24.いつから勘づいていたのか知らないが

「失礼します」
 真琴は扉をノックしてドアノブを捻った。この部屋はエルヴィン団長の執務室だ。
 立派な書斎机で、何やら書類にペンを走らせている彼の前に立つ。
「お呼びでしょうか」

 ふぅと一息ついて、エルヴィンが顔を上げた。
「訓練中だというのに呼び出してすまないね。君に頼みたいことがあって来てもらった」
「頼みたいこととは何でしょうか」
 呼び出されたときから、背中に冷たい汗を掻くほど緊張していた。真琴のことを懐疑的に思っているエルヴィン。子供騙しのような手紙で彼が抱く疑いを、すべて払拭しきれたとは安易に思っていない。

 張りつめた表情になっている真琴を見て、エルヴィンは笑う。
「緊張しなくていい、別に悪い話じゃない。ただお使いを頼もうと思っただけだ」
「お使い? どこまででしょうか」
「うん」と頷いたエルヴィンは机の引き出しを開けた。中から取り出したものを卓に置き、真琴のほうへ滑らせた。
「これを、旧調査兵団本部にいるリヴァイへ届けてほしい」

 A四サイズの茶封筒だった。表には宛先などの記入はない。真琴はおずおずと手を伸ばし、茶封筒をひっくり返して裏を見てみた。封をされていないのが気になった。
「封を忘れているようです」
 焦げ茶の艶がある卓に再び茶封筒を置いて、エルヴィンのほうへすっと滑らせる。が、彼は茶封筒に三本指を揃えて止め、見据えてきた。
「いや、いいんだ。糊も蝋も切らしていてね、封をするものがない。中身は、次の壁外調査に関する作戦事項の書類が入っている。リヴァイにも目を通しておいてもらいたいものなんだ」

 予定されている壁外調査の全体会議は、まだ行われていない。どうやら幹部のみで作戦の調整をしているようだ。平兵士にはまだ伏せておきたい事柄もあるだろう。とすればこの書類は重要なもののはずである。

「封がされていなければボクはお預かりできません。部屋に糊があったと思います。お持ちしますので、団長がご自身で封をし、できればサインか印をお願いいたします」
「君は真面目だな」エルヴィンは笑って口許で手を組んだ。「たいした書類でもない。中身を失くさなければ、そのままでまったく問題ないものだから、わざわざ部屋に戻らなくてもいい」

「ですが」
 真琴は詰まらせた言葉を言い直す。
「でしたら、届けるのはボクではないほうがよろしいのではないでしょうか」
「なぜ? 君は旧本部への道のりを知っている。説明する手間も省ける。途中で迷子になることもないだろう」
「それならハンジ分隊長やモブリット副分隊長も知っています。彼らのほうがボクより適任かと思います」

 左右には書類の山ができており、片側から一枚摘んだエルヴィンは朱肉をつけた印を押す。
「ハンジとモブリットは駄目だ、頼めない。彼らにはいま、エレンの身体(しんたい)について研究させている。安全に巨人化を解く方法を」
「でしたら、団長が信用しているほかの人物に」
 文書にささっと目を通し、もう片側のほうに彼は重ねた。
「私は君を信用しているよ。病室で身の潔白を証明してくれたじゃないか」

「あのときは、確かに納得してくださったようでしたけど。でも」
「まさかそれを気にして首を縦に振ってくれないのか? 疑り深いな、君は」
 疑り深いのはどっちだ、と言ってやりたかった。朗らかな顔をしているが、腹の中で真琴のことをどう思っているのか、しれたものじゃない。

 失くさなければいいとエルヴィンは言ったが、作戦に関わる機密文書を真琴に託すこと自体、怪しまずにはいられなかった。リヴァイと久しぶりに会える機会が舞い込んできたのは嬉しい。が、罠のような匂いがして素直に喜べない。
「失礼を承知で申し上げます。このことがきっかけで何か起きたら怖いので、やはり別の人間にお願いしてください」

 エルヴィンの蒼い瞳から笑みの色が消えた。真琴をじっと見据えたあと、彼は腰を上げた。書斎机の背後にある、カーテンが閉め切られている窓を目の幅分だけ引く。
 茶系の縦縞模様が入った厚手のカーテン。日中だというのに室内が仄暗かったのは遮光性が高かったから。外は晴れで明るいのになぜ閉め切っているのだろうと、実はずっと真琴は変に思っていた。

