21.明るい室内で微かに光ったバレッタ

 まもなくして部屋は静かになった。
「……まるで嵐が去った感じ。すごいね、あの子。いつもああなの? アニも気苦労だね」
「別に」
 おもむろに立ち上がったアニはレースのカーテンをさっと開け放ち、上に押し上げるタイプの窓を引き上げた。合わせて冷たい風が滑り込んできたが、空間を苦しいほどに圧迫していた濃い香りが薄まっていく。
「私が嫌なのは、あの香水の匂いだけ。吐きそう」
(そこなんだ)
 改めて、アニはヒッチに対して寛大だと真琴は思った。

 ベッドへ戻り際にアニは真琴の両肩を触れた。外套の前ボタンを外す。
「あんたからもすごい匂いがする。これ、こっちで洗濯しておくから」
「いいよ、いいよ。洗濯ぐらい自分でもできるから」
「こんなひどい匂いを纏わせて帰るの?」
 問われて真琴はただ苦い顔で返す。

「嫌でしょ。ちゃんとあとで送っておくから」
 と言って立ったままアニは調査兵団の外套を畳んだ。と、伏せ気味の睫毛が上がる。
「これ、あんたのじゃないんだ」
 名札が見えたらしい。この外套はリヴァイから譲ってもらったものだから彼の名前が書かれているのだ。
「うん。お古なんだ。でもボクのだから」
「備品を使い回しね。そんなに切りつめなきゃなんないほど苦しいんだ、調査兵団って」
「それはたまたまだだから。備品はちゃんと支給してくれてるよ。節約は徹底されてるけど」

 アニが再びベッドに腰掛けるのを待って、真琴は話を切り出した。
「あのさ、突然押しかけてごめんね。みんなから――一〇四期のみんなから、アニは憲兵団に入ったって聞いたからさ」
「最初から憲兵団に入るつもりだったから」
「そうだったよね。初めて会ったときも、そんなこと言ってたもんね」

 アニはただ窓の外を眺めている。横顔をまじまじと見ていたら、鼻筋が少し鉤鼻なのだと気づいた。

「ジャンがさ、憲兵団に入るって意気込んでたくせに、何でか調査兵団に入団してきちゃって。知ってる?」
「知ってる。勧誘式で、エルヴィン団長が調査兵団に入団する者以外は去っていいって言ったとき、ジャンはその場から動かなかったから」
「アニは去ったんだ?」
 ゆっくりと向き直ったアニ。いつもの乏しい表情で静かに、
「責めにきたの?」

「ボクが? どうしてそう思うの?」
「一緒に闘ったみんなが調査兵団を選んだのに、私だけが逃げたから」
「逃げたの? だって最初から憲兵団を選んでたじゃない。闘ったことがきっかけで逃げたわけじゃないでしょう」
 アニは眼を伏せた。
「最初からそのつもりだったよ。調査兵団なんて、死にたい馬鹿が選ぶもんだって、そう思ってたし」

「人間の感性は簡単に変わるものじゃないから。死にたくないのも普通の感覚だよ。なのにどうして責められてるだなんて聞こえたの」
「あのジャンでさえ、心変わりして調査兵団に入った。トロスト区の作戦で、みんな死の恐怖を味わったのに険しい道を選んだ。私は楽な道を選んだ。自分が可愛いから、死ぬのが怖いから」

 真琴は俯き、膝の上で何となしに両手をすり合せた。
「怖い気持ちって、アニが暗く話すほど、責められるものじゃないと思うんだけどな。なのにそう思うのは」
 上目遣いに見る。
「後悔してるの? 憲兵団を選んだこと。本当はみんなと同じで、調査兵団に入りたかったとか?」
 弾かれたようにアニは顔を上げたが、すぐに視線は窓に逃げる。
「そうなの? アニも本当はジャンと同じように心変わりしたの? 壁の外に出れば大事な仲間が死んでいく、巨人の餌になるだけの、こんな理不尽な世界が放っておけなくなった?」

「後ろめたいだけだよ。自分だけ助かるのが後ろめたいだけ。考えはいまだって変わってない。みんな馬鹿だよ。死ににいくようなもんじゃない。泣くぐらいなら、やめたらよかったのに」
「みんなが心配? アニって一匹狼な気質だと思ってたけど、三年も共に鍛錬してきたんだもんね。だとしたら、仲間意識が自分のことを責めてるのかな」
「なにそれ。人のことを勝手に推察しないで。そもそも的外れだし」

 アニの本心は分からないが、何か別のものが彼女を苦しめているような気がしてならなかった。真琴の推測は当てずっぽうではなく、ズボンのポケットに入っている中身が関係しているのだが。

「何か困ってることでもあるの? 自分の自由にならない理由があるとか」
「憲兵団に入ったのは、私の意志じゃないって?」
 短く息を吐き出してアニは笑う。
「あんた、私のこと買いかぶりすぎだよ。そんなに調査兵団に入りたがってると思い込みたいの? 悪いけど、正義感とか使命感とか、そういうのないから」

 開けっ放しの窓から入る冷気のせいで、いくぶん室内の温度は下がっていた。外からの風がカーテンを揺らし、アニの耳許に垂れる後れ毛がたなびく。明るい室内で微かに光ったアニのバレッタは、いつか真琴があげたものだった。

「そのバレッタ、大事に使ってくれてるんだね。なかなか上手くできたボクの力作だったんだ。だから嬉しい」
「ほかに代用品がないから使ってるだけ」
 アニの手が頭の後ろで髪を束ねるバレッタを触れる。
 真琴はズボンのポケットに手を入れて、取り出したものを転がっていかないよう机にそっと置いた。
「これ、落ちてた」
 真琴が机に置いたものにアニは目線を落とした。きょとんとする。

「なに、これ。それがどうかしたの?」
「うん。ちょっとバレッタ見せてくれる? 手作りでしょ。壊れてるところがないか確認させて」
「いいけど。待って、外すから」

 アニは頭の後ろに手を回してバレッタを外した。柔らかそうな髪の毛がふわりと舞って肩に垂れる。
「はい」
 手渡されたバレッタを真琴は角度を変えて食い入った。そして何色かのビジューをあしらって作られた土台に不自然な窪みを見つけた。そこだけごく小さな空間ができていて、部品が取れてしまったことを意味していた。
(やっぱり。……アニっ)
 ぎゅっと眼を瞑ってから、明るめに真琴は窪みに指を差してみせた。

「接着があまかったかな。なくなっちゃってる、ここ。パールのビジューがないみたい」
「ほんとだ。全然気づかなかった。ごめん、せっかくくれたのに……」
 まさにいま気づいたという感じで、アニは嘘をついているようには見えなかった。申し訳なさそうに体を縮めている姿からは、大事にバレッタを使ってくれていたことが窺えた。
「もしかして」
 思いついたようにアニの視線が机に向く。指を伸ばして「それ」を摘んだ。

「これ、取れちゃったやつ?」
「うん。拾った」
「どこに落ちてたの?」
 アニは何の疑いもなく訊いてきた。
「さっき。廊下で」
「よく気づいたね、こんなに小さいのに。あんた眼がいいんだ」

 リップも何もつけていない唇を綻ばせてアニは腰を浮かせた。机の引き出しを開けて糊を手に取る。
「糊でつくよね。貸して」
「うん」
 真琴は差し出してきた彼女の手にバレッタを返した。
 小さな白いパールに糊をつけて、アニは土台に付け直そうとしている。ヒッチとは違って爪磨きもしていない素朴な彼女の指を見守りながら、真琴は重い口を開いた。

「トロスト区の作戦が終わってから、二体の巨人が捕獲されたでしょ」
「殺されたんだってね、誰かに」
「そうらしいね。立体機動で逃げたって情報があったみたいで、片っ端から調べられて参っちゃったよ。犯人扱いされてるみたいで気が滅入った」

 あのあと、訓練兵が個々に管理している立体機動装置を憲兵団が調べたのだと聞いた。装置の整備記録から、事件のあった日に使用したかどうかの確認をしたのだ。要は犯人探しであるが、調査兵団でそのような捜査があったとは耳にしておらず、むろん真琴も調べられたわけではなかった。

「調査兵団でも調べられたんだ。訓練兵団だけかと思ってた。犯人は見つかったんだっけ」
「まだ見つかってないみたい。これが人殺しだったらだよ? まだその辺に犯人がいると思うとぞっとしちゃうけど。まあ巨人だしね」
 真琴は軽く笑ってみせた。
「でも何で犯人は巨人を殺しちゃったんだろ。うちに巨人オタクの分隊長がいてさ、その人ったら泣いて泣いてもうなだめるのが大変だったんだよ。貴重な被験体だったのにな〜」

「貴重だったからじゃない?」
 バレッタの小さな穴を埋めたアニは、表情を変えずに他人事のように言った。自分は関係ないといったふうだ。

「なんで?」
「率直に考えれば分かるでしょ。巨人を調べられたくなかったんじゃない?」
「率直、ね」
 真琴は力なく呟いた。バレッタにぴったり嵌ったパールを途方に暮れる思いで見つめる。
「何か変? それ以外に何か理由ある?」
「アニって嘘がつけないのかな。それともバレッタを直すのに夢中になって、うっかりしちゃったのかな」
 アニの表情が強張った。
「何が言いたいの、あんた」


