04.なぜお前は男なんだ1

 休憩のあとは馬で山へ向かった。山頂に怪しい灰色の雲がかかっているので、上のほうは雨が降っているのかもしれない。麓で馬を待機させ、最低限の装備で調査兵たちは山へ入っていく。
 木立が繁る山林は、どこからともなく鳥の囀りが涼しげに聞こえてくる。山へ入るまでは眩しいほどに明るかったのに、一歩踏み入れれば周囲は薄暗くなって不気味さを感じさせた。

 立体機動装置なしで、ひたすら走る行軍は苦行だった。正午過ぎから始まり、明日の朝まで遮二無二走らなければならないのである。そのあいだ食事は許されない。

 行軍を何度も繰り返してでき上がった獣道。親切な道しるべなどなく、どこへ誘われていくのか分からないような別れ道もあるけれど、ここから外れてしまったら、おそらく遭難してしまうのだろう。
 走り始めて一時間。全員がまだ余裕の表情の中、真琴は脇腹が痛くなり始め、早々につらくなってきていた。それでも脇腹を押さえつけながら、前を走る頭を虚ろな思いで見つめて必死についていく。
 最初こそ班ごとに固まって走っていた。が、それぞれのペースというものがあり、遅過ぎても早過ぎても互いに負担なので、いつの間にかばらけていたのだった。

 行軍が開始して三時間。真琴は猫背で腹を押さえ、のろのろと歩いていた。息が切れていて、酸素を吸うと肺が痛かった。
 前方は兵士の見る影もなく、獣道を頼りに進んでいくだけである。
(何合目まで登ったのかしら)
 真琴のペースで山の高さと比較したら、まだ7合目辺りかもしれない。三時間も走ったのだ。長距離マラソンは小学校時代からずっと苦手だったのだし、真琴にしては頑張ったほうだと思っていた。

 これが朝まで続くだなんて地獄だ。と胸の内で弱音を零している真琴は、近くの切り株に腰掛けて空を仰いだ。木の狭間から見える太陽は、まだまだ元気だった。炎天下の中だったなら、とっくに倒れていたかもしれず、木陰でそよ風が入ってくるので、まだよかった。
「そろそろ行ってみようか」
 腹の痛みが治まった真琴は少しずつ行軍し始めた。

 ※ ※ ※

 乱れのないランニングフォームで走るリヴァイの腰許は、立体機動の収納箱が上下左右に揺れていた。煽られて、たびたび腿を打ってくる収納箱を邪魔に思いつつ、額の汗を手の甲で拭った。玉の汗が移った手を振るい、懐中時計で時間を確認しようとしたのだが。

「三時半か。あと三時間したら終わりだね」
 と言ったのは、ペースに乱れはないが、暁闇の空を仰ぎながら、どこか伸びたように走るハンジであった。特段仲良く走ろうと言ったわけでもないのに、ずっとリヴァイの横に張りついているのだ。
「ねぇ、リヴァイ。これ終わったら何を食べる?」
 不要な会話は呼吸を乱すだけなので無視する。
「モーニングが美味い店があるんだけど、一緒に行かない?」

 一人で行け、と心の声で返答した。何が悲しくてハンジと朝食を食べなくてはならないのか。
「もう誰かと約束してるの? あー、彼女とか!?」おちょくるように言う。「っているわけないか。鉄亜鈴が恋人だもんね」
(……うるせぇ)
 並んで走り始めてからずっとこの調子で、リヴァイは辟易していた。喋りながら、よくぞ走っていられるものだと感心もするけれど。

 こんな二人だが、行軍の中間地点を任されていた。不足な事態に備えて立体機動装置の装備が許されている上官たちは、行軍中のあらゆる箇所に配置されているのである。
 いままさに、真琴にある出来事が降りかかっているだなんて、このときのリヴァイには知る由もなかった。狂ったからくり人形のように喋るハンジの唇を、いつ抓ってやろうかと、そればかりを策謀中であった。

