15.あなたは選んでくれない

 浴槽を綺麗にしたあとは、湯を貯めることになった。夕焼けがそろそろ訪れそうな空が、窓から覗ける。ついでだから兵士らが入浴できる準備をしてしまおうとなったのだ。
 浴槽脇に据えられている、手押しポンプのハンドルを押し下げる。吸い上げられた水が、流水口から勢いよく流れ出てきた。浴槽の外にいるのに、たちまちひんやりした空気が舞い上がる。

 焚口で薪を焼べてきたリヴァイが、浴場の裏口から戻ってきた。徐徐に貯まってきている水を見て、
「もっと漕げ。水の勢いが弱くなってきてるぞ。そんなんじゃ日付を跨いじまう」
「一生懸命やってますってば。でも重労働ですね、これ」
 息が上がる。懸命にハンドルを押し下げている真琴の両腕は、早々に筋肉が疲れてきていた。どうして大変な作業をやらせるのか、と文句を言いたくなってきたとき。

 そばにきたリヴァイが、ハンドルを握る真琴の手を触れた。
「代わってやる。お前は休んでろ」
 鞭を打たれたと思ったら飴をくれる。さりげない優しさは非常に彼らしいといえた。

 洗い場のほうに脚を投げ出すようにして、真琴は浴槽の縁に腰を降ろした。疲れを一切見せず、涼しいさまでハンドルを漕ぐリヴァイを盗み見る。
 自分では手間どう作業も、彼にかかれば難なくこなされてしまう。男と女の体力的な違いもあるのだろうが、逞しさを見せつけられる。すべてを預けて、寄りかかってしまいたくなるような頼もしさを、真琴は感じていた。

 中央憲兵団に連行された日も、リヴァイがいたから何とかなったのだ。あのときを思い出して、真琴は言う。
「おばあさんと女の子、元気にやっているでしょうか」
「ああ、元気にやってんじゃねぇか。ったく散々だったな、海の――」
 流水口から溢れ出ていた水の勢いが弱まっていく。ハンドルを押すリヴァイの手が止まったからで、妙な間が落ちたあとに呆然と言う。
「……なんの物語だった?」

 すでに体験した奇妙な違和感。笑みを作ろうとして、真琴の口許は強張る。
「なんのって、人魚姫の」
「……ローレライは河だ」
「ローレライ?」
 眉を寄せる。真琴が発した人魚姫という言葉が、どうやらローレライという単語に置き換えられているようだ。ローレライ自体は伝説として残っていても可怪しくはないと思う。なぜなら未来の地球だから。奇妙なのは人魚姫という単語がいつの間にやら置き換えられていることであった。

「海が絡んでたから厄介なことになったんだろう。だがローレライに海なんて出てこねぇ」
 手押しポンプと対面する窓にリヴァイは視線を投げている。ひどく不思議がっているようで、怪訝そうでもあった。
 不安で真琴は眉を顰めた。思い出してほしくて噛んで含めるように声を抑えて言う。
「リヴァイ兵士長? ローレライじゃないです、人魚姫です。にんぎょ姫……海の底にいて、半身に尾びれがついてる女です」

 リヴァイの手が、ゆっくりと額に運ばれていく。静黙のあいまで、記憶を引っ張り出そうとしているような仕草だ。
「自分で言ってたじゃないですか。最後は海の泡になったんじゃないかって。王子様のために愛を犠牲にして海の精になったんじゃないかって。ボクが嘘をついていた物語のラストを、正しく、幸せなものに導いてくれたじゃないですか」
 混迷が潜むリヴァイの瞳と絡み合う。彼は再確認するような口調で言った。
「それだ。海に住むにんぎょ姫が、人間である王子に恋をする話だった」
 真琴はほっと息をついた。表情が緩む。
「よかった。深刻そうな顔をするから、忘れちゃったのかと思っちゃいました」

 リヴァイは真琴から視線を外した。指先はまだ額に掛かっている。
「なんなんだこれは……」
「本当に忘れてたんですか」
「認めたくねぇが」

 あまりに真面目に言うから、真琴は相槌さえ打てなかった。からかわれているようにも思えない。
 リヴァイの記憶の取り違いと物忘れはゲルガーとミケにも共通していた。リヴァイが思い出せた違いは、色んな主人公が生まれてしまった人魚姫の物語が、どれも王子様と結婚するラストなのに対し、リヴァイだけが本当のラストを知っていた、という点だろうか。
 なぜ真琴の記憶は鮮明だったのだろう。ウォールローゼの運河にある岩山を認識していなかったことで生じたズレなのだろうか。

 ぞっとさせる摩訶不思議は、逆に失笑をもたらした。
「働きすぎなんですよ。疲労からくる痴呆症じゃないですか」
 いまだ自分の記憶力を、リヴァイは疑っている節があった。だが真琴の発した「痴呆症」は気に入らないものだったようだ。片眉を上げて彼は再びハンドルを漕ぎ出す。
「痴呆症はジジイがなるもんだろ。俺に当てはめてくるな」

「疲労からくる、ってちゃんと付けたじゃないですか」
「疲労じゃねぇ。女が好む話に興味がねぇから、似たようなのとごっちゃになっただけだろう」
 そうはいうがリヴァイだって物忘れを不思議そうにしていたではないか、と真琴は疑問に思った。が、彼が不機嫌になりかけていたので、もうこの話はやめることにした。

 水が充分に貯まったところで、リヴァイは一旦火の具合を見に外へ出ていった。
 水がたっぷり張った風呂桶に、足先を入れる。ぬるま湯になっていたので縁に座りながら足湯感覚を堪能していると、リヴァイが戻ってきた。

「どんな感じだ」
「もう冷たくないですよ。適切な温度にはまだ足りないですけど」
「焚口は、しばらく放っておいてもよさそうだ」
 リヴァイも傍らに腰を降ろして湯に脚を沈めた。小休憩といったところだ。

 この季節、広い浴槽で熱い湯に浸かりながらの風呂は、きっと極楽なのだろう。両脚をゆるゆると振り、
「リヴァイ兵士長は、浴場を使うんですか」
「自室の浴室を使うことはめったにない。手間もかかるしな」
 三階だから、もちろん手押しポンプなど部屋にはない。個室の浴室は大きめのタライに、わざわざ湯を運んでこなければならないのだ。湯はすぐに冷めていってしまうし、入った心地がしないのは、真琴にとっていつものことだった。

「大きいお風呂にゆったり浸かれていいですね。気持ちいいんだろうな」
「そうか、お前」
 いま気づいたというふうにリヴァイは微かに眼を瞠る。
「浴場を使えないんだったな」
 偽る真琴のせいでもある。仕方ないことなので、ただ苦く笑うだけに済ませた。
「そこまで気が回んなかった。あんな狭い浴室じゃ、不便だったろう」

「それほどでも」
 あるけれど。
 気遣わしげにリヴァイは眉を寄せた。
「んなわけねぇだろ。夏季ならばともかくも、いまの時期は寒いだろうが。冬季が本格的にやってくれば、とてもじゃないが個室の風呂は使えない」
 そうは言われても性別の問題があるのでどうしようもない。

「でも、お風呂に入らないわけにもいかないし、そこは我慢するしか」
「はあ? 相談するってことを知らねぇのか、お前は。馬鹿」
 呆れたふうな口調だった。
 真琴は足をぷらぷらさせる。爪先で蹴るようにすると湯面がちゃぷんと跳ねた。
「だって、自分で蒔いた種だから……」

 鼻息を窺うようにリヴァイは首を傾けた。
「俺は頼りないか」
「なんでそうなるんですか」
 静かに問われて胸がくすぐったくなった。真琴は伏せた顔を上げられない。
「いまは俺が訊いている。質問に答えろ」
「頼りないなんて思ったこと、一度もないです。現にいつも頼りっぱなしで、申し訳ないなって思ってばかりで」
 が、リヴァイは言い切る。
「誤りだ。頼ってきたことなんかねぇだろ」
「そう思っているのはリヴァイ兵士長だけで、ボクは」

