10.心臓がどくんっ、とやにわに

 そんなおり、突として鍵をいじる音が聞こえた。回廊からのものだ。

 心臓がどくんっ、とやにわに飛び出してしまったかのような錯覚を、真琴は覚えた。一瞬にして氷期が訪れてしまったかのようでもある。
 反射的といったふうなリヴァイに手首を強く引かれる。三段の脚立から一気に飛び降りる羽目になったが、なるだけ衝撃を吸収するように真琴は着地した。
 と、背表紙の単語に惹かれて手にした辞書大の書物を落としてしまう。表表紙と裏表紙を開く形で落ちた書物に手を伸ばす。

「何してんだっ」
「本を落としちゃってっ」
「愚図がっ」
 急を要する感じでリヴァイが代わりに拾い、真琴の胸に叩きつけてきた。本棚に戻す余裕はないのでジャケットの内側に隠す。

 ほっとしたのも束の間、書庫室の隅にあるロッカーのような中へ真琴は押し込まれた。次いでリヴァイも捩じ込むようにして入ってくる。戸を閉めると真っ暗闇だった。
「声を出すなよ。身じろぎもするな、物音が立つ」
 差し迫った感のある、おおむね声とはいえない声だった。

 ごく狭小な空間で、真琴とリヴァイはおしくらまんじゅう状態になっている。彼の両肩に手を掛け、真琴は後ろに摺り足したい衝動を何とか耐えていた。押し込まれたときの立ち位置に失敗して体勢がつらい。
 鍵をいじる音が二回して、扉が開かれたようだった。カツカツと床を叩く靴音がする。ばらばらな響きなので、どうやら二人以上な気がするが。
 真琴の所見は当たっていた。

「鍵が掛かってなかった。誰だ、最後に入室した奴は」
「規律が乱れてるな。一度改善の対策を講じなければならないようだ」
 聞き覚えのない声だったが、固い物言いだった。

 間近にいるはずなのに、顔の輪郭さえ、ぼんやりとも浮かばない。なのに真琴の顔面付近にチクチクと痛いものが刺さってくる。
 リヴァイの視線に相違なく、「なぜ鍵を掛けなかった」と暗に責めているものだろうことは分かった。彼のあとに続いたのは真琴なので、鍵を掛ける役目は自分であり、否も自分にあり、ついては重々反省している最中であった。

 外からゆっくりと徘徊する音がする。
「おい、この本はどこの棚にあったやつだ?」
「背表紙に記してあるだろ」
 ああ、と得心いったような声がしたので、書架番号を確認したのだろうと思った。
「Mの十五だ」

 早く退室してくれ、と真琴は思っていた。このロッカーはどうも掃除用具を収納する場所らしく、埃臭くて我慢ならなかった。加えて細かな塵が舞っているのか、さっきから咳をしたくてたまらない。

「そういや例の調査兵、釈放されたんだってな」
 どきりとした。会話は続く。
「よっぽど真っ白だったってことか?」
「ラルフの話によると、七面倒な奴が弁護についたせいだって零してたぜ」
「それで閉口したってのか。根性なしな奴だ」
 仲間のことなのに彼らは軽笑した。

 真琴は埃を吸い込まないように必死だった。けれど鼻呼吸でも喉がムズムズしてくる。
 埃を撥ね除ける目的で、リヴァイの首許付近に顔を押しつけた。彼はぴくりと痙攣したようだが、真琴は喉のこそばゆさが消えて安堵したのだった。
 脈打つ頸動脈が唇からどくどくと伝わってくる。素肌の温かみも直に感じている。が、恋人のフリをしたときのような恋しさが込み上げてこないのは、おそらく咳を堪えることに真琴の頭がいっぱいだからだ。

 室内の声が、ごく近くで聞こえてきた。ホラー映画の殺人鬼から逃れるために隠れている気分だ。

「結局おおもとを見つけられなかったんだろ」
「ああ。ラルフの野郎も、調査兵の奴がおおもととは睨んでいなかったようだけどな。芋づる式に釣りたかったんだろ」
「例の手配中の?」
「真っ先に疑うなら、そいつだ。連行された奴は男って話だし。俺たちの中にユダがいなきゃな」
「おいおい、俺は違うぜ。とはいえ、可哀想にな。あのガキと婆はまだ当分ブタ箱か」
「当分どころか、一生しゃばの空気は吸えないだろうよ。お気の毒様だ」
「その顔で言うなよ。全然、気の毒そうには見えないぜ」

