27.夜明けを待つ黒い海

 亡霊にそこはかとなく見られているような寒気を感じさせる、暗晦な廊下を歩く。自分の足音を怖がって、真琴はたびたび後ろを振り返る。就寝時間を過ぎた古城は静まり返っており、越冬中である虫の鳴き声などしない。
 リヴァイの部屋までやってきた真琴は、戸のない扉口から室内を密やかに覗き込んだ。ベッドに人型の膨らみがあることに胸を撫で下ろす。念には念を、それが枕を包み込んだダミーではなく本物であるか、抜き足で近づいていく。

 リヴァイは毛布を深くかけて身体を横にしていた。上半身が緩やかに上下している。
(よかった。ちゃんと部屋にいた)
 再び胸を撫で下ろし、真琴は部屋から出ようと踵を巡らせた。突如、毛布から這い出てきた手が、手首にぱしっと絡みつく。
(ひっ!?)
 予期せぬことで、暴れ出した心臓が内側から胸許を叩きつける。びっくりして悲鳴を上げそうになった声を喉に押し込み、真琴はベッドを振り返った。

「夜這いか。大胆だ」
 寝ていたと思っていたのに、真琴を仰ぐリヴァイの眼は涼やかだった。廊下の辺りからすでに気配を感じ取られていたらしい。
 動乱し、真琴の声は裏返る。
「よ、夜這いなんかじゃない」
「そりゃ残念。それで? こそ泥失格のマコが、何用だ」
「えっと……」

 真琴がリヴァイの様子を見にきたのは、ずっと胸を燻っている原因のせいで、それは以前、古城に来たときに持ち帰ってきてしまったものだった。気にかかっていたことを口にするのは悔しくて憚られ、寝巻きの布地を撫でつける。

「夜這いじゃないもの。そんなこと考えてもない」
「それは分かった」
 包容力のあるリヴァイの手が、真琴の手首から手の甲に滑っていく。
「マコ?」
 彼は宥めるように促した。こう囁かれると弱く、白状したくないのに、真琴の声は吸い出されていった。
「……あなたが部屋にいるか、気になって」
 主旨が分からないのはもっともで、リヴァイの眉が寄る。
「どこかへ出掛けてないか、気になったのっ」

「夜にどこへ出掛ける。便所は中だが、お前に一言残さねぇと、いちいち不安にさせるのか」
「男の人がこそこそ通う所よ。心当たりがないなんて、言わせないから」
 格子窓一つの青白い部屋でリヴァイは僅かに眼を見開いてみせた。風冴ゆ今夜は月が出ていた。
 リヴァイがよその女を抱きにいっているのではないか、真琴はそれが気がかりだったのだ。手に触れているリヴァイの指は、緩徐に、けれど落ち着きなくうごめく。

「マコがいて、どうして行ける」
「あなたが部屋にいるんだって分かれば、それでいいの」
 おやすみなさい、と去ろうとして、リヴァイの手が引き止めた。
「まさか気にしてたのか」
 真琴にとっては当然のことを、いま思い至ったというふうに彼は聞いた。わなわなと、にわかに小さな怒気が両肩に取り憑く。

「当たり前でしょう。なんとも思わない女がいるんなら、紹介してもらいたいわ。どういうふうに思ってたの」
「そういうことに、寛容な女だと思っていた」
「ずいぶんと都合がいい考えねっ、寛容なわけないでしょっ。人にはほかの男に触れるなって、言っておきながらっ」
 ベッドの枠を蹴りつけ、真琴は廊下に戻ろうとした。仰向けの身体を少し捩って、またぞろリヴァイが止める。

「待て。差し当たり、俺はどうすればいい」
「自分で考えて」
「文句を言う機会は何度かあったろう。なぜ我慢してた」
 聞かれて真琴は胸が苦しくなった。腹の中の怒気が鎮火して、侘しさが広がる。
「言えるわけないじゃない、文句なんて」
「なぜ? 言やいいだろう」

