた。
「馬鹿か。震える手で花瓶を持つ奴が、的にしっかり当てるとは思わんだろう。下手に掠ってこいつに騒がれたら、巻き添え食うのは俺だからな」
「保身だったわけですか……」
 真琴は唇を尖らせてみせた。ただの嫌味だということは分かっているけれど。

「それで? 何がお前をあんな行動に走らせた」
「ちょっと調べ事をしたいと思って。こんなところ、連行されないかぎり来れないし、なんか怪しいし。書庫とかあれば見てみたいと思いませんか」
 彫刻の考える人のようにリヴァイは思い煩っているように見えた。沈黙がしばらく落ちたのち、瞳を上げた彼には決心の色が垣間見られた。ついさきほどしたラルフとの会話に、腑に落ちない点でも見出したのかもしれない。
「勝手な行動を取らないと約せるか」
「約束しますっ」
 嬉しくて頷きはしたが、保証書をあげられるほどの自信はなかったけれど。

 真琴は男を見降ろした。完全に伸びているようだが、このままにしておいて平気だろうか。途中で覚醒した場合、困ったことになったらと思うと気がかりである。
「この人どうしましょう。目を覚ましたとき、ボクたちがいないことに気づいて大騒ぎしないでしょうか」
 そのようなことになったら、次は別の事案で逮捕されてしまう。
 男のことなど、どうでもよさそうにリヴァイは腰を上げる。

「自分がなぜ気絶したかも分かってないだろ。もし難癖つけてきても、俺たちがシラを切ればいい。てめぇがねんねしてるあいだに先に帰ったとな」
「ずいぶんボクたちに都合のいい話ですが」
「そうでもない。我が身可愛さにコイツは作り事を言う。行きがけに見失ったなどと口にしないさ。近く補佐官になれるかもしれねぇってのに、失態が知れたら面目丸潰れだろう」

 蔑みの語調だった。人生経験が長いリヴァイからしたら、人間の本質を見極めることなど容易いのだろう。人生経験というよりかは、地下での暮らしがその眼を養ったと言えるかもしれないが。
 リヴァイはまた備品を漁り始めた。何を探しているのか。
 室内には三つの棚が並列しており、それだけで空間を十二分に圧迫していた。三段の棚には段ボールや木箱が置かれている。

「何を探しているんですか?」
 傍らに立つと、顔を向けずにリヴァイが服を差し出してきた。透明な袋に入っているのは、綺麗に折り畳まれた薄茶色の服だった。
「調査兵団の格好で、堂々と管内を歩くわけにはいかないだろ」

 袋から取り出したものは、新品の匂いがする憲兵団のジャケットだった。袖を通していると、リヴァイもサイズの合うものが見つかったらしく、同じように着替えていた。
 ちょっとした変装である。が、有名人であるリヴァイがジャケットを変えたのみでは、はたして目を晦ますことができるのか。
(もう一工夫できないかしら)
 と真琴はほかの木箱を探る。黒ぶちの眼鏡を発見した。

「それだけだと心配なので、これもプラスしたほうがいいと思います」
 眼鏡を差し出すと、黙ったままリヴァイは素直に受け取ってくれた。さっそく眼鏡を掛けようとした彼は、立ちくらみを起こしたかのように後ろによろけた。眉間を押さえて頭を振る。
「誰の眼鏡だ、ド近眼がっ」
 どうも近視用の度入り眼鏡だったらしい。視力が良ければ、そりゃあ目眩がしただろうと真琴は思った。

「伊達眼鏡があるといいんですけど、そうそうないですよね」
 木箱に手を突っ込んで小物類を引っ掻き回す。
「それとも付け髭とか……」
「いい。そもそもそんなもん、あるわけないだろう。これで済ます」
 そう言い、リヴァイは眼鏡のレンズ部分を強く押して外した。レンズなしの伊達眼鏡ができあがり、さっと掛けてみせた。
「これでどうだ。少しはマシか」