 笑いは薄情さを感じられた。会話に気になる節もあって、どうやら彼らは真琴に目をつけるよりも先に、見当違いな人物に焦点を合わせているらしかった。
(お願いだから関係ない人を巻き込まないでよ)
 やがて笑い声と足音は離れていき、扉が閉まったあとで錠の掛かる音がした。
 耐えがたいという勢いでリヴァイが戸を開け放った。神経質そうに全身をはたき始め、身体についた塵や埃を振るい落としている。

「蕁麻疹が出そうだ、クソ!」
 真琴も何となく肩を払う。
「引き込まれたロッカーが、まさか清掃用具入れだなんて思いませんでした」
「身を潜められる場所の選択肢がほかにもあれば、まず絶対に対象外だったな」

「隠れんぼで清掃用具入れは無しですね」
 口に手を添えて、我慢し続けていた咳を思う存分する。
「咳き込みそうになるから真っ先に見つかっちゃいます。口許を押さえつけることができたから今回は免れましたけど、すごく焦りました、くしゃみが出たらどうしようって」
 何回か咳を繰り返すと喉が満足した。

 真琴を見ているリヴァイの唇が、ぼうと半開きになっていく。
「それでか。人の首筋に唇を寄せてきたのは」
「それ以外に何だというんですか」
 けろっと返すと、リヴァイの顔色が渋いものに変わった。
「とぼけてんのか、天然なのか。……ったく、紛らわしい」

「何と紛らわしく思ったんですか?」
 零れそうになる笑みを堪えて首をかしげる。このぐらいの意地悪は許されるだろう、真琴だって散々からかわれているのだから。
「咳を抑える目的以外に、リヴァイ兵士長の首に顔を埋める理由がありますか」

「ああ、そうだとも。それ以外に考えられない」
 手を払う仕草で言い捨てたリヴァイは、やけっ腹を起こしているようだ。本棚を見上げながら離れていく。
「小賢しい口を縫いつけてやりたい気分だ。針と糸を持ち合わせてないことが、おおいに残念でならん」
 一生懸命笑いを隠そうとしていても、ポーカーフェイスは得意でないので、鋭い彼には真琴の悪戯心を見破られていたに違いなかった。
 
 何気なく見渡して、ふとシックなビューロに足が向いた。ただ単に素敵だと思って触ってみたくなったからだったが。
 折りたたみ式の天板を開いてみた。小さな引き出しにはペンやインクが収納されていただけであった。その下に四段の引き出しがあるが、一番上だけは鍵が掛かっていた。

 真琴は中身が気になった。まだ全身を気持ち悪そうにしているリヴァイに、
「ここ開けてみてくれますか? 中を見てみたいんです」
 とお願いした。
 入り口の扉よりも簡単に解錠が済んだ。早速、引き出しを開けてみる。ご丁寧に鍵が掛かっているのだから、それは大層な物があるのだろうと思ったのに期待を裏切ってくれた。
「文鎮と、用紙やペンか。こんなもんに鍵をかけるまでもないだろうに」
 リヴァイもがっかりしたようで、そんな口調だった。

「ほかになにか……」
 諦め悪い真琴は一応引き出しの奥まで覗き込んだ。中身をすべて出してみたところ、一枚の紙切れがひらひらと床に落ちていった。
 リヴァイが拾う。

「数字が書いてあるが、書架番号か?」
 メモ用紙ほどの小ささだった。手渡してきたので受け取る。
「N三十三とW七十二。何の本があるか、確認してみます」
 番号通りの本は確かにあった。が、まったく読めない文字のものだった。鍵つきの引き出しに入っていたのだから重要な意味があるのかもしれないけれど、文字が読めなければ意味がないので、つまりメモ用紙は無用の長物だったようだ。

 リヴァイは室内を見回す。
「ここらが潮時だな。怪しく思われる前に、ずらかるぞ」
 とりあえず紙をポケットに突っ込んで、はたと真琴は思い出した。――さきほどの男たちの会話を。
 思わず時が止まった気さえした。危惧していたことなのに、男たちの会話を耳にするまで思い至らなかったことに、平和ボケの自分を叱咤する。
 リヴァイの腕をついと掴んで揺さぶった。

「た、大変です! ボクが人魚姫の話を聞かせた女の子が、捕まってます!」
「なに!? それは大変だ!!」という返答を切望していたのに、リヴァイはくたびれたような顔を見せてきた。
「まさかと思うが、救出しろとか言わねぇよな」

(そういう言い方ってある!?)と、つい罵倒しそうになった口を慌てて閉ざす。機嫌を損ねては駄目だ。嫌々ながらも最後は協力してくれる人だと、真琴は知っている。だが内心、(最っ低)と思ったのは本音だった。