 真琴はのろのろと向き直った。
「言えないわよ。ほかの女の人に触れないで、って。そんなこと言える立場じゃないもの」
「立場?」
「私、リヴァイの奥さんでもないし、恋人でもないのよ。そんな女に言われたら、面白くないでしょ」
 本当は大きな声で、私以外の女に触れないで、と悲鳴を上げたかった。真琴はリヴァイが思っているような理解ある女ではなく、勘違いするなとか、束縛するなとか、疎ましく思われたくなくて、知らないフリをしてきただけだったのだ。

 沈黙が落ちる。部屋と同等に暗い真琴とは裏腹に、リヴァイの眼差しは凪いで見えた。
「くだらないことを」緩くかぶりを振って打ち消す。「いや、くだらなくはない。鬱憤があれば、溜め込まないでぶちまけろ。遠慮などしなくていい」
「でも言っちゃうと、リヴァイを困らせるわ」

 リヴァイは薄く笑った。
「困らないから、言え」
 そう軽く手を揺さぶられ、男の事情もあると分かっているが、申し訳ない面持ちを胸に真琴は吐露した。
「そういうお店に、もう行かないで」
「分かった。もう行かない」
「嘘だわ」
「おいおい、即答かよ。どうしてそう言える」
 リヴァイは穏やかな面差しで聞き返した。

「よく分からないけど、男の人って困るんでしょう。そういう所へ行かないと、身体がつらくなるものだって、聞いたし」
「それで困らせる――か」目許がさらに凪いだ。「そんなのはどうとでもなる。マコが気にすることじゃない」
「どうして――」

 切なさが余って言葉に詰まった。恋人でもないのに、どうして真琴の願いを聞き入れてくれるのか。リヴァイの胸の内を肉声で聞きたくてたまらなくなる、それこそ彼を困らせるだけなのだと分かっていても。
 夜明けを待つ黒い海のようなリヴァイの瞳が、どうしたと聞く。溢れてくる想いで涙しそうになり、真琴は眼を伏せてかぶりを振った。

「……ううん」
「終いか、お前の用は」
「うん。安心して眠れそう」真琴はささやかに微笑した。胸に燻っていたものをリヴァイが綺麗に掃き出してくれたから。

「じゃ……おやすみなさい」
 今度こそ離れようとすると、ためらうような間のあとで、背後から衣擦れの音がした。次いでリヴァイに手を引かれて、雪崩れるようにベッドに腰を降ろしていた。長袖のシャツのリヴァイの腕が、真琴の胸許に絡みつく。

「二人なら、もっと安心して眠れると、俺は提案する」
「でもっ」
「逆らう? まさかな。マコが選べる選択肢は、一つしか用意されていないが」
 もっとも、と耳許に熱せられた息を吹きかける。
「嫌じゃないだろう」
 彼の束縛は些かも厭わしくなく、むしろ真琴は愉悦を覚えた。縺れ合いながら古城を這う冬ツタのように、より強固に絡めとってくれと、自ら望んだのだった。

 窓の外から入り込む月華だけでも、薄闇に眼が慣れると戸の枠がしかと見て取れた。一枚の毛布を二人で分け、真琴は後ろからリヴァイに包まれていた。静けさの中では息づかいさえも控え気味になってしまう。
「扉、入れたほうがいいんじゃない。誰かが来たら、って気にならないの」
「今日までは別段。私的な時間を邪魔されたこともない」
「あなたがそう思ってるなら、いいんだけど」
 リヴァイは真琴の耳の裏に顔を埋める。
「マコがいるなら、戸をつけたほうがいいかもしれん」

 それは明日も、という意味か。明日の夜も、明後日の夜も、明々後日の夜も、リヴァイは一緒に過ごしてくれるという。ひんやりする部屋で、一人で眠らなくていいという。
 窓枠付近のガラスに露が生じていた。この国は冬の訪れが早い。

「今朝のことだが」
「今朝のこと?」
「俺に黙っていることがある。そうだな?」
 黙っていることといえば、エルヴィンから休暇をもらった理由が思いつく。
「ないわよ、別に」

 リヴァイの溜息が真琴の後ろ髪を通った。食堂を賑わせていたころを懐かしく思いながら、いまや忘れ去られて朽ちていくだけの古城のような寂しさがあった。そんな溜息をつかせてしまったのは真琴である。
「まあ、そう返してくるだろうな」
「もう、なあに」

