23.風がないのでみなもは穏やかだ

 青い空を鳥の群れがはばたいている。大型船の甲板で立つ真琴は、欄干に両腕を預けて景色を眺めていた。
 広い河は水深が深いようで、表面は白金を塗したかのごとくきらきらとしているが黒っぽい色をしている。風がなく、みなもは穏やかで、大きい船だから揺れもほとんど感じない。
 水面を何となしに見降ろしていた真琴は、ふと呟きたくなった。

「キラキラと白く煌めく……足許が不安定で気分が悪く……」
 自分の足許に目線を落とす。安定感のある船は揺れない、微かに伝わるエンジンの振動のみである。これが小型船だったなら、激しく縦横に揺れるかもしれないと思った。
「もしかして……彼は船に乗っていた? 気分が悪くなったのは……船酔い?」
 もう少し考えを巡らせたかったが、

「水門が上がるぞ!」
 甲板にいる人間から上がった、わくわく感のある声が思考を邪魔した。見てくれから旅行客っぽくないのに、表情を輝かせて水門が引き上げられるのを、皆食い入る。
 ちょっと分かる気がする、と真琴は小さく笑った。見慣れていても大掛かりな動作を必要とするものは、いつ見ても心が少年少女に戻ってしまう。

 遠くに見える水門が上がった。水位が上がり、貨客船は下流に向かって運航していく。ウォールローゼに入るのもあと少しだ。
 ウォールシーナとウォールローゼを隔てる巨大な壁。そこにある水門を通り過ぎていくとき、街の向こうのほうに人集りが見えた。
 人集りは門扉を中心に広がり、薄らだが罵声のようなものが聞こえてくる。切れっ端のような旗を振り撒いていたり、拡声器を持っていたり、門扉に向かって何か投げている人もいる。

 隣にいた男が興奮の声を上げた。
「暴動だ! こんなところで鉢合わせするなんて!」
 黄土色のハンチングを被っている青年は、首から下げている立派なカメラを急いで構える。
「抵抗運動の奴らもいる! 明日の一面はうちが貰ったぞ!」

 欄干に肘を置いてカメラを固定し、雨がトタン屋根を叩くようなシャッター音を響かせて休みなく撮っている。蓄音機のホーンのようなアンブレラから、ストロボが激しく明滅を繰り返す。
 上質でなく、お下がりのような毛羽立ちが若干目立つカントリースーツの男だ。口ぶりや持っている器材などから記者なのだと窺えた。

 違うアングルで撮ろうとしたのだろう、男がカメラを構えながら斜めに後退していく。
(危なっかしいな〜。あの足つき、転びそう)
 がしゃん、と大きな衝撃音に首を竦める。夢中で写真を撮っていた男が、「ああ!」と裏声で喚いた。首から下げていたカメラが甲板に落下したのだ。

「やっちゃった! 社で借りてるやつなのに、壊れちゃったら減給ものだよ。ただでさえうちはケチで少ないのに〜」
 泣きそうな顔でしゃがみ込み、拾ったカメラを隅から隅まで点検している。
「このことはロイさんに言えないな。あの人、社の支給物にはうるさいからなぁ」

 ロイとは彼の上司なのかもしれない。男がシャッターを押すと、カメラは軽快な音を立てた。ちゃんと機能しているようだが、アンブレラが僅かに歪んでしまっていた。
 が、ほっとしたような表情で男は立ち上がる。
「よかった、どこも壊れてないや。首が繋がった」

(本当によく見た? 見落としてるみたいよ)
 欄干に寄りかかってずっと見守っていた真琴は指を差す。
 笑って、
「傘、曲がっちゃってますよ」
「ええ!? どこ、どこ!?」頓狂な声を出して男はカメラを抱え直し、「うわぁ! やっちゃったよ!」
「首、大丈夫でしょうか?」と訊くと、「まずいな〜。ぽとりと落ちちゃうかもしれない」と冷や汗が出ていそうな様相で首の後ろを掻いた。

 アンブレラを指でいじり、型を直そうとしている。
「最初から歪んでました、って言い張ろうかな。うん、それがいいや」
 とぼける道を男は選んだようだった。
「河に落ちなくてよかったですね。そうなってたら、誤魔化すどころじゃなかったかも」
「それだけは運がよかった。違う方向からの画もほしくて下がったのが、怪我の功名だったよ」

 首に垂れ下がっている革ひもを男は気にする。
「留め具が傷んでたみたいだ。これからは紐にも気をつけなくちゃ」
「後ろを確認もせずに下がるのも、転びそうで危ないと思いますけど」

 気の抜けた部分もありそうだが、熱血漢な一面もありそうな男に見えた。初対面なのに気さくで話しかけやすい。
 ついと男が眼を丸くした。真琴のジャケットを見て、いまさらながら兵団の者だと気づいたらしい。

「君、調査兵団の人だったんだ。何かの縁だ、最近の情勢について取材を」
 彼の言葉は、何発もの銃声音によって途切れた。
 腹にまで響く音に真琴の肩が一瞬跳ねる。銃声は一定の間隔で鳴り続けている。
「な、なに?」

 欄干から半身を乗り出して音のしたほうに眼を凝らす。やや離れてしまったさっきの門付近から、天に向かって細い煙が何本も立ちのぼっている。

「憲兵による威嚇射撃だよ。暴徒を退けるためのね」
 記者らしい正義あふれる堅い顔で男は言う。
「先日は彼らに押し寄せられて、シーナへの進行を許してしまったからね。相手は民衆だけど、憲兵にもメンツがある。人に対して銃を向けることは、まさかないとは思うけど」

「シーナでも暴徒が暴れたんですか。王都まで広がるのも時間の問題ですね」
 男は呆れたように眼を見開く。
「君、知らなかったの? ダメだよ、国で雇われてる兵士でしょう。情勢はちゃんと把握しておいてもらわなくちゃ」
「すみません。そういうことに疎くて」

「反乱分子は風船を膨らませるみたいに、どんどん勢力を増してる。貧乏貴族や、もともと政府のやり方を不満に思っていたタカ派が協力的でね。彼らを影で支援してるようなんだ」
「さっき言ってた、抵抗運動の人たちって?」
「先導を切ってる奴らだよ。赤いたすきをかけてるから一目で分かる。ヴァールハイトっていう秘密結社の連中らしいね」
 秘密結社の名前が出てきて、一瞬で冷えた心臓がどくんと脈打った。組織名をおおっぴらにすることで抵抗運動の追い風に使ったのかもしれない。

「タカ派が協力しているとおっしゃいましたが、彼らに迷惑をかけている放火犯は捕まったんですか?」
「迷惑をかけている放火犯?」
 楽観視したことで、おおいに眉を顰めた男は怒り口調だ。
「君、いい加減暢気すぎるよ。迷惑だなんてとんでもない! 放火犯の手口は残酷そのものだ。ただ屋敷に火を放つだけでなく、そこの主人を殺していくんだよ!」

 男の気迫に真琴は竦む。
「放火が原因じゃなくて、直接殺されてるわけですか?」
「そう! まるで悪魔だ! 狙われたら逃げるまもなく確実に殺されてる!」
 どこにぶつけるでもなく男は怒り、胸ポケットからペンが挟まっている黒い手帳を引き抜いた。挟んであった紙がひらひらと舞っていったが、
「こんな酷い犯人を、憲兵は本腰を入れて調査しようとしない。そのことについて、調査兵団である君の意見を聞かせてくれないか」
 手帳を開いてペンを持ち男は迫る。

「口うるさいタカ派が被害者だから、とは聞きましたが。え〜と、どうして憲兵は本腰を入れないのかな……?」
 取材なのに真琴は問い返した。
 だめだ、これは。と、匙を投げたように男は額をぴしゃっと叩く。
「君ってあれかな? まったく国のことに興味ないんだね。いや、いるよ、そういう人も中には」
 頭が悪そうな奴だと思われていそうだ。

 期待はずれというふうな様子をあからさまに、男は手帳を畳む。
「放火の手口が陰湿だからね。ある筋からの話によると、憲兵もそろそろ黙っていたくないらしいんだ。だっていうのに、どこかから圧力をかけられているらしいんだよ」
「圧力は、憲兵団のトップから下に、ってことですか?」
 はっきりと男は首を横に振る。

「いや。ナイル師団長にこのことを言及してみたんだけど、彼、眉を曇らせたんだよね。もっと上からの圧力か、それより力のある者からなのか。その辺は僕の憶測だけど、外れてないと思うな〜」
 腕を組んで男は力説し、うんうんと頷きながら、
「きな臭いよ〜、この国は。昔から変に思わなかったほうが可怪しかったんだ」
「……中央憲兵団かも」

 そよ風とともに男の耳に自然と入っていくような感じで真琴は囁いた。発明でもしたかのように、彼は眼をかっと見開く。

「それ面白いね! 上からの圧力が政府、力のある者が中央憲兵団で、どっちかから憲兵団は抑えられてる! 謎が多い中央だ、面白い記事に」
 抑揚をつけて流暢に語っていた男だが、途端に項垂れる。
「ダメだ、このあいだロイさんに釘を刺されたばかりだったんだ。突っ込んだ記事は書いちゃいけないって」

「そのロイさんて、記者を始めて長いんですか?」
「大ベテランだよ。あらゆるパイプを持ってるし、記事を書かせたら右に出る者はいないってね。僕も彼を目指して頑張ってるけど、尊敬できない部分があるんだよな」
「どんなところが気になるんですか?」

 帽子の鍔を摘まみ、男は頭に馴染ませるように動かす。
「壁の中に住む者は、大人しく暮らす理があるんだって。だから民衆に混乱を招くような記事は、起こしちゃいけないって言うんだ。だけどこれってジャーナリズムに反しているよう気がして、どうも納得いかないんだよな」
「文屋さんも、国の支配下にあるってことですね」

 無造作な眉を寄せて、男は見開いた瞳を揺らした。報道の自由がないことを改めて真琴に知らしめられた彼は、ショックを受けたようだった。火が消えたように頭を垂れる。

 手帳を開いたときに男が落とした紙を、真琴は屈んで拾う。クリーム色の面を裏返すと男の顔が印刷されており、横に名前や社名が書いてあった。名刺だった。
「名刺落ちてしましたよ、ピュレさん。珍しいですね、顔写真付きだなんて」
 立ち上がって彼に手渡す。

「ああ、ありがとう。身分を示す代わりにもなるかなって。僕ら取材で兵団に出入りしたり、審議にも顔を出すしね」
「やっぱりモノクロですよね……」

 誰にでもなく呟いた真琴に、ピュレは「え?」と首を捻った。
「あ! 待って、それ――」
 瞬間何かを思いついて、真琴は返したばかりの名刺を彼の手からもぎ取る。
「な、なに!? ほ、ほしいならあげてもいいけど、ちょっと乱暴すぎないかい?」

 びっくりしているピュレを無視し、真琴は名刺をしげしげと見た。彼の顔や書いてある文面ではなく、その並びを。胸がざわざわとしていく。写真の横に名前、社名、
「社員証!」

 アニが見たという真琴に似ていた写真は、会社の社員証だった可能性が出てきた。爪大の金色の板とは接触型ICチップだ。
 真実社員証だったのなら、バッグも一緒にこちらに来たということである。それを中央憲兵団の人間が拾ったのだろう。ただ引っ掛かっていることもあった。読み上げられた名前が「真琴」ではなかったというから、決めつけられずにいた。

 とっくに通り過ぎて、遥か遠くになったウォールシーナの方角を真琴は見つめる。なぜあの話のときに社員証に辿り着かなかったのだろうと、後悔していた。もっと詳しく聞きたい衝動に駆られながら、ただ唇を噛んだのだった。


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mokuji
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