「元凶はボクなんです。さっきの話からは、とても嫌な予感がしました」
 食堂で言っていたラルフの一言、「一般市民を見殺しにする」とはこのことだったのだ。
「まあ、殺されるだろうな」
 あんまりにも親身さがないから真琴は焦燥していく。唇を噛んでみせると、リヴァイは溜息をつきたそうな表情をした。
 少しの沈黙が落ち、リヴァイは顔を伏せてかぶりを振った。

「まったく……お前だけで俺は手一杯だってのに」
 そうぼやいて扉口まで歩き、肩越しに振り返る。
「行くんだろう、早くしろ」
「はいっ」
 光明が差して、真琴は明るく返事をした。心の中で「迷惑ばかりかけて、本当にごめんなさい」と謝りながら。

「彼らが言っていたブタ箱って、どこにあるんでしょうか」
 真琴がそう訊いたのは、書庫を出て再び回廊を歩いているときで、どうしてか来た道を引き返しているからだった。
「豚を飼うなら外だろう。屋内に小屋があったとしたら、臭くて敵わねぇ」
「真面目な話なんですけど……ひょっとして帰ろうとしてませんか?」

 つい半目になった。およそ罪とは言えない罪で少女は捕らえられているのだ。同等に物案じてくれない不満感が募っていく。
 少女に対する心配という名の温度差は仕方ないのかもしれない。真琴とは違い、リヴァイに関わりは一切なかったのだから。だとしても、もっと摯実でいてくれてもいいと思う。ジョークを嘯いているときではないと、真琴は思うからだ。

 眠たいような瞳でリヴァイが見てきた。
「手助けしてやってるのに、そういう物言いはどうなんだ。本当に帰ってもいいんだぞ」
 一人じゃ絶対に無理と分かっているので、真琴は押し黙るしかない。
 リヴァイの視線が真琴から外れる。

「ブタ箱――よもや豚小屋だとは思っちゃいねぇだろうな」
「そのぐらい知ってますよ。牢屋ですよね、地下牢とか」
 言って、真琴は電球がついたようにはっとした。リヴァイがちらりと視線を流してきたから口にする。
「地下!」
「悪さをするときは、大概モグラみたいに地下を選ぶ。拷問するなら、なおのことだ」
 前方を顎で示し、
「さっき通り過ぎたろう。観察眼のねぇ奴だ」

 それは地下への階段だった。始めからここを目指してリヴァイは歩いていたのだ。言葉少なめだし、様相ものんびりとしたものだったから、つい真琴は誤解してしまっていた。少女のためにというよりは、真琴がお願いしたからだろうけれど、尽力してくれていたことに変わりなかった。

 階段を降りてすぐ、角に見張り番がいることに気づいて、真琴の胸がひやっとした。けれどそれは束の間で、ほっと胸を撫で下ろした。
 椅子に腰掛けている男は、背凭れに頭を反らせてぽかんと口を開けていた。いびきまで掻いており、うたた寝している。
 男の傍らに立ったリヴァイに迷いなど見られなかった。
「念のため、より深く眠ってもらうか」
 と情け容赦なく、男の後ろ首に手刀を入れたのだった。

 力のないふにゃけた一声を上げ、男は目の前の卓に突っ伏した。それまで皿に大盛りの肉料理を腹一杯に食べ尽くす夢を見ていたとしたら。「可哀想に……」と真琴は思う。一瞬にして暗転が訪れ、そのまましばらく闇が続くだろうからだ。
 リヴァイの呆れたような眼つきが、自分に刺さっているのに気づいた。真琴の心の声は声音となっていた。

「可哀想? 真面目じゃない奴はどっちだ」
 肉料理のことまで口ずさんでいたろうか、と真琴は冷や汗を掻く。
「痛そうだなって、思ってつい」
「慈悲深いことだな」
 皮肉な口調だった。
 真琴は自分の思考を恥じた。(さっきから何か変だわ。バカなことばかり思い浮かべちゃう)
 緊張感を保てずに弛緩してしまうのは、精神を安定させようとする自己防衛が働いているのかもしれない。気概を入れ直さなければ、と両頬をぴしゃりと叩く。

 リヴァイは男の腰許を探っている。頂戴したのはベルトに垂れ下がっていたもので、金色の輪っかにいくつもの鍵が揺れていた。牢屋の鍵だ。
「行くぞ」

 地下のせいか、靴の音が目立つ。階段下にいた男以外に見張りはいないのに、知らずのうちに音を抑えるように歩いていた。
 片側の壁にある窪みには、松明の炎が揺れていた。それに気を取られていたら、真琴の爪先が引っ掛かりを覚えた。足許がでこぼこの石材のためで、両の壁も同様で錫色をしている。
 暗く、そして一階よりも幾分温度が低い。なおかつ心もとない明かりで影がいやに際立ち、薄気味悪さはひとしおだった。

