05.嘘のようなホントの話

 部屋が一瞬揺れたような気がして、扉が大きな悲鳴を上げた。
「な、なに?」
 簡易ベッドで頭を抱えていた真琴は、そろりと背後の扉を見つめた。しんとしている。廊下に鬼でもいるのかと、そんな恐れを抱いて扉に近づいた。細かな傷があるドアノブを掴んで、そっと開けてみると――

 憤怒の情を乱されたとでも言うべきか、三白眼をぱちっと開けたリヴァイが隙間から見えた。扉が開いたことで動揺したのか。
 真琴は急いで扉を閉め直した。後ろ手にドアノブを握ったまま立ち竦む。

「あの人、もしかして扉蹴った?」
 潜めた声で独言して横目を後ろに回す。廊下から音はしない。
「さっきの独り言、聞かれた?」

 それで怒って扉を蹴ってきたのだろうか。思い返すとベッドの上で喚いた後悔は、ここで任務につく兵士たちからしたら、けしからぬものだったろう。
 自室とはいえ壁が薄いようだ。一人だからと気を抜かず、発言には気をつけたほうがよさそうである。
「もういないよね?」
 もう一度扉を開いて廊下を窺ってみた。去っていく足音は聞こえなかったが、リヴァイはもういなかった。

 音が響かないように扉を閉めて鍵をかけた。溜息をつくようにして改めて自分の部屋を見渡した。
「今日からここが私の部屋……か」
 八畳ほどの室内には、年つきでよい具合に飴色に染まっている木製のベッドが置かれていた。布団とシーツは新品のようで清潔な香りがした。
 装飾の木彫りなどないクローゼット。板張りの壁に打ち付けられているハンガーラック。生活していくうえで必要最低限の家具しかない。

 一人用のコンパクトな机の上に兵団の服が畳まれていた。手に取った真琴はジャケットを広げてみる。
「今日からこれを着て、私も調査兵団の一人になるわけね」
 管内を案内してくれたハンジと備品室に寄り、サイズ合わせをして支給された軍服である。机と揃いの椅子には調査兵団の外套も背凭れに掛けられていた。背中の部分に紋章の刺繍が大きく入った鶯色のハーフ丈のものだ。

 白い羽根と青の羽根が重なっている紋章は、自由の翼を表現しているのだという。その謂れの通り、自由を得るために彼らは活動しているのだろうけれど、真琴にはまだよく判らない。一緒に行動するうちに理念が見えてくればよいのだが。

 ジャケットを腕に引っ掛けて、遠くのほうに橙色の雲が見える窓を眺望した。角部屋ではないから自然光を取り入れるための唯一の明かり窓だ。
「もうすぐ夕方ね。暗くなってくると訓練は終わりなのかしら」
 班と思われる塊が、兵舎のほうへぽつぽつと向かってくる姿が見えた。

 備品室で新しいジャケットとズボンを真琴に渡したハンジはこう言った。
「サイズは九号か。リヴァイと背丈が変わんないから同じくらいかと思ったけど全然だったね」
 手始めに彼女が差し出してきた試着用のジャケットは大きかった。このとき真琴はリヴァイとは誰なのだろうと思ったが、いまになって納得だ。おそらくハンジは彼と同サイズのものを差し出してきたのだろう。

 ハンジは続ける。
「ジャケットの下にはシャツを着てね。決まりはないから襟羽根付きでもいいし、丸襟のものでもいいよ」
 と言って卵黄色のシャツを彼女は摘んでみせた。第三釦まで解放されており、鎖骨が見えて色っぽい。
 胸許がたるんでしまうTシャツよりも、首許にぴったりとするYシャツのほうが無難だろう。真琴が頷くと案内の続きが始まった。
「次は閲覧室に案内してあげる」

 本部の二階にある閲覧室は充分な広さだった。本棚や長卓の配置が図書館を思い起こさせる。
「広いんですね」
「娯楽のための雑誌もあるけど、勉強になる本もいっぱいあるよ。武術に関するものとかね」
 武術などの参考書を読む日はくるのだろうか。高さがちぐはぐな本棚を真琴は眺めた。

 と、ハンジが背を伸ばして上の段にある本を数冊とった。本というよりは綴じ紐で纏められた分厚い資料だ。
「これ、私が纏めた巨人に関するデータなんだ。読んでおくことを進めるね。ちまたで出回っていない情報も載ってるから」
 ハンジの両頬は紅潮していた。突き出してきた数冊の資料が、勢いに呑まれて両手を出した真琴の手にどさっと乗る。案外重い。

「こんなに調べたんですか」呟いた真琴は、はっと顔を上げた。「さっき団長室で巨人の研究が、って仰ってましたけど、こういうことだったんですね」
「巨人研究の第一人者といったら右に出る者はいない!」熱く言い切ったハンジは、しかし照れたように頭を掻く。「民間でいるかもしれないけどさ」

「巨人についてボク無知なんで、ぜひ読ませてもらいます」
 資料を持つ手を、真琴はちょいと持ち上げてみせた。
 すると、なぜかハンジは熱く滾った。風呂上がりでもないのに全身から湯気が上がる。
「ほんと!? 読んだら感想聞かせてね! 疑問に思ったことがあったら、いつでも聞きにきていいから!」
 とても研究熱心な人のようだ。

 兵舎の一階にある大浴場に来た。
「ここがお風呂。掃除は当番制になってる。班で回ってくるんだけど、真琴の所属する班についてエルヴィンは何か言ってた?」
 二つの入り口に男と女ののれんは垂れ下がっていなかった。日本ではないし銭湯でもないし、と真琴は覗き込む。
「何も言われませんでした。教官がつくとは仰ってましたけど」

「へぇ、そんなこと言ってた? 誰が教官につくんだろうな」
「怖くない人だといいんですけど」
「私じゃないことは確かだね、さっき頼まれなかったし。まあ、上官が個人的に指導につくってのも考えられないけど」
 大きな口を横に広げてハンジは笑った。リヴァイが教官についたことをこのあと知って、びっくりしたようだった。

 頭に湯気を漂わせて、兵士が男湯から出てきた。ハンジは礼をされる。
「早いね、もうお風呂すませちゃったの」
「訓練で汗を掻いてしまったので。すみません、先に頂いてしまって」
 兵士はちょっと慌てていて、両手をびしっと伸ばした。まだ夜ではないのに、のんびりと湯に浸かっていたことをばつ悪く思ったのかもしれない。

「ごめん、咎めたつもりじゃないんだ、ただ声をかけただけでさ。行っていいよ」
 ハンジが眉を下げて苦笑すると、兵士は頭を深く下げてから去っていった。
 真琴は序列を感じ取っていた。――話しやすそうで気さくだがハンジは階級が高いのを忘れてはいけない。

「真琴は大浴場を使ってもいいし、部屋のお風呂を使ってもいいよ」
「部屋にお風呂がついてるんですか?」
「三階の個室だけね。風呂っていっても簡易的なもので、一階から湯を運んでこないといけないから使い勝手悪いけど」
「ボクの部屋は三階なんですか」

 ハンジは鍵を揺らす。
「一階から二階が相部屋で、三階は上官用の個室になってる」
 エルヴィンから鍵を渡されたとき、ハンジが意味深な眼を寄越してきた理由が分かった。平兵士の真琴が相部屋ではなくて個室なことを不思議に思ったのだろう。
 でも彼女はそのことについて深く切り込んでこなかった。

「ちょこっと二階を見せておこうかな。二人部屋から六人部屋までさまざまなんだ」
 四角い窓が並ぶ直線の廊下を歩きながらハンジはそう言った。適当に選んだかは分からないが一つの扉のノブを握った。横にはネームプレートが六枚貼ってある。
「ちょっと部屋を見せてね〜」
 とノックもなしに躊躇なく扉を開けた瞬間、甲高い悲鳴が上がった。
「きゃあ――!」
「ありゃ、着替え中だった?」けろっとした感じでハンジは指先で頭を掻く。

 真琴はばっちり見てしまった。両脇に二段ベッドが並ぶ室内の真ん中に、下着姿の女が三人いる。
 慌てた様子で女たちはシャツで胸許を隠した。が、眩しい生脚が丸見えである。
「ハンジ分隊長! ノックくらいしてくださいよ!」
「ごめんごめん、まさか着替え中なんて思わないからさ」
 室内に入ってハンジは扉を閉めた。というのに悲鳴は収まらない。

「いや――! もう出てってください!」
 女たちは身体を捻って真っ赤な顔を振り続ける。が、背中と尻が逆に丸見えであった。
「なんでよ。私ガサツで男っぽく見られるけど、君たちと同じ女よ?」
「違いますよ! 誰ですか、その人!」
 顔を反らしている女が健康的に焼けた腕を伸ばして指を差した。

 どうして真琴を見て恥ずかしがるのか。眼を丸くして自分を指差す。「え? ボク?」
 自分の発言が耳に聞こえた真琴は眼を瞠った。いま「ボク」と言った。そうだ、真琴はいま男なのであった。
 ハンジは真琴を非難する。

「だめだよ、ちゃっかり入ってきちゃ! 女の子たちが着替え中なんだよ! 裸に興味を持つ年頃なんだろうけどさ!」
「ごめんなさい、その、気づかなくて」
「謝る前に部屋から出る!」
 ハンジに後ろを向かされて、真琴は廊下に追い出された。

 向かいの窓からカラスが横切る。「アホー」と鳴いた。溜息混じりに真琴は言う。
「そうか……、相部屋だと着替えが困るんだわ。それにお風呂も女風呂に入れないし。だから個室なのね」
 気にも留めていなかったが、男装生活をするならば一番困ることだといえよう。おそらくフェンデルが気を回して一筆添えてくれたのかもしれない、と真琴は思ったのだった。

 ベッドに腰を降ろして閲覧室から借りてきた資料に真琴は目を通していた。
「びっしりだわ。細かい字だし、目が疲れそう」
 おおまかに斜め読みし、ページを捲っていく。巨人と思われる画が載っており、歪んだ線からみてハンジが自分で書いたものだろうと思った。部位から矢印が伸びていて注釈されている。とても熱心に研究していることが文面から伝わる。
「画力があるのかないのか、何だか不気味な画」

 資料をベッドに放って真琴は寝転がった。
 巨人の背丈は二メートルから十五メートルと様様らしい。ガリバー旅行記の第二篇、国民が全員大きくてガリバーが小人になってしまう物語が頭に浮かんだ。
「嘘のようなホントの話」
 けれどやっぱり嘘のよう。

 真琴は今日一日気を張った。慣れない男のフリをして、「ボク」などと自分のことを言った。上手な芝居であったかは分からない。が、誰一人真琴のことを女だろうと言った者はいなかった。
 不安を胸に抱いたまま、けれどどこか暢気なまま、どっと疲れた真琴の瞳はとろんと閉じていった。この世界の文字が読めることに、懐疑心などまったく湧かなかった。


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mokuji
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