「お前が届けてきた書類は、予定している壁外調査の計画書だった」
「そう」
「一筆箋もなく、計画書だけが書類に入っていたとでも? お前を寄越したわけも報せずに」
 真琴は両眼を見開いた。計画書のみなど、そんなことは考えられなかった。エルヴィンは何かしら書き添えておいたはずだ。とりわけ中央憲兵団の怪しい動きについては。
「俺の口から言わせたいか」

 真琴は観念して眼を伏せた。洗い立ての匂いがする枕に頬をする。
「休暇をもらったのは、別に休暇がほしかったわけじゃなくて、エルヴィン団長にそう申しつけられたからよ」
 乾燥からきたものでない、乾いた声で笑う。
「って知ってるわよね、手紙を読んだのなら」
「ああ」

「中央憲兵団が本部を見張ってたの」
 背後で、リヴァイはどうしてか息を呑んだ。
「気づいたのは最近だって。彼らの狙いが私なのか、エレンなのか、自分なのか、分からないってエルヴィン団長は言ってた。だから、誰が狙いなのか見極めるために、私を本部から遠ざけるんだって言われたわ」

「またかっ。なぜそんな大事なことを、お前は黙ってた」
 繋いだ手をベッドシーツに叩きつけ、いま知ったとばかりの勢いでリヴァイは難じた。いましがた彼が息を呑んだわけを真琴は悟った。
「一筆箋なんて、添えられてなかったのね。うそつきっ」
 子供騙しなやり口にまんまと引っかかり、恥ずかしいのと情けないので逃げ出したくなったが、彼の空いている腕で抱き込まれていた。それで真琴は枕に顔を深く埋めるようにして、リヴァイから少しでも距離をとろうと計る。

「騙すなんて、卑怯よっ」
「カマをかけなきゃ、お前は喋らねぇだろ。一筆箋自体は嘘じゃない。タカ派からの依頼で、壁外調査が延期になるかもしれない旨と、上から監視されてるようだと、こっちでも警戒しろとな。それが中央憲兵だとは、よもや思いもしなかったがな」
「ほとんど知らなかったようなものじゃない」

「ああ、そうだ!」気分悪そうに吐き捨てる。「エルヴィンのクソ野郎っ、要点を省き過ぎだ」
 心配が募ってつい怒ってしまう母親のように、リヴァイは叱る。
「なぜお前は俺に相談しない。顔色だけで内容まで計れってのか。言ってくれなきゃ分からない!」
「だって」
「中央憲兵に、また狙われてるかもしれないんだろう。お前一人でやりすごせるとでも思ってるのか!」
 リヴァイは堰を切ったように指弾する。真琴が口を挟む隙間もなかった。
「それとも俺じゃなく、フュルストの野郎に頼るつもりでいたのか!」

 リヴァイに強く握られている左手は痺れ始め、真琴の腹を包み込む彼の腕は、もやは憎しげに締め上げていた。
 そんなに怒られるとは思わなかった。リヴァイに顔を巡らせて、きつい檻の中で無理に半身を捻る。
「どうしてそうなっちゃうの。誰に頼るつもりもない。フュルストを頼ろうなんて思ってもない」
 互いの鼻が掠れそうな近さにあって、リヴァイの吐息も近かった。真琴は壊れものを扱うように、彼の顎のラインに手を添えた。陶器の皿のように冷たい。
「怒らないでよ、お願い」
「怒らせてんのはお前だろう」

 リヴァイは真琴の頬に口づけを落としていく。
「ああっ、クソっ」
 唇で押されて真琴の首がかしぐ。体当たりするようなキスは、激情が含まれていて可愛らしいものではなかった。その激情をも愛おしく思えてならなかったが。
「あなたを煩わせたくなかったの。こうして二人でいられる時間を、そんなもので邪魔されたくなかっただけなの」