「先日、君は中央憲兵団の任意同行に応じたと、リヴァイから報告が上がっている」
「はい。反逆罪の容疑がかかっていましたが、誤解だと納得されたようです」
「彼らは本当に納得したのかな」と言い、顎で真琴を呼んだ。「見てみたまえ」

 困惑しつつも、真琴は指示されたままに僅かな隙間から窓を覗いた。エルヴィンの部屋の窓からは本部の正門が見える。
「いつもの正門の景色ですが」
「もっと奥、木立のあいだだ」
 背丈の差があるために、声を静めるエルヴィンの吐息が頭上に吹きかかるのを感じつつも、真琴は両目を凝らした。
 枝にまばらな、箒のような黄色の葉。見頃の時期がもうすぐ過ぎようとしている銀杏の木。その太い幹の影に人間がいた。

「二人、緑の外套を纏う人物が見えます。……調査兵団?」
「いや、おそらく中央憲兵団だ」
 きっぱり言い切ったエルヴィンがカーテンを閉め直した。真琴に緊張が走る。
「こちらを見張っているように見えましたが」
「私もそう思う。あれに気づいて一週間は経つ」

 エルヴィンが向きを変えると真琴と対面する形になった。端だけ塗料が若干剥がれ落ちている机を、彼は指先で叩く。
「思い当たる節が多過ぎてね。正直、中央憲兵団が何を監視しているのか不明だ。君のことなのか、エレン関係なのか、私――なのかね」
「……エルヴィン団長も?」

「私を面白く思わない人間は意外と多いんだよ。おもに保守派からは相当嫌われているだろう」
 まったく痒くないというふうな態度でエルヴィンは自分を笑う。
「相対するタカ派からある協力要請もあり、我々調査兵団の動向を探っているとも取れる。だがこういうことは前にもあってね。初めてじゃない」
 本人はどうとも感じていなさそうに見える。
「場合によっては、予定している壁外調査を延期せざるを得ないかもれない」

 話に深く切り込むことは憚られ、自然に流すように真琴は続けた。
「ですが気づかれたのが先週からなら、原因はボクと考えるほうが自然な気がします」
「事件後の出来事だからな、そうかもしれない。だが確証もない。で――」
 エルヴィンは椅子の前に回り込み、肘掛けに両手を置きながらゆったりと腰掛けた。
「確証を得るために君を本部から遠ざける。ついでにリヴァイへ届けものがあったから適任だった、ってわけだ」
「遠ざけるって仰られても、旧本部までは半日もあれば往復できてしまいます。そんな短い時間で判断できるものでしょうか」

 再び引き出しを開け、エルヴィンは一枚の紙を机にひらりと置いた。定型文書にいくつかの記入欄が空白になっている紙は、見慣れた休暇届だった。
「しばらく君に休暇を与える。もしターゲットが君だった場合、調査兵でないほうが自分のためにもなるだろう」
 はたと真琴は黙した。彼の言葉を頭の中で反芻する。自宅でゆっくりしろと、単純に言われただけではないと思う。

 表情を崩すことなくエルヴィンは言った。
「言っている意味は分かるね? ここを出たら調査兵の真琴でいないほうがいい――ということだ」
「……分かりました」
 動揺を見せまいと踏ん張ったつもりだが、真琴の声音は堅かった。いつから勘づかれていたのか知らないが、彼にはお見通しだったわけだ。真琴の戸籍が二つ存在することと、おそらく女である――ということも。

「合同演習のときや、ほかにも皆に集合をかけるときは呼びつける。それ以外は、まあ、自由に過ごすといい」
 ペン立てから抜いた羽根ペンで、真琴は休暇届に記入していく。顔を伏せ、右下に自分のサインをしながら「はい」と頷いた。動揺が手に伝わったせいで、最後の一文字がいつもより撥ねてしまった。