(ただ抓るんじゃ手ぬるいか。いっそ潰してやったほうが世のためかもしれん)
 くいくい、とリヴァイは人差し指を動かす。
「ちょっと顔を寄越せ、ハンジ」

 間抜けに眼をきょとんとさせたハンジが、疑いもなく横に詰めてきた。豆でも摘もうとするかのようなリヴァイの指先が、彼女の唇を挟もうとしたとき、「後続は大丈夫でしょうか」と斜め後ろで走っているモブリットが阻止してきた。
「だいぶ差は開いてるだろうけど。なんか心配?」
 ハンジの顔が後ろを向いて、ちっ、とリヴァイは舌打ちをした。唇を潰し損ねて残念に思う。
 ハンジのお守役であるモブリットも、ずっと中間をキープしていた。何の気なしに話に割り込んできたような気もしないでもないが、ハンジの無益な負傷を守るつもりで彼は助け船を出したのかもしれない。

 少々荒めの息をしているモブリットは、薄く白味がかかる獣道を見渡す。
「霧が多少濃いんで。途中、何箇所か枝道がありましたし、遅れを取っている連中が道を逸れてないか気がかりで」
「山頂は弱い雨が降ってたからね」
 とうに山頂を通り過ぎたリヴァイたちは、緩やかな傾斜を下りながらの折り返し中であった。夜明け前という影響もあるだろうけれど、周囲は煙のような霧で覆われていた。すぐ背後を走っているモブリットの顔さえ霞んでいる。

「後方にも上官は配置されてる」
 リヴァイが言うと、モブリットは心配性をみせた。
「はぐれた兵士に気づくでしょうか」
「はぐれた、って」両目を糸にしたハンジが空を見上げて笑う。「みんな立派に成人してるんだ。それにある程度は固まって走ってるだろうし」
 と、ハンジは笑い飛ばすのをぴたりと止める。
「ありえそうなのがいたね」

 リヴァイも思い至って、疲れた気分で首を垂れた。
「……真琴か」
 いくら霧が濃くても簡単に道を逸れてしまうほど馬鹿とは思えない。が、体力がないから完全に出遅れて一人で走っていることはありえる、とリヴァイは思っていた。
「ったく」
 ぼやいたリヴァイは、両脇からグリップを引き出してレバーを空引きする。
「様子見てくるの?」
「切り株にでも座って、勝手に棄権してるかもしれん。サボるなと尻を蹴ってやるのも、上官の務めだろう」
 ハンジは含み笑いをする。「ふーん。優しいね」

 言われて、唇を苦くしたリヴァイは顔を逸らした。小さな金属音を立てて、親指にかかるハンマーやトリガーの具合を調節する。
 昼食を一緒に食べたときに、兵士であることを不甲斐なさそうにしていた真琴が、まさかサボっているとは微塵も思っていない。最後尾を走っているだろうことは安易に予想できるので、道を違えたという可能性をリヴァイは懸念していた。
 この時点のリヴァイは、探しにいってやれば事は済むと簡単に思っていた。モブリットの発言で心臓が凍える。

「中腹ら辺を走っていたとき、気になるものを見つけたんですよね」
「何を見つけたの? もしかして、それが君の心配事の大半?」
「木の幹に四本の爪跡が残ってたんです。真新しいものでした」
「なぜもっと早く言わないっ」
 モブリットを非難したリヴァイはグリップの調整を急ぐ。
「すみませんっ」

 人間が通る獣道付近まで熊が出没しているようである。遭遇した場合、正しい対処ができないと危険だ。
 謹直な表情に様変わりしていたハンジもグリップを手にした。
「道を外れてたとしたらリヴァイだけじゃ手が回らないよ、私も手伝う」
 調整もそこそこに木の枝に飛び移る。
「モブリットはエルヴィンに報告! そのあとで真琴探し! いいね!」
「分かりました!」言ったときにはモブリットの背中が先頭を目指して飛んでいた。

 少し探し回るつもりが大事になってしまった。落ちこぼれを自分の班に入れたことは後悔していないけれど、自分だけではすべてをフォローしきれておらず、結局周りに負担をかけてしまっていてリヴァイは胸を痛くしていた。
(ざまあねぇな)
 棄権していたっていいから、とにかく何事もなく見つかることをリヴァイは切に祈りつつ、立体機動に入ったのだった。