 少女と老婆が捕らえられている牢屋は、まっすぐ歩いていたらすぐに見つかった。無事だったことに心弛び、真琴は鉄柵に飛びつく。拍子に金属質の音が響き、両手で握りしめた柵は冷たかった。
 よかった無事で、と言おうとした労いの言葉は、喉の奥に引っ込んでしまった。
「も、もう話すことはないよ! やめとくれ!」
 真琴とリヴァイを認めた途端、老婆と少女は隅に身を寄せた。ひどく怯えた様子で目を見開いている。
 よほど恐い思いをしたらしい。真琴が着ている憲兵団のジャケットを見て、また尋問されるとでも思ったのだろうか。
 心中を察すると真琴の胸が痛くなった。怯えさせないように、なるだけ優しく声をかける。

「ボクは憲兵団じゃありません。助けにきたんです」
 鉄柵の錠に、リヴァイが鍵を差し込んでいるのを眼の端で捉えながら、
「覚えてないかな? トロスト区で、君がお婆さんとはぐれてしまったときの、調査兵団のボクだよ」

 老婆に抱かれて震え続けている少女に囁きかけた。少しして、少女の眼が恐怖から無垢な色に変わった。瞳を煌めかせて、少女は口端を引き上げる。
「あのときのお兄ちゃん!」
 ハの字眉で真琴は微笑み、「し――っ」と唇に指を添えた。
 少女は老婆の腕から抜け出して駆け寄ってきた。綺麗なおさげだった髪は、いまやぐしゃぐしゃに乱れ、衣服も薄汚れてしまっている。何日も拘留されていただろうことが窺えた。

「ごめんね。ボクのせいで」
 鉄柵のあいだから手を差し入れて、真琴は少女の頭をそっと撫でた。生涯知らなくていい恐さを味わわせてしまったのは、迂闊な真琴のせいだ。何度謝っても謝り足りなかった。
 少女の後ろから、老婆がよろよろとやってきた。幽霊でも見ているかのように皺だらけの眼を丸くしている。

「やっぱりあんただったのかい、孫を助けてくれたのは」
「変な物語を聞かせてしまったばかりに、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
 真琴は深く頭を下げた。老婆はまだおぼろげな瞳で真琴の頭を見つめている。
 かちゃん、と解錠の音がし、鳥肌が立つような響きを上げて鉄柵の戸が開かれた。
 少女が抱きついてきた。だから屈んで真琴も包み込んだ。

「恐かったよね、ごめんね」
 少女は頭を横に振る。
「お兄ちゃんのこと、恐いおじちゃんたちに喋っちゃったの。ごめんね」
 沈痛に息を吐き、真琴はもっと強く抱きしめた。
「ボクのことはいいんだよ。君はいい子だね、優しい子だ」

 鉄柵の戸をくぐった老婆が足をぐらつかせた。すかさすリヴァイが支える。
「大丈夫か」
 老婆はリヴァイに瞳を上げ、
「すまないね」
 礼を言ってから真琴に顔を向けてきた。

「この子の話が要領を得ないから、遠征のときのあんたと、トロスト区から救出してくれたあんたが、同一人物だとしっかり結びつかなくてね。もしやとは思っていたけど」
 真琴は頭に落ちてくる言葉に、ただ相槌を打った。
「礼に行かなきゃと思っていた矢先だったんだよ、捕まったのが」
 申し訳なくて言葉も出てこない。真琴はただ頭を垂れる。

「そしたら金魚姫の物語を聞かせたのは誰だ、って尋問されてね」
「おばあちゃんね、腕にいっぱい火傷をさせられちゃったの」
 少女が顔を上げてそう言った。真琴は咄嗟に老婆を見る。
「拷問を受けたんですか」
 老婆が苦笑すると、
「見せてみろ」
 と、リヴァイが有無を言わさずに袖を捲って確かめた。老婆の腕は、ひどい水ぶくれで爛れていた。

 老婆は袖を直す。
「どうってことないさ。孫が巨人に喰われたんじゃないかと絶望したときよか、よっぽどマシだ」
 多少衰弱しているようだが老婆は穏やかに見えた。真琴には不思議でならなかった。自分はもっと責められて罵られていいはずだ。
 口を開きかけた老婆をリヴァイが制する。
「静かに」と空気混じりの鋭い声で、真琴たちを庇うように腕を伸ばす。「足音だ」


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