 突然エルヴィンの太い指先が真琴の顎をくいと上げた。
「どうしてリヴァイが惹かれるのか」
 凝然と見据え、親指が唇の端を触れる。惑乱を招くような、ねっとりしたやり方で滑らせていく。
「生来の男だと言われれば、中性的過ぎる容貌に戸惑い、心を掻き乱されるのも分からないでもない、か」
「何を……」
「君を見ていると、私の好奇心が疼き出す。リヴァイの報告はとても興味深いものだった」
 真琴が静かに唾を飲み込んだ音はエルヴィンに聞こえただろうか。
「ローレライの件だ。しかしリヴァイは報告書を訂正してきた。それを読んで、私は初めて自分の記憶を疑ったよ」

「リヴァイ兵士長はどう訂正をしたんですか」
「記憶違いだった。問題になった物語はローレライではなく正しくは金魚姫だった、と」
(人魚姫とは言わなかったんだ)
「非常に面白い。ありえないことだが、ありえなくもないと思ってしまってね」
「ありえなくもない?」
 真琴の顎を取っていた指を離し、エルヴィンは椅子の背凭れに背を預けた。
「私の父は、とうの昔に亡くなっているが、学び舎の教師をしていた。学者肌で専攻は歴史学だ。幼いころの私に、父は一つだけ、この世界の矛盾を教えてくれた」

「その矛盾が、今回の報告と関連があるんですか」
「おぼろげだがね。世界に巨人が現れたとき、壁に逃げ込んだ人類だけが生き残った。約百年前だ、そんな遠い昔の出来事でもない。しかし壁の中の人間は外の世界の知識を一切と言っていいほど持っていない。父が抱く疑問はそこだった」
 エルヴィンは語る。過去の歴史を伝えてくれるのは、なにも書物だけではない。祖先からの口頭でも受け継がれていくものだと。

「不自然なのだよ、何も言い伝えられていないことが。まるで壁の中に逃げ込んだ瞬間に、それまでの記憶が改竄されてしまったかのように」
「その不自然さと、今回の物語の終息に類似点があるとお考えなんですね。その……疑うわけじゃないんですが、リヴァイ兵士長の報告を信じていらっしゃるんですか。それこそ彼の勘違いということも」
「信憑性うんぬんよりも、私は面白く思っているんだ」

 エルヴィンの口角がゆっくりと吊り上がっていく。遠くを見ているような蒼い瞳は幼子のようにきらきらと光って見えた。自分の予想が真実に近いと知ったとき、人は高揚して薄気味悪い笑みをもらすのかもしれないと思った。
「壁の中に逃げ込んだという事実さえもどうなのか。あるいは、我々は本当に飼われているのかもしれない」
「巨人にですか? 犬が羊を追い込むように、人類を壁という小屋の中に閉じ込めたと?」
「巨人を犬に例えると、どうなるかな。さあ、飼われているのなら飼育者がいないと羊は死んでしまうよ。まあ、人間は自給自足をする生き物であるから正しくない表現だが」

「まさかボクたちが管理されていると? それは何に」
「政府――かな。中央憲兵団支部で君たちは見つけたんだろう? あらゆる言語で書かれている書物を」
 真琴は顔色を悪くした。火でじくじくと熱せられた焼き金で、額に焼き印を押された気分だった。
「リヴァイはきっちりと報告してくれたよ。君が巻き込んだ少女と老婆を救出したことも。その顔じゃ私に知られたくないこともあるんだろう。リヴァイのことだ、君に不利になるようなことは伏せているのだろうがね」
 真琴が持ったままだった羽根ペンを、エルヴィンはそっと取り上げた。
「笑わないね、私の仮説を。リヴァイも笑わなかった」

 エルヴィンはずいっと身を乗り出した。
「私に話す気はないか? 君が知っていることのすべてを」
「ご期待に添えず申し訳ありません。リヴァイ兵士長が報告されたことが、ボクの知っているすべてです」
 エルヴィンは皮肉そうに口端を上げた。「なるほど」そして、あっさり引き下がるように置き時計を見た。
「もうすぐ日暮れだな、明日出発したほうがいいだろう。夜明けとともに発ちなさい。そのとき書類を取りに、また部屋へ来てくれ」
「分かりました。では……」
 真琴は浅く頭を下げて扉に向かった。乱れた字からエルヴィンが何を推し量るのかと想像すると、くしゃくしゃに丸めて書き直したい衝動に駆られたのだった。


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