 話の途中で腕を掴まれた。顔を上げると、真剣な瞳が真琴の瞳を捉えてきた。
「いいや、お前は頼ってこない。一人で何を抱えてる、何を隠してる、何を悩んでるんだ」
「何も」
 リヴァイはやや強い口調で食い下がる。
「まだ黙るか。怒らせたいのか、俺を」
「違う、そうじゃない」
 真琴は顔を逸らした。相談したいことはたくさんある。けれど言えないものはどうしようもない。でも、
「例えばですけど」

 でもこの答えがあれば、すべてを捨ててもいいとさえ思っていた。リヴァイが決めてくれたら、真琴はその選択肢を選ぶ。そうすれば、隠しごとは意味のないものになり、抱えているものも消える。

「同じくらい大事なものが二つあるんです。それは人生を左右するもので、でもボクは迷っていて選べないんです。だからリヴァイ兵士長が代わりに選んでくれたら、ボクは」
 一度言葉を切る。あと一押しがほしくて真琴は切に請う。
「あなたを信じて、あなたが選んだ選択肢を選ぶ」

 眉間に僅かな皺を寄せ、リヴァイは唇を薄く開けた。真琴の瞳をじっと見つめ、何を求めているのか真意を計ろうとしている。ややして、
「お前の運命を、俺に委ねようというのか」
 真琴が小さく頷くと、リヴァイは堅い表情に変えた。
「俺には選べない」

「なんで」
 真琴は痛ましく眼を見開いた。未来を憂うような口調でリヴァイは言う。
「自分の選択は、自分で決めなければならない。他人に頼るもんじゃない」
「決心がつかないから、ボクはっ」
 リヴァイの腕を掴んで揺さぶる。彼は真琴の手を触れた。

「惑うお前の代わりに、俺が選択してやったとする。そのときはそれで納得するかもしれない。だがいつか、後悔が訪れないとは限らないだろ」
「そうだとしても、あなたが選んでくれたならっ」
「俺が選んだなら、後悔したときにお前は楽だろう。だから俺に委ねようとするんじゃないのか。あのときの選択は間違っていたのだと、俺を恨むだけで済む」
「後悔したとしてもボクは」

 言いかけて真琴は口を噤んだ。なぜ最後まで言えなかったのか、迷ったその先をリヴァイに悟られてしまう。
「本当に俺を恨まないと、言い切れるか。言い切れないだろ」
 言葉が見つからなくて真琴は唇をまごつかせる。リヴァイが言ったことに、少なからずそうなるかもしれないと思ったからだった。

「自分で選んだ選択ならば、例え後悔したとしても、どこかで納得できる。自分の責任だからな。それを他人に押し付けるのは狡い。自分が楽になりたいだけだ、違うか」
 リヴァイの腕を、掴んでいる真琴の手の力が抜けていく。
「頼っていいって……言ったじゃない。頼っていいって言ったから」
 短く息を呑む気配がした。リヴァイのもので、痛そうに顔を歪ませる。
 分からないから、自分でどっちを選んだらいいか分からないから、真琴はリヴァイを頼ったのだ。

「誤解してくれるな。お前に恨まれることぐらい、俺はどうってことはない。真琴が楽になるなら、俺が選んでやってもいいとさえ思ってる」
 本当だ、と掠れ声で言い、リヴァイは真琴の頬をそっと触れる。
「だが他人が選んだ選択は、必ず後悔に繋がる。分かっているから俺は――お前に後悔してほしくないから選ばないんだ。それが真琴の人生を決めるものなら、なおさら俺は選べない」

 この地にとどまれと言ってくれれば、真琴は自分の地を捨て、現代人を捨て、未来の人間として、いまを生きる覚悟を決めようと思っていた。
 けれどリヴァイは選んでくれない。彼を愛し抜くか、愛を捨てて生まれた場所へ帰るか、真琴が選ぶものだと強く言う。

