07.壁の中へ逃げた人間以外すべて2

 飾り気のない木製の扉。唯一の出口には小さなサッシ窓。そこから、下瞼のたるみと皺が目立つ、ぎょろりとした横目が覗き込んでいた。監視の兵だ。

 何か気づいたことはないだろうか。いままでの過去の記憶と照らし合わせて、ラルフの「ほかの理由」に行き着くヒントは隠されていないだろうか。
 木目に焦点を合わせて真琴は記憶を巻き戻していた。傍らでは論争が起こっている。
 少し威厳を取り戻したラルフが言う。

「我々も人数に限界がある。だが見つけ次第、処罰している。真琴だから特別なわけではない」
「ならば俺も罰を受けねばならん」
 ラルフの眼が微かに大きくなった。不意を突かれたような間抜けさがある。そのあとで小馬鹿にして笑う。
「ちょっくら耳にしたことぐらいでは咎めんよ。我々も暇じゃないと食堂で言ったろう」
「それを聞いて安心した。雨が降るのは海水が蒸発して雲になる、とかだったけどな」

 ラルフの瞳が大きく見開いた。線香花火のような細かい血管が白目に見える。
「そんなデマをどこで聞いた! 誰に聞いた! お前の言葉じゃないだろう!」

 真琴はひやりとしていた。まさかマコの名前を出したりしないだろうか。じっとリヴァイを見ていると、どっしりとした様子で口を開いた。

「なぜ焦る。咎めねぇんだろ? こんなことぐらい誰でも知ってる」
「そんなことはない!」
「なぜ言い切れる」
 ラルフの真一文字の唇が左右に蠢く。奥歯を噛み締めているようで、さも小憎らしいと言いたげだ。

「さっきのは、俺の死んだ親父から聞いた話だ。別段科学者だったわけでもねぇし、しょっちゅう飲んだくれてるクズだったからな。飲み屋で同類の野郎どもに自慢げに吹聴してたが、真かどうかは分からない。俺も信じちゃいねぇが」
 リヴァイは前置いて、
「要は、いくら規制しようが、人間の興味を抑えつけることはできねぇってことだ。探求した結果、それが真実であろうが、とんだ思い違いであろうが、知りたいという欲求を抑制することは不可能だ。てめぇらのしてることは、いたちごっこに過ぎない」
「……世論調査が必要なようだ」
「そうかよ。人口が大幅に減らねぇことを祈る」

 リヴァイの父親の話が出たが、顔も見たことないといつか言っていたので、おそらく嘘も方便だったのだろう。

「忌まわしい」
 紙に強く押しつけていたラルフのペン先が折れて、替えのペン先を付け替え始めた。
 雨が降る原理を知っているはずもないと、どうしてラルフは言い切れたのか。考えれば簡単なことで、見たこともない海が、まさか蒸発して雲になっているだなんて、どんなに優秀な学者でも仮説を立てることすら難しいことのように思えた。

 ラルフの苛々混じりの焦燥を真琴は不可解に思っていた。リヴァイの発言に驚きはしていたが、それは「どうして知っている」というふうな気持ちが隠れている気がしたからだ。
 彼も元々真琴と同じ知識を有していた――と、単純に終わらせてしまうのは胸のつかえを感じる。

(そういえば)
 そのつかえが取れたのは、真琴の記憶が鮮明になったからだった。防衛戦のあと、少女は別れ際になんと言った。
(お兄ちゃん! ありがとう! 金魚のお話、面白かったよ!)
 確かにそう言ったのだ。そこで真琴は、
(気をつけて帰ってね! それと金魚じゃなくて――)
 少女が間違えたタイトルを訂正しようとしたが、それはできなかったのだ。

 少女は人魚姫のタイトルを間違えて覚えてしまっていた。その勘違いのまま金魚姫として街に広がったのだろう。
 ではその少女は詰問の際、ラルフに何と答えたのか。「金魚姫」と答えたのではなかろうか。
 ではどうしてラルフは食堂であんなことを言えたのか。

「貴様はつくづく我らを誤解し、何としても悪者に仕立て上げたいようだ。影で尽力しているというのに心外だが、まぁいい」
 ラルフは吐き捨てるように言い、
「とにかくいま探している人物は、物語の発端だ」
「何度も似たようなことを言わせるなっ。その、にん」
 リヴァイが言いかけた先を予想した真琴は、慌てて彼の足を踏んづけた。すごい剣幕で睨まれる。
「――ああ?」

 怯んだが真琴はただ唇を堅く結んだ。ラルフに気づかれないよう、しかしリヴァイには気づくよう、微少に首を横に振る。
 何かを訴えたい真琴に気づいたのか、リヴァイは怪訝そうにした。真琴の膝元に、そっと手のひらを置いてきた。

「にん、なんだ?」
 ラルフは訝しそうにする。リヴァイが、「とにかく、しつこいってこった」と言い捨てた。
 その会話の合間に真琴はリヴァイの手のひらに指で文字を書いた。ある言葉を口にするな、と。
 読み取れたのだろう、リヴァイは顔を引き締めた。なぜ言ってはいけないのかまでは伝えられなかったけれど。

 そうして、ある仮説に確信を持った真琴は、この場をどうしても逃げ切らなければならないのに、世界を思ってひどく落ち込んでいくのを止められなかった。

 物思いに捕らわれていたらリヴァイに強く腕を揺さぶられた。
「しっかりしろ! 何をほうけてる! ぼさっとして誘導に引っかかったりでもしたら、思うツボだぞ!」
 ラルフがにやりとする。
「そろそろ疲れたろう。二ヶ月の拘留でいいと言ってるんだ。吐いちまえ、お前が発端だと」
 どんなに心が萎れていてもそれはできない。捕まって殺されるのは嫌だった。
 生き残りをかけて王手を取るには、ラルフの口からまず言わせることだった。

「金魚姫のお話は本当にビラで知ったんです。池に落ちた人間の男を、金魚の妖精が助けた、というものでしたけど」
「嘘だ!」

 リヴァイが片腕を卓に預けて身を迫り出した。
「俺が聞いた話はカメ姫だ。こいつと違うのは、海に落ちた人間を救ったのがカメだったというものだがな」
 ラルフはリヴァイを無視して真琴に憎しみの眼を向けてくる。容姿の違いでリヴァイは容疑者から外れるためだろう。
「池に落ちた話は曲解して伝わったものだ! お前が本当に言ったのは、人魚姫だろうが!」
「にん、ぎょ姫?」
 つなたくおうむ返しした真琴は首をかしげた。

 ラルフは眼を白黒させた。
 真琴に横目を寄越しているリヴァイも微かに眼を大きくしている。――なぜ知らない単語のように言うのかというふうに。

 わざとそう言ったのは、ラルフが人魚姫のタイトルを知っていたことが可怪しかったからだ。消去法で消していった真琴の仮説はこうだ。

 文献に似たような物語があった。――これはないと思う。人魚姫はアンデルセンのお話だ。
 少女はあとから正しいタイトルを思い出した。――ないとは言い切れないが、ほかの可能性を探るために消した。
 真琴と同様にラルフも異世界からやってきた。――これもないとは言い切れなかったが、それを消去してみると、ある可能性が生まれたのだ。

 この世界にアンデルセン童話がある。
 ではなぜリヴァイやその他の住民が知らないのか。知っている理由と知らない理由は分からない。ほかにも類似した事例はあって、通じる言葉と通じない言葉が存在することがそれである。そこにはきっと秘密がある気がしてならない。そして。

