22.月の光がたおやかに包んでくれる2
誰かのいびきが聞こえる廊下で、リヴァイは腕を組んで真琴の部屋の扉を見据えていた。
まさかとは思っている。まさか脱走などするはずがないと。
真琴が除隊すると言い出したときに、あれだけ脅したのだ。脱走も罪深いと馬鹿でも分かると思う。
リヴァイは部屋のドアノブを回してみた。「鍵が掛かってるな」
何かが起きて、部屋の中で気を失っているという可能性もある。エルヴィンから合鍵を借りてこようかと思ったが、万が一脱走だった場合が拙い。誤魔化しようにも勘が鋭い彼だから逸早く疑われるに違いない。そうしたら本当に罪に問われてしまう。
「仕方ねぇな、壊すか」
リヴァイは扉から距離を取った。片足を振り上げ、ドアノブを目掛けて素早く蹴る。大きな音を立てることなく、ドアノブが廊下に落ちて転がった。
衝撃で扉は自然と開いた。遠慮なくリヴァイは室内に入って見渡す。綺麗に畳まれている布団が目についた。床に倒れている姿もない。部屋は無人だった。
いよいよ胸騒ぎを起こしそうだった。リヴァイはせかせかと歩き回り、クローゼットを開け放った。男物の服が数着掛かっていた。
「服はあるな。突発的か?」
夜逃げの用意をすることなく、唐突に去りたくなったのだろうか。念のためにチェストの引き出しもすべて開けてみる。片膝を突いて、一番下の引き出しを勢いよく開けた。
と、開け放ったそのままの姿勢でリヴァイは硬直した。瞳は人形のように丸く、引き出しの中身全体が眼に映っているのかいないのか、判断が微妙な様相であった。
ぱちっと瞬きをして、リヴァイは折り畳まれている布に向かってそっと手を差し入れた。両脇を摘んで眼の高さで翳した物体は――
「なんだこりゃ」
複雑なカットをされたレースや、アクセント使いで縫いつけられたリボン。華奢な形が男心をくすぐる可憐な下着だった。
「こんなパンツ履いてんのか、真琴は」
トンカチで頭をガツンと殴られた気分だった。リヴァイは額を覆う。
(可怪しいだろ)
ハンジの話によると、こういう女っぽいものは大嫌いのはずではなかったか。リヴァイは改めて引き出しの中を眺め回す。目に入る白やピンクの下着が眩しかった。
(あれだ。男でありたいと思っても、野郎のパンツは女の体には合わねぇ。それで仕方なく、こんなのを履かざるをえないんだろう)
可愛らしい下着を、わざわざ選ぶその心は理解できなかったけれど。
無理矢理に言い聞かせたが、そうでもしないとリヴァイが混乱してしまう。ますます真琴の男装の意味が不明になるからである。
痰など絡まっていないが咳払いをして気を取り直した。立ち上がり、部屋から出てリヴァイは走り出す。兵舎を出て、正門を抜け、夜の市街へ飛び出した。
密かに真琴を連れ戻すつもりであるが、行く当てがいまいちなかった。真琴の個人資料には実家の住所が詳細に書かれていなかったのである。ウォールシーナ南区ヴェーク通りといっても豪邸がたくさんあるのだ。
「クソが!」
行き着けるか分からないが、リヴァイはとにかくウォールシーナの実家を目指した。しばらく駆けて気づく。
馬を使ったほうが効率がよいではないか。思ったよりも焦っていて気が動転していたようだ。
(なぜこんなに必死になってる)
走りながら不思議に思えてならなかった。脱走が本当ならば真琴の行動は自己責任である。連れ戻してどうしようというのか。
(決まってるだろう。説得して、なかったことにする)
過保護すぎやしないか。どうして放っておけないのか。
ふいにハンジの顔が浮かんだ。
――出来の悪い子ほど可愛いってあれ?
どうもあながち見当違いでもなかったようだ。
どの兵士も当たり前にこなせることが、真琴には教え込むのに人並みの数倍時間を費やす。指導をしているときはリヴァイもしんどい。
けれど、真琴の右手にある剣だこを見たとき、強い達成感と充実感を感じた。ごく小さな進歩だというのに、とても嬉しく思った。
いままで指導してきた兵士に対しても、技術に磨きがかかればもちろん満足感はあった。が、苦労が多い分、満たされる量は比べものにならないのだ。
困り顏でリヴァイは笑う。認めるのはどうにも気持ち悪く思うが、
「どうやら可愛いく思っているらしい」
もうしばらく駆け続けて、背中や胸板にじんわり汗を掻き始めたころ、さらに気づいてふと立ち止まった。
夜更かしをしている数軒の家の明かりが窓から透ける。それ以外は外灯も灯らない真っ暗な大通りで、リヴァイの頭が冴え始めた。
「倉庫か」
暗闇に呑まれていった呟き。夕方に班を解散したあと、真琴はグンタから片付けを命じられていた。脱走などと、いまだ自分でも確信が持てずにいる要素に振り回されるよりも、なんらかのハプニングで倉庫にいると考えられないだろうか。
野良猫しか歩いていない闇の街をリヴァイは急いで引き返していく。向かうは本部である。
※ ※ ※
土埃っぽい臭いにも慣れてしまった。倉庫で真琴は寂しく体育座りをしている。上部にある小さな格子窓から、小さな夜空を眺めていた。今宵は鮮やかな黄色をした半月であった。
真琴は溜息を零した。外からは微かに虫の鳴き声がする。生き物の気配はそれだけだった。
「別にね、閉じ込められたからって焦ることなんてないのよ。だって明日になれば、誰かが絶対来るもの。少なくとも私の班の誰かは来るわ」
それは夕方のことである。訪れた誰かによって外から倉庫の鍵を掛けられてしまったのだ。奥のほうで片付けをしていた真琴には気づかなかったのだろう。