「率直っていうのはさ。肉親を殺された恨みとか、仲間を殺された恨みとかで、巨人を許せない犯人が、我慢できずに思わず手をくだしてしまった――って思うんじゃないのかな」
 巨人が殺された現場であのときリヴァイに問われた真琴が、最初に頭に浮かんだ素直な理由がそれだった。が、彼が鋭い瞳で見据えてきたから考えを改めるに至ったのだ。
「アニが思った犯人の動機は穿った見方だよ。直接手を下した犯人の、裏を読んだ考え方だ」

「は? 単純な奴はすぐに恨みに結びつけるだろうけど、兵士の全員が馬鹿なわけじゃない」
「そうだね。賢い人はいるよ。少なくともボクの上司は気づいてたし、おそらくエルヴィン団長も。だけどボクの知る範囲では、そう考える人は限りなく少なかったんだ。みんなが恨みからの犯行だと思ってるんだよ」

「だから何」
 バレッタを持つアニの手が細かに震えていた。口調は苛立ちを必死に隠しているように見えた。
「そんな話を私にして、結局何と結びつけたいの」
「アニ。事件があった夜明け前、どこにいたの?」
「なにこれ、尋問? 訓練兵団の兵舎で、まだ寝てたに決まってるでしょ。大体、立体機動装置の調査で私は事件と関係ないって裏付けされたんだよ。そうじゃなかったらこんなところにいない」

 アニを覗き込んで真琴は噛んで含めるように言う。
「責めてるんじゃないんだ、アニ。犯人探しをしたいわけじゃないんだ。ただどうしても気にって」
「だから!」アニは荒んだ声を上げてばっと立ち上がった。「違うって言ってるじゃない! 勝手に決めつけないでよ!」
「理由もなく決めつけてるんじゃない」
「なら何を根拠に言ってるの! あんたのしてることは、無実の人間をただ揺さぶりにかけてるだけ! 傷つけてるだけ!」

「ごめん。さっきウソをついた」
 アニが握りしめるバレッタに真琴はぴしゃりと指を差した。
「落ちてたって言ったそのパール、事件の現場で拾ったものなんだ」
「な――」
 とっさに言い訳もできず、アニはエメラルドのような瞳を見開いて息を呑んだ。
 強めの風が窓を軋ませて、カーテンが大きくはためく。しばしのあと、力が抜けてしまったようにアニはすとんと腰を降ろした。

「あの事件から何週間経ったと思ってるの。憲兵が私を訪ねにきたことはなかった」
「ボクしか知らない。誰にも言えなかった」
「おおごとだったんだよ。黙ってて、許されると思ってるの」
「相手が巨人だったからかな。これが人間だったら、ボクは自分が許せなかったかもしれない。でもせめて理由を知ってからじゃないと言えないと思って。だってアニは、優しい子だから。訓練につき合ってくれる子なんて、そうそういないよ」
 アニはバレッタを撫でて、それを使って髪を束ねた。

「思うんだけど、アニが憲兵団に入団したことを後悔してることと、巨人の暗殺は無関係ではないんじゃないかなって。違う?」
「あんたはどう思うの」
「自ら進んでやるとは思えなくて。誰かに指示されたの? もしくは脅されてるとか。憲兵団に入ったのも、そういう意味合いがあったのかなって」

 真琴が誰にも言わないと確信したのか、アニは平静を取り戻した。
「まあそんなところじゃない? でもそれ以上は言えない。あんたさ、首突っ込み過ぎだなんだよ」
「そう言われるほど突っ込んでないよ。このことだけだし」
「嘘」アニは言い切った。「私もいま知ったことしか当てはないけど、あんたヤバいことに突っ込んでるでしょ」

「ヤバいこと? なんだろ」
 思い当たる節もないので真琴は首を捻った。
「確認のために聞くけど、あんたって女だよね」
 真琴は苦笑した。
「やっぱり気づいてたよね?」
「組み手すれば身体に触れるしね」
 格闘術の稽古中に、しょっちゅう胸許を突かれていたりしたから、アニには露見してしまっているかもしれないとは薄々思っていたことだった。

「で、性別の確認に何の意味があるの?」
 危機感もなく真琴が訊いたからだろうか、アニは眼を丸くした。
「本当に心当たりないの? すっとぼけてるんじゃなくて?」
 とびっくりしたような声で言い、あとに続いた次の言葉に真琴は驚愕することになる。
「指名手配されてるよ、あんた」


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mokuji
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