 新たな仮説は、この世界は異世界ではなく地球だということだった。過去か未来かと問われれば、それは未来のほうが説得力があるだろう。真琴が習った歴史で巨人が存在していたなどという事実はなかったのだから。
 では物語をひた隠しにするのはどうしてか。見当もつかないけれど、とにかく知られたくないということだ。だから知っている奴を殺したいのだろう。それが真、無実であったとしても疑わしいのならば。

 人類は巨人が発生したために、壁の中へ逃げた人間以外すべて滅んだのだ。それは遠い未来に起こったことなのかもしれないが、それで真琴はショックを隠し切れなかったのである。

 人類の滅びをテーマにした映画。確かそんなものがあったと真琴は思い出していた。
 高層ビルで埋め尽くされた東京。人間が消えた街では巨人が勢威を振るっているのだろうか。崩れかけているビル。アスファルトからは雑草が伸び放題。綺麗に整備されていた街路樹は、ずいぶんと背丈が大きく、周りに種を散らして辺り一面はジャングルか。

 そして隣の男を想ってもいた。生きる時が交わっていないということが、ひどく切なくさせた。違う世界であっても時の流れが同じならば、遠く離れていても彼を感じることができるのに、未来だというのなら、それすら叶わないではないか――、と。

 ぽかんとした感じを装い、真琴は言い繋いでいく。

「にん、ぎょ姫って何ですか? 言葉の意味が分からないのですが、姫ということは、それも街で流れている物語のことなんでしょうか」
 おそらく嫌がるだろうから、さらに突っ込んでいく。
「ちなみに金魚姫はエラの辺りから腕が生えているとかで……想像したら可愛くないし、気持ち悪くなりました。にん、ぎょ姫はどんな感じなんですか?」

 絶対に喋らないという自信があった。真琴が本当に何も知らないのだとラルフが思ったのなら、余計な情報など一切出したくないはずだ。人魚姫という物語は、ここでは存在しないことになっているのだから。
 ラルフは真琴をまじまじと見てくる。そのあとで、
「そんなことを言ったか? 少々とちったのかもしれんな、年をくったせいか口許がまごつくことがあるんだ。俺は魚姫と言いたかったんだが」
 誤魔化してきた。

「それはどんなのだった?」
 世間話をする雰囲気で声を出したのはリヴァイである。
 ラルフは口許を緩めた。ほっとしたように見えたのは幻ではなさそうだ。
「尾が人間の脚だという不気味なものだ。お前はどうだった?」
「俺の聞いたカメ姫は、甲羅のないカメだとよ。果たしてそれで生きていけるのか疑問だけどな。生態に詳しくねぇから分からんが、話をそう伝えた奴は適当過ぎると思ったもんだ。そんな奴の部屋は掃除も適当で、さぞかし汚いんだろう」

 ラルフはふいに眼を伏せた。それから高笑いをし出した。
「適当、まさにそうだ! 人の言葉ほど信憑性がないものはないな! 少女が言った背格好も、ほんとかどうか怪しいもんだ!」

「だから何度も言ったろう」上から見るような感じでリヴァイは、「発端よりも、ビラを刷る版元をさっさと取り締まるべきだ」
 と言い淡々と、
「民衆に海の話が広まっちまったのはもうどうしようもない。耳にしたのは何百、いや、それ以上、何千人かもしれん。お前らが危惧してるのは、外に興味を持たれることだろ。だがなかったことになんぞ、いまさらできねぇんだ」

 無表情に色を変えたラルフは低い声で呟いた。
「それはどうにでもなる」
「あ?」と怪訝に訊き返され、ラルフの肩がびくついた。肘に当たったインク瓶が倒れて黒い液体が紙全体に滲んでいく。
 動揺したのだろうか。もしかすると、いまのは失言だったのかもしれない。

 突としてラルフが立ち上がった。もう相手にしたくないという感じが顔面にありありとしていた。
「どうやら見当違いだったようだ。忙しいというのに時間を無駄にした。さっさと帰れ!」
 無罪放免ということらしい。向こうが口にできないことを、逆手に取った戦法だった。


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