 精悍な目許に黒ぶち眼鏡のリヴァイを見て、真琴の息が止まった。
 女性の眼鏡は女を下げるという、男性の眼鏡は男を上げるという。謂れ通りの風貌に、感銘という名の拳銃で心臓を貫かれたのだった。

「まあ、……いいんじゃないですか」
 口をついた言葉は、照れ隠しと少しの悔しさが入り乱れた。
 自分など特に有名でもないから、これ以上付け足す必要もないのだが、何だか負けた気がして、ほかに眼鏡はないかと真琴は探した。なかった。
 リヴァイは薄闇で僅かに光る物を腰許に忍ばせた。何であるかまでは確認できなかった。

「何をしてる、お前はそれで充分だろう」
「そうなんですけど……いま一つですよね」
 呆れ返ったのか、は? とリヴァイが双眸を細めた。それから含みの色を混ぜて見てくる。
「せっかくの女顔なんだ、髪の長いヅラでもありゃよかったのにな。そうすりゃ変装も完璧だったろ」
 嚥下した唾が気管に入った。咽せる真琴を尻目にリヴァイは備品室から出ていこうとする。扉付近で付け足す。
「新たな自分を開拓できたかもしれん。残念だったな」
 意地悪を言うリヴァイの背中に追いつき、
「変な趣味になど目覚めたくないので、これでいいです」
「案外、癖になったかもしれねぇぞ」

 からかわれたのか。確信を突いてこないくせに、真琴の胸を揺さぶろうとしてくるリヴァイのその心はいかがなものか。ちょっかいを出したいのか、いじめたいだけなのか。本意は不明であるが、甘酸っぱい思いをいま真琴はしているのだった。

 子供のころの冒険心があればどんなにいいか、無垢だったころが懐かしいと思っていた。
 中央憲兵に扮して廊下を歩く真琴の心臓は、いまにも潰れてぺしゃんこになりそうだった。ノミの心臓は、今日一日で寿命が半分になってしまう。そう思えるくらい、激しい心音が耳にまで響いてくるのだ。
 反対にリヴァイは堂々たる風体である。

「ビビるな、表面に出てるぞ」
「よく平気でいられますね……バレちゃうとか心配しないんですか」
「こういうのはコツがある。平然なさまでいるほうが、意外と勘づかれないもんだ」

 そういうものなのだろうか。もしかすると過去に侵入の経験があるのかもしれない、と真琴は思うのだった。
 丁字路をまっすぐ歩いているときだった。その先の曲がり角から、我が目を疑う人物が姿を現した。
 雑談しながら曲がってくる二人組の兵士のうち、一人がフュルストだったのだ。朗らかに笑みを浮かべる横顔を見て、真琴は眼を剥いた。

 こちらに気づく寸前、彼らが曲がり切る前に横の通路へ引っ張られた。真琴は壁に縫い止められ、リヴァイがまるで隠すように覆ってきた。耳許に吐息が吹きかかる。
「このままやり過ごす」

 リヴァイは前腕を壁に、もう片方の腕を真琴の背に回してきた。互いの胸許が擦り合うほどに抱きしめてくる。
 こんな場合だというのに、胸をときめかせているだなんて真琴はどうかしていた。が、妙な気持ちになっていくのは制御できなかった。

 何とか残っている理性で、
「これはどういう作戦なんでしょうか……」
 訊いてはみたけれど返答はなかった。思いつく限り、恋人のフリだろうか。

 ならば、と真琴は思った。ならば妙な気分のままに、自分からも恋人のフリをしていいだろうか、と。愛しい想いが込み上げてきてしまって、にっちもさっちもいかないから、鎮めるためにも責任を取ってほしい。そう思いながらリヴァイの締まった背に腕を回した。
 きゅっ、とジャケットのユニコーン部分を握れば、ぐっ、と引き寄せられた。ふうわりと香るリヴァイの匂いがして、眼を閉じた真琴は肩に顔を埋めた。
 ――ああ、たったこれだけで満たされてしまう。


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