「俺を煩わせたくない?」
 半身を少し起こしてリヴァイは真琴を見降ろし、静かに訴える。
「お前の思いには呆れる。お前に黙っていられると、俺は煩う。打ち明けてくれないと、俺は煩うんだ」
「私が何か隠してると、それがあなたを思ってのことだとしても、リヴァイは苦しむっていうの……?」
「苦しいさ。溜め込んだクソを全部出しても、まだ腹ん中でもやもやしてがやる。こいつの気持ち悪さ、分かるか。おかげさまで不眠続きだ」

 ――それはどうして!?
 想いを知りたくて叫びたかった。決して口にしてくれないとは分かっていても。だから、たまりかねて真琴は縋った。
「抱きしめて」
 鎖骨に顔をすり寄せて請う。
「次は泣き落としか」
「あなたの胸で安心させてくれないと私」
 リヴァイは静かに引き寄せて、手で真琴の頭を優しく覆う。
「全部吐け。俺に泣きつけ」
 真琴のように柔らかでなく、剛健で厚い胸板からは脈打ちがどくんどくんと伝う。溺れかけた人が丸太にしがみつくように、リヴァイのシャツを掴んだ。

「本部を見張ってる中央憲兵の狙いは、私じゃないと思う」
 危ないと思ったが、今朝調査兵団を立つときに彼らの横をわざと横切ってみた。中央憲兵の人間は真琴に見向きもしなかった。悟られないためのポーズという読みもあるけれど。
「古城の周囲に怪しい人影はなかったのよね?」
「今日一日警戒はしていたが、いつもと変わらない」

「あそこで狙っていたのが私だとしたら、彼らを撒けるはずがないのよ。どんなに気をつけたって、気配すら感じ取れないんだから」
 どうしようもない気分で真琴は笑う。兵士として訓練を受けてきたのに、鈍い神経が研ぎすまされることはなかったのである。
「読みは間違っていないかもしれん。尾行されていたら、お前は絶対に奴らを連れてきてた」
「そうよね」
「なら中央憲兵の狙いは、エルヴィンもしくはエレンか」
 言葉の節に、ほっとしたような感情が内包されていた。続きを言わなくてはならなくて、真琴はリヴァイの胸板にさらに縋った。

「それは本部でうろついてる中央憲兵のことなの。それとは別に、中央憲兵団から指名手配されてるかもしれないの」
 リヴァイの喉許から息を鋭く吸う音が聞こえた。彼は暗闇を睨んで思索する。
「にんぎょ姫の件か? それとも憲兵団本部での殺人容疑? あるいはフュルスト――」
 考えが至ったらしく、焦点を暗闇から真琴にさっと戻した。
「世間を騒がしてるヴァールハイトと、お前は関係があるんじゃないのか」
 さも怪しいフュルストと、国を混乱させているヴァールハイトを線で結びつけられた。
「勘がいいのね」
「待て待て、どうなってる、お前の身辺は」

 真琴は首を振った。
「でもどれもたぶん違う。彼らが探してるのは、本当の私だわ」
 リヴァイは眉を顰める。本当の私と言った本意を、真琴から垣間見ようとしているのか。
 調査兵団の真琴ではなく、貴族のマコでもなく、本当の真琴。この時代にいるはずのない人間に、中央憲兵団が目をつけたのだ。いくら珍しいといえど、たかが社員証でどうしてこんな事態になるのか。へんてこな物だと、どうして捨ておいてくれなかったのだと思ってしまう。

「そこまで分かってるなら簡単だ。何が要因なのか、心当たりがあるな」
「ちょっと珍しい落とし物をしただけなのよ。危害を加えるような危険なものでもないのにね」
 笑わずにはいられなくて喉を鳴らすが、力が萎えていく。
「もし拾ったのがあなただったら、くずかご行きよ。骨董屋さんに売りつけたって、一銭にもならないと思うわ」
「一銭にもならない。それはお前の見解だ」
「……」
「その一見価値のない落とし物の落とし主を、中央憲兵が血眼で探してる、ってわけか」

 それに繋がる大事な部分を真琴が隠していることは、リヴァイは気づいているのだろうけれど。過去の人間かもしれないとまでは話せなかった。


[ 129/154 ]

*prev next#
mokuji
しおりを挟む
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -