19.愛想を尽きるまで、そばにいてくれ

 薄闇の廊下を進んで、リヴァイは一階から二階の階段をゆっくりと登っていた。築数年の木造建家はあちこち老築化しており、ぎいぎいと季節外れのコオロギの鳴き声を伴う。秋も終盤だというのに、夏の虫を引き合いに出すのは情緒が感じられないけれども。
 食堂は暖房が効いていて暖かだったが、廊下はガラス窓からすり抜けてくる冷気のせいで染みるように寒い。

 真琴はまだ泣きやまず、両手を交互に使ってしゃにむに涙を拭っている。しゃっくりをしていて苦しそうでもあった。
 重い何かが、心臓にずうんと沈み落ちていくようだった。真琴を支えながら足取り重く、リヴァイは一段一段登ってゆく。
 二階への最後の段に足を上げて踊り場に着いたときは、もうくたくたな気分だった。体力はあり余っている。リヴァイは気力がくたくただったのだ。

 正面の窓越しから輪郭がぼやけている月をぼぅと見やった。薄く雲がかかっているときは、概して翌日には雨が降るので、夜空は明日の天気を語っていた。
 早朝から旧本部まで馬で戻らなければならないのに、泥水の中を駆けたらズボンが汚れるじゃないか。いやそんなことよりも、泣いている真琴をこのままにして戻っていいものかと、リヴァイはぼんやりと気にかかっていた。

「いつまで泣いてる。泣き上戸野郎」
「止まらない、ごめんなさい。頭の中がぐちゃぐちゃで」
 ひっくひっくと、しゃくり上げている。
「謝らなくていい。俺が泣かせてるんだろ」

 リヴァイは息を深く吐いた。真琴の肩から手を滑り落とし、月が見通せる位置で壁に寄りかかった。どうしようもなく悲哀が満ちていってしまい、ひどく怠かったのだ。
 過重を感じる頭がつらくて首を傾ける。

 月明かりに照らされて佇む真琴が、あまりにも哀れに見えた。己のために泣く涙が、こんなにも胸に痛いと知ったのは、病室で言い合ったときが始まりだった。三度見るはめになるとは思わなかった。
 この先何度リヴァイは真琴を泣かすのか。そう思っていたらだんだんと胸苦しくなってきて、無意識に口が開いたのだった。
「いつ死ぬかしれない男のことなど、もう忘れたほうがいいんじゃないのか」

 狡いと思った。「忘れたほうがいい」ではなく、「いいんじゃないのか」と選択を真琴に委ねてしまった。
 呆れるほどの自惚れだが、こう尋ねた場合に真琴がどう返してくるか、リヴァイには分かっていた。分かっていてそう聞いたのは、甘えもあっただろう。なのに口にしながらも身体中が悲鳴を上げていた。――忘れてなどほしくない。ずっと己を想っていてくれ、と。

 こんなとき、真琴は脚にしがみついて縋ってくるような、そんな女ではなかったことに気づいて絶望した。
「ズルい。自分で突き放せないからって、私から離れていけって言うんですか。はっきり言えばいいじゃないですか。忘れろって、俺に近寄るなって」
 震える涙声で責めてきた。
 掠ってもほしくない痛い部分を突いてくる。心に入り込もうとしてくるから嫌いだ、と思った。
 情けなくも眼が熱く、リヴァイは目頭を押さえた。

「どうしたらいいか、分からねぇんだよ俺だって。まっすぐ生きたいが、まっすぐ生きられないんだ。いろんなもんが邪魔をして、お前とまっすぐ向き合えない。俺は兵士であるべきで、ただの男に成り下がるわけにはいかない」

 消え入りそうな声で真琴は言う。
「分かってる。あなたの抱える責任が、あなたをがんじがらめにしてるって。それを放るわけにいかないから、恐れてることも」
 涙の量がさらに増える。
「分かってるんです。だから、求め合うことは怖くないことだって、いつか気づいてくれることを信じて待っていようって、思ってたんです。ほんとなんです」

 薄闇でも、真琴の袖が濡れて色が濃くなっていくのが分かる。
「責めるつもりなんかなかったのに、ごめんなさい。答えを求めるつもりなんてなかったのに、ごめんなさい。あなたを困らせたかったわけじゃないの」
「謝るなと言ったろう。お前は何も悪くない」
 まるで叩かれたように痛くて、リヴァイの顔が歪んでいく。「どうしたらいい、俺は。お前はどうしたい?」

 ああ、狡い。また選択を委ねた。離れていってほしくないから、百パーセント分かり切っている答えを再度真琴に尋ねてしまった。
 泣き濡れた顔が月光で光る。胸許のシャツをぎゅっと握り、本来なだらかな眉を八の字にさせて彼女は切願してきた。

「このままでいい。この距離でいい。だって、いまさら忘れられるわけない」
 呻くように言う。
「でもあなたがつらいなら、もっと距離を取るように努力する。だから想うことを許して」

 幸せになどしてやれない、こんな中途半端な男でも、真琴はそばにいて想い続けていてくれるようである。健気さが、歪んだリヴァイの想いと、この世を恨ませる。どうしてこの時代に産まれてきてしまったのか、と。
 瞳を覆うみずみずしい膜が増えていくから、月と真琴が朧げにゆらゆらと揺れて見えた。きゅっと喉が締まって苦しかった。
 鼻をつんとさせる熱い想いを、リヴァイは無理に嚥下することで耐える。だって情けないじゃないか、男が涙など見せてはいけないだろう。

「真琴」
 すっ、と両手を伸ばして呼ぶ。躊躇しているようで彼女は来ない。もう一度、
「こっちに来い、真琴」
 静かに言うと、やっと彼女は胸に寄り添ってきた。飛び込んでくるようなものではなく、壊れ物に触れるようにそっと。

「私、いまとても怖い」
 すすり泣きながらの不安定な声だった。窄めている真琴の肩をしずしずとさする。
「何を怖がってる」
「あなたが何を言おうとしているのか、聞くのが怖い。私を拒絶する言葉だったら、どうしようって」

 そんな心配をすることはないと、胸の内で断言できてしまった。離れることが臆病になっているのはリヴァイも同じで、もう手放すことが不可能である深淵にまで彼女は入り込んでしまっている。
「どこ」で産まれて「どこ」で育って「どこ」から来たのか素性があやふやな、真琴に対する「不審要素」などどうでもよくなってしまうくらいに、もう溺れているのは認めざるをえなかった。
「いまから俺が言うことは、身勝手極まりない利己的なことだ」

 しゃっくりで痙攣を繰り返している華奢な背中に、もの柔らかく腕を回して包み込んだ。
「特別な関係に発展させるつもりはない。だからいっそ突き放してやって、大事にしてくれるような奴と一緒になったほうが、真琴は幸せになれるんだろう、そう理屈では分かってる」
 己ではない男と真琴が寄り添う未来を想像しただけで、耐え切れなくて奥歯を噛み締めさせた。
「分かっているがどうしても、ほかの野郎に渡したくはない。お前に触れていいのは俺だけで、お前が触れていいのも俺だけだ」
 本物ではないさらさらとした質感の髪に鼻を埋める。
「勝手過ぎるだろう? こんな男でもいいってんなら、そばにいたらいい。俺に愛想を尽きるまでだが」

 肩に頭を凭れさせている真琴が、こくんと頷いた動きが伝わってきた。
「そばにいられる……よかった」
 言葉尻一つで、なんとも責任放棄な言い回しになってしまうものだと思った。「そばにいてくれ」とは虫がよい気がして、ぼかすしかなかったからだけれど。
「そんなんでいいのかよ」
「うん。後悔しないでね、愛想なんて尽きないんだから」
 精一杯の表現をしたつもりでも、つまるところ都合のよい女であってくれと所望したわけなのに、真琴は安心して身をしなだれてくる。自分に惚れている彼女の心につけいった汚いやり方だったというのに。

 湿り気のある大きな息をつく。ある程度胸の重りは減ったがまだしんどい、とリヴァイは天井を仰いだ。明日の旧本部までの道のりを思うと、戻るのが億劫で仕方ない。
 ミケの言葉を思い出していた。「胸の中に顔を埋めさせてもらえ。疲れなどひとっ飛びだ」と確か言っていたか。

「疲れてるんだ。胸を貸せ」
「え、ここで?」と真っ赤に腫れている眼を真琴はぱちくりさせた。「人が来るかも。見られたらどうするの」
「構いやしない。どうにでも口実は作れるし、その前に気配で気づく。むしろ今更な発言だろう」
 有無など聞かずに手を引く。三階へと続く階段に座り、彼女を膝の上で横座りさせた。

 外を歩いたりトイレに行ったりした靴で、いろんな人間がこの階段を踏んでいる。おそらく常時だったならば不潔すぎて尻など着けないが、三階の自室まで我慢できなかったのだ。潔癖性よりも己の欲求のほうが勝ったことに、リヴァイは笑いそうになる。

 階段の壁を背にしている真琴の肩に、腕を回して強く抱きしめた。胸に顔を埋める。
「……なぜ固い」
 思わず漏れた本音。柔らかい胸に包まれることを期待していたのに裏切られたからである。敬語ではあるけれど声音がすっかり女に戻ってしまっていたので、真琴が男装中であったことをリヴァイは忘れていたのだった。

「きつく巻いてるから」
 さらしのことを言っているのだろう。
「と思ったが、どうせたいした乳じゃなかった。巻いてようが巻いてなかろうが変わんないか」
「いきなりエッチなことして、失礼なこと言わないでよ」

 真琴は鼻声で不満たらたらに怒る。両肩を押しのけてこようとするから、リヴァイはさらに強く抱きしめて顔をすり寄せた。
「本当のことだろう。お世辞は言わない主義だ。それと、これは助平じゃない」
 すりつけた鼻筋でいっぱいに息を吸うと、いつもの甘い石鹸の香りがした。
「しばらくこのままでいさせてくれ」

「ミケ分隊長が言ってたことを試してるの? 私で疲れは取れそう?」
 淡い桜色のふっくらした彼女の唇から男の名前が出た。リヴァイは鋭く舌打ちをした。話の流れ的に可怪しくはないが、せっかく落ち着いてきたのに一気に虫の居所が悪くなる。

「空気の読めない奴だ。俺以外の男の名は、いまは聞きたくねぇ」
 くすっと吹き出した息がリヴァイのつむじにかかった。
「やきもち? 気に障ったのなら、ごめんなさい」
 少しして、真琴の手が髪を梳いてきた。女に撫でられるなど、なめられているようで「ふざけるな」と思っていたものだ。が、相手が真琴ならばリヴァイは心地好く思った。
「……もっと」
 ついうっかりねだってしまい、拙ったと思った。

 言わんこっちゃない。甘い響きで、
「甘えん坊さん」
 と囁かれて、反射的にさらに顔をすりつけてしまった。
 そんな物言いも、その他大勢の女ならば「おちょくってんのか」と気分を悪くさせるのだろうけれど。相手が真琴ならば、ねこじゃらしで脇腹をくすぐられるような、こそばゆさを伴った。

 何度か梳いてから、彼女の優しい手が頭を包んだ。
 とくんとくんと聴こえる鼓動と温かい胸は、リヴァイの胸中を穏やかにしていく。陽光を浴びながら湖で仰向けにたゆたうような安らぎである。蓄積していた疲労をも、嘘のように癒されていくみたいだった。
 いま立体機動を使ったなら、誰にも負けない気がした。誰よりも早く飛べる気がした。

 ただ残念だとリヴァイが思ったのは、本当に胸がぺしゃんこだったことだ。また疲れが溜まったら、次こそは真琴がマコであるときに甘えさせてもらおうと、こっそり笑んだのだった。


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mokuji
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