きゅるっと腹が鳴った。もう何十回目か分からない。へこんだ腹をさすりながら切なく笑う。
「ごめんね。でも朝になればご飯が食べられるから」
弛んだ頬は、しかしすぐに戻る。
明日になれば。朝になれば。倉庫へ行く用がなければ、誰も真琴には気づかない。いなくなったことを、おそらく誰も気づいてはくれないのだろう。
気にかけてくれるような親しい友人を、積極的に作ろうとしなかった真琴が悪い。不必要に馴れ合おうとも思わなかったのだから、酷いとかいう気持ちは全然ない。
「全然ないのに……どうして寂しくなるの」
結んだ唇が震えてきてしまう。唯一の光である半月が朧に見えてきてしまう。
一生閉じ込められたままというわけではないのに、こんなことで涙が零れそうになった。ひどくみじめに思えてくる。それが何だか滑稽で、泣きたい顔で真琴は小さく笑った。
「こんな所にいるからだわ。薄気味悪い雰囲気が、そうさせてるだけなんだから」
外で金属の音がして、真琴は弾かれたように引き戸に食い入った。錠前が外れたような音だった。
勢いよく引き戸が開かれて、月明かりが人影を浮かび上がらせる。
「……リヴァイ兵士長」
引き戸を両手で全開にしたリヴァイは、上半身を激しく波立たせており、ひどく息が上がっていた。小さく座り込んでいる真琴を見ると、頭を垂らして大きく息を吐いたようだった。
「正解だったか」
「なんで、だって、夜中なのに」
真琴は喉を詰まらせた。眼の縁から零れ落ちそうになった涙を慌てて拭う。
全身疲れきった様相のリヴァイが正面で片膝を突いた。
「夕刻からか」
真琴はただ頷いた。
「誰かがわざとやったのか」
「違うと思います。奥のほうにいたから、気づかなかったんだと思います」
顔を下げて身を丸めている真琴をリヴァイの伏せた瞳が見ている。
「声は上げたんだろう? どの班も、あの時刻はこの辺をうろついてたと思うが、誰も気づいてくれなかったのか」
「声は上げませんでした」
「なぜ」
難詰しているような響きではなかった。息を吐くように静かに聞き出そうとするような音色だった。
物悲しく、真琴はふっと笑う。
「鍵を閉められちゃったとき、なんだか情けなくなっちゃって。必要とされたいわけじゃないけど、お前なんかいらないって、そう言われた気分になっちゃって。そうしたら、このままでいいやって。朝になれば絶対出られるんだから、ずっとじゃないんだから、だから」
「……なら、なんで泣く」
真琴は肩を痙攣させた。畳んでいる膝小僧に小さな丸い染みが増えてゆく。
「泣いてません」
意地を張ったとき、大きな手が真琴の頭を引き寄せた。リヴァイの胸許におでこが押しつけられる。
「そうだ。男は何があっても涙を見せてはいけない生き物だ。お前は泣いていない。俺は何も見なかった」
真琴にはどちらか分からない。本当に泣くなと言いたいのか、隠してやるから、見ないでやるから泣いていいと言われているのか。けれど固い胸許があまりにも温かいから、次々と涙が溢れ出てきてしまう。
リヴァイの胸に縋って真琴は嗚咽した。吐息混じりの声が頭に降る。
「いらないなど誰も思っちゃいない。真琴がいないことを班の奴らはすぐに気づいた」短く息を零して笑う。「ただ謝らなければいけない。何を勘違いしたか、あいつらはお前が脱走したんじゃねぇかと、馬鹿みてぇに深刻そうにしてたがな」
「脱走したくてもできません。だって絶対大きい罪に決まってる」
「ああ。そこまでお前は馬鹿じゃない。だが悪い、俺も少しは疑ったんだ」
言いながら、微少ではあるが手が動いていた。もしかしてリヴァイは意識せずに真琴の頭を撫でているのだろうか。
「疑ったのに、どうしてここが分かったんですか」
「首根っこ掴んで連れ戻してやろうと街へ出たんだが、そういえばと思い出してな。お前、倉庫の片付けを頼まれてたろ」
湿り気を帯びる胸の中で、真琴はこっそり微笑んだ。
「月が出ているうちは、誰も来ないと思ってました。ボクがオルオやペトラみたいに、一日にして立体機動で張り合えるようになるくらいの低い確率で、誰かが気づいてくれたとしても、それがリヴァイ兵士長だったなんて思わなかった」
まるで当てにしていなかったというふうに言われても、リヴァイの眼差しはずっと和らいでいた。
「〇・〇一パーセントもねぇのか。なあ、真琴。お前の中の俺は、よっぽど薄情者だな」
(そんなふうになんて思ってないっ)
真琴は違うと胸許におでこをすり合わせた。必死に声を出そうと思うのに、感極まる思いが喉を詰まらせて出てこない。
月の光がたおやかに包んでくれるような、むしろ厚情に溢れている人だとよく分かっている。そう伝えたいのに、やっぱり声が出ないから、違うのだとさらに大きくすり合わせた。
「分かった。よく分かった」
リヴァイに後頭部を優しく叩かれて、さっきよりも強く胸許に押しつけられた。やっと喉を通った言葉は泣き笑いだった。
「窒息しちゃいます」
襟に切れ込みがあるリヴァイのシャツ。覗く素肌に浮いているのは、まだ引かぬ流汗。爽やかな石鹸の香りに混じる汗の匂いは、真琴を探して走り回ってくれたものだろう。だからほんのり匂いはしても、ちっとも嫌なものに思わなかったのだった。
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mokuji
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