 リヴァイは苦を吐き出すような息をついた。やりきれない面持ちで首を横に振る。
「巧くいかねぇ。珍しくお前が頼ってきたってのに、俺は突き放しちまう」
「分かってます。あなたの言ってることは正しいんです。分かってるのに」
 真琴は唇を噛んだ。だけれどもリヴァイに選んでほしかったのだ。どこへも行くなと、ここにいろと、俺のそばにいろ――と。ただ愛の証明がほしかったのかもしれないが。

 脱力した真琴の手を握るリヴァイの、空いている片方の手が伸びていく。真琴の背に触れようとして、直前で思いとどまるかのように拳を作った。奥歯を噛み締めているのが分かる。
 強く望まれていると、伝わっているのに応えることができない。甘さのかけらもないそんな己を、融通が利かないと憎く思っているのか。耐えるように、リヴァイがきつく瞳を伏せたのが見えた。

 浴場の引き戸が、勢いよく開いたのはそんなおりだった。続いて足を踏み外したような音が反響する。
 音の正体はオルオで、転倒しそうになった身体を扉口で支えていた。泡を食っている顔をしている。
「お、俺、邪魔するつもりではなく!」
「は?」
 扉口に向かって、リヴァイは怪訝に眉を顰めた。

「宿舎の清掃が終わったんで、浴場の掃除をしようと思って来てみただけなんです!」
「なら入ればいい。洗い場の掃除がまだ終わっていない。人手は多いほうがいい」
「で、ですが! 俺がいては!」
 つかえながらオルオは言い訳めいたふうに喋る。視線が、真琴の手を握るリヴァイの手に注視していた。

 リヴァイの視線が握る手に落ちた。そして慌てるでもなく手を離し、やましいことなど何もないというふうな落ち着き払った眼つきでオルオを見る。
「ハンジのくだらない実験につき合わされて、つらいと弱音を吐いてるこいつに、喝を入れてやってただけだ」
「か、喝!?」
 裏返った声はオルオである。リヴァイは凄む。
「おい。妙な勘違いしてるわけじゃないよな」

「も、もちろんっす!」
 オルオは急いで体勢を立て直し、姿勢を正した。が、動揺までは立て直せなかった。
「毎晩女性のもとへ通う兵長が、男など相手にするわけがありません! 発散させるために、女顔の真琴で済ませようなどとも微塵も思えません! 毎夜致しているわけですから!」
 パニックのオルオは、すらすらと熱弁した自分の口を慌てて塞いだ。が、すべて言い放ったあとではあとの祭りだった。

「阿呆がっ。なぜ舌を噛まないっ」と、歯の隙間から嫌悪を吐き出してリヴァイはオルオを一睨みした。次いで決まり悪そうに真琴を見る。

 背を丸めてずっと静観していた真琴は、肩を震わせていた。顔を上げた途端、浴場に笑い声が響き渡る。
「オルオってば可笑しすぎる! 自分で自分の首を締めてどーすんの!」
 涙が滲むほど愉快に笑う真琴を見て、リヴァイが深く息をついてみせた。どこかほっとしていたように見えた。切ない空気を一掃してくれ、笑わせてくれたオルオに感謝したのは、真琴だけではなかったのかもしれない。

 共同浴場を、三人で完璧なまでに掃除したあとで、リヴァイが言った。
「あとで俺の部屋へ来い。いいものをくれてやる」
 いいものとは何だろう、と真琴は首をかしげながらも頷いた。それから夕食後に彼の部屋を訪ねた真琴は、リヴァイから木札を手渡された。それは「幹部貸し切り中(リヴァイ)」と書かれたものであった。

「共同浴場を貸し切りにできる木札だ。今夜からは、それを使って風呂を使うといい」
 慢心露わにそれだけを言い置き、リヴァイは扉を閉めた。彼の部屋の前で真琴は木札を見つめる。
「リヴァイ印の幹部貸し切り中」
 呟いてみた。金ぴかに光るお宝然を、両手で持って天に掲げる。

「やった! 今日から熱々のお風呂に入れる!」
 満面の笑顔で真琴は思わず飛び跳ねた。歓喜の声は廊下でおおいに轟き、
「うるせぇ!」
 と再び扉を開け放ったリヴァイに叱咤されてしまったのだった。


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