 ※ ※ ※

 時は数時間前に遡る。
 休み休み走り続けて、辺りがすっかり闇になったころ、獣道を歩く前方に兵士の影が三つ見えた。 
 ずっと人っ子一人いなかったのに、どうしたことか。最後尾にしてはペースがとても遅いと思った。それとも山頂に辿り着いた一行が、もう折り返しに入っているのか。

(一周遅れか)
 心の中で嘲笑する。影との距離が近づいていき、顔を認識できるところまで向かい合わせになって、ようやく真琴は気づいた。休憩時にいちゃもんをつけてきた男兵士だということに。

 鉢合わせするには、あまりにもタイミングが良過ぎやしないか。身内から嫌な予感が湧き出てくる感覚がし、背中を冷たい汗が伝う。
 兵士たちは真琴の前にゆらりと立ち塞がった。

「よお。遅かったじゃねぇか、待ちくたびれたぜ」
 兵士の一人が不適に口の端を吊り上げて、真琴はごくりと唾を飲む。嫌な予感は当たってしまい、つまり待ち伏せされていたのだった。
「何か用ですか」
 なるべく強気な態度で望んだが、唇が震えてしまった。そんな真琴を見て、三人の兵士はのろのろと囲い始める。

「へへっ、びびってやんの」
「仲間がいねぇと何もできねぇのな」
「守られてねぇと、てんで駄目じゃん」
 口々に馬鹿にする兵士たちを、真琴は眼だけで注視して距離を取ろうとした。背後に素早く一人回られてしまって逃げ場を失う。

「冗談はやめてください」
「冗談!?」
 はっ、と兵士の一人が鼻で笑った。
「冗談のために成績捨てて、わざわざ待ち伏せすると思うか?」
「なんの目的で、こんなことをしてるんですか」
 拳を握る手が汗ばんでいる。全身の毛が逆立つほど、真琴はアンテナを放射線状に巡らせて警戒する。

 顎に手を添えた兵士が目線を斜めに上げた。
「何が目的? そうだな」
 もう一人の兵士がいやらしい眼つきを投げてきた。
「そういやぁ、舌噛んだ老け顔の奴が言ってけど、特別な技で兵長に見初められたんだって?」
「見初めって……。そういう言葉は、異性を気に入ったときに使――」
 言い終わる前に、馴れ馴れしく肩に肘を乗せられる。真琴は払い落として後退った。
「馬鹿じゃねぇんだ。意味ぐらい分かって使ってんだよ」
 兵士の言葉に背筋がぞっとした。もしや真琴が女であることを悟られているのだろうか。冷や汗とともにそう思ったが、次の兵士の一言で考えを改める。

「兵長が男色ってさ、ちょっとショックだよなぁ」
 笑って言うと、ほかの兵士も嘲笑う。
「よっぽどコイツが好かったんじゃねぇのぉ」
「そら、すげぇ技だ」

 不穏な空気に真琴は顔を上げられずにいた。咄嗟に反応できるように、兵士たちの足許を眼をきょろきょろさせて追うしかできない。
 兵士の一人の足が真琴に近づいてきた。

「もったいぶってねぇで見せてくんねぇ? 技とやらを。爪なんか隠さねぇでよ」
「おい、でもコイツ男だぜ? 楽しめんの?」
「女顔してるし、体さえ見なきゃ好いんじゃねぇのぉ?」

 前後と左から聞こえる不適な笑いと話し声。真琴は気が遠くなりそうなほど血潮がざわついていた。
(男相手に何を考えてるのよ、この人たちっ。狂ってるんじゃないの!?)
 身内からの警報と、恐怖からの心臓の音と、潮騒のような耳鳴り。立っていられるのが不思議なほどで、血潮が脳内から爪先へ下がっていく。

 逃れたい思いでつい後退れば、背後を阻む兵士の胸に当たって、恐怖が大げさなほどに肩をびくつかせた。
「逃げんなよ」
 ふいに腕を掴まれ、急激に赤信号が明滅し出した。
(冗談じゃないわ!)
 力任せに振り払い、転がるように真琴は駆け出す。
 ばらばらと、背後から追いかけてくる足音が聞こえる。夢中で走っていたために、気づけば獣道を逸れており、木々の合間をすり抜けるように走っていた。それでも兵士は追いかけてくる。


[ 65/154 ]

*prev next#
mokuji
しおりを挟む
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -