14.こんなにもひどく懐古させる

 一階にあるリネン室に来た真琴は、積み重ねられた真新しい匂いがする布団一式を抱えた。一気に六人分はやはり無理で、それでもなるだけ往復を少なくしたいから、三組を運び出して廊下を歩いていた。
 意外にも布団はずしりと重い。加えて三段も重ねると、真琴の頭を優位に超えた。ときどき首を横に伸ばし、前方を確認しながら二階への階段を目指す。

「なんだ、あいつ。ヨロヨロと危なっかしい」
 知っている声が後ろから聞こえてきた。ここにいるはずのない声に、真琴の心臓がどくんと脈打つ。
(うそ、来るなんて聞いてない。寂しくて耳が変になっちゃったとか?)
 振り返るが、布団が視野を遮っていた。それで布団を抱える腕を横にズラして確認すると、少し離れた先に見慣れた姿の面々が、元気そうなリヴァイ班のみんながそこにいた。何ヶ月も会っていないというわけでもないのに、ひどく懐かしく思った。 
 さっきの皮肉げな声は、つまりはオルオだ。納得いったような口調で、
「やっぱり真琴か。そんなモヤシはお前しかいなもんな」
 と笑ったからだ。

 真琴の眼は自然と笑みが零れていった。が、すぐにびっくり顔に変貌する。
「わっ」
 足が絡まって体勢を崩してしまった。前に転びそうになって、腕から布団たちが飛び出していく。
 火事を知らせる鐘のような、廊下を素早く駆けてくる音がした。飛び出しそうな布団ごと前のめりになっていく真琴を、駆けつけたリヴァイが布団もろとも支えてくれた。
 転倒しそうになった衝撃で、真琴は目の前の柔らかな布団に顔を突っ伏す形になった。顔を上げると、
「気をつけろ」
 溜息をつきたそうな、眉を寄せた顔のリヴァイがいた。

 言葉にできない感慨さに真琴は息を詰まらせた。どうしてこんなにも、ひどく懐古させるのか。その広い胸が、まるで故郷であるかのように。
 やっと出た声は息をつくような小ささになる。
「おかえりなさい」
「明後日には、また旧本部へ戻るがな」
「それでも、おかえりなさい」
 泣きそうな顔で微笑むと、リヴァイも固そうな表情筋をほんの少しばかり綻ばせた。
「ああ」

 二人を隔てている厚手の布団を、横から掬うようにオルオが奪った。
「恒例の大掃除だろう? 新兵を迎えるための」
「うん。みんなはなんで帰ってきたの?」
 首を巡らせて真琴は面々を見回した。古城で一人、草むしりを言いつけられて留守番、なんてことはなく、ちゃんとエレンの姿もあった。少し見ないあいだに、ずいぶんと逞しくなったように映った。少年というものは成長が早い。

 問いに答えたのはペトラだった。
「掃除を手伝いにきたのよ。あと、明日の新兵歓迎式にも出席しないとね」
 傍らのエレンに、彼女はにこりと首を傾けた。
 真琴に向かってエレンは遠慮がちに笑む。
「違うんだ。先輩方が俺に気を遣ってくれたんだ。一〇四期の何人かが入団するようだから、って。同期に会いたいだろ、ってさ」
 隠そうとしつつも浮き上がってしまう嬉しそうな笑顔だった。それを見て真琴は安堵を覚えた。エレンの言葉からは、リヴァイ班に可愛がられていることが、ひしひしと伝わってきたからであった。

「ミカサとアルミンにも久しぶりに会えるね。きっとエレンのこと心配してるよ」
「あいつらには迷惑かけたからな。裁判以来、会ってねぇし」
 眼を伏せたエレンは寂しげに笑った。
「積もる話もいっぱいあるでしょ。明日、全部聞いてもらいなよ」
「おう」

「勘違いするな」
 どこか偉そうな声はリヴァイが発したものである。
「エレンは二の次、根幹は掃除だ。俺のいないあいだ、どうせ碌に掃除してねぇだろうからな」
「おっしゃる通りです! きっと兵舎中、カビだらけに違いありません!」
 と従順に返事をしたオルオは真琴に尋ねた。
「で、この布団はどこに運ぶんだ? ついでだから代わってやるよ、お前ふらっふらっして鈍くせぇし」
 
「二階の二〇三号室まで。だけどあと三組持っていかないといけないんだ」
 よしっ、とオルオは気合いを入れる。
「エレン、ついてこい! リネン室へ行って足りない分を持ってくるぞ」
「はい! オルオ先輩!」
 どこまでもついていきます、という感じでエレンが返答した。面倒がる様子もなく、二人はUターンして消えていった。

 スカーフを引き抜いたリヴァイは一振りして皺を飛ばした。掃除態勢に切り替えるときの仕草である。
「ほかに新兵が入居予定の部屋は」
「男子は二〇三号室から二〇六号室です。女子が一〇七号室だったと思います」
「二〇三号室を担当してたのはお前か」
「はい。ミケ分隊長とゲルガーさんの三人で部屋を整えてました」
 真琴が言うと、リヴァイは僅かに顔を逸らして眉頭を寄せた。掃除をしているメンバーに文句でも言いたげだが。

「真琴がいたなら、まあ、掃除は大丈夫だろう」
 心残りはあるけれど自分に言い含めるように頷く。
「ほかはさすがに気がかりだな。エルド、グンタ」
 リヴァイに呼ばれた二人は揃って顔を向けた。
「お前らで仕上げてこい」
「了解です!」
 待ってました、と言わんばかりの応答をし、エルドとグンタは二階へ向かっていった。

「ペトラ」
 次いで声をかけられたペトラは、言うまでもないという態だ。
「一〇七号室ですね。まかせてください」
「全幅の信頼を置いてまかせる。塵一つ残すな」
「もちろんです。ピカピカにしてきます」
 額に手を添えて敬礼を見せたペトラは、次いで真琴にウィンクしてみせた。
「行ってくるね。またあとでゆっくり話そう」
「うん、またあとで」

 急ぎ足で去っていくペトラの背中を見守りながら、真琴は思う。彼らは、リヴァイ班は、自分にとってかけがえのない仲間であり、理解者なのだ。色褪せたようだった本部が急に鮮やかに彩られていくのは、目が可怪しくなったからではない。彼らがいないと、真琴にとってここは居場所たり得ないものだということを示していたのだ。
 ただ怖い、とも思った。リヴァイ班にそれだけ依存しているということが。命を簡単に失うことが当たり前の世界で依存してしまうのは、とても怖いことだとは分かっている。
(もしも、みんなが――)と不吉なことを考えそうになった思考を無理くり止める。恐れていることなど起こらない。そう現実から逃げることでしか、真琴は己を鎮められそうになかった。

 リヴァイはスカーフを頭に被せた。初めて目にしたときの三角巾姿は、男なのに恥ずかしくないのかしら、と眼を白黒したものだったが、いまではどうとも思わない。
「俺たちは浴場の掃除だ」
「はい」
 二人は一階にある共同浴場へと向かう。並んで歩きながら真琴は穏やかに笑った。
「リヴァイ兵士長の教えが、みんなにすっかり染みついちゃいましたね」
「教え?」
 リヴァイは首をかしげる。

「覚えてませんか? 二班を結成した日のこと。初めての訓練が掃除で、エルドさんとグンタさんはともかく、ペトラとオルオはやる気なんてなくて」
 懐かしい思いに浸っていく。
「オルオが掃除を馬鹿にして、ふざけてたとき」
 真琴の言葉をリヴァイが繋いだ。
「俺がやり直しを命じたんだったな」

「はい。みんなして項垂れました」
 あのときは、と眼を少し伏せて真琴は続けた。
「掃除に対して一生懸命になれなかった。でもいまは、みんな自分の使命みたいに思ってるのか積極的です。エレンまでも影響されちゃって」
「そう見えるか、お前には」
 真琴は頷いた。
「あなたの背中を見て育ったんですね……みんな」
 真琴にはそれが絆の強さに見えて仕方ないのだ。リヴァイの育てた部下たちは、彼の意思を継いでいるのものと思えてならないのだ。

「お前は――真琴も」
 静かに吐息を吐くリヴァイを、真琴は首を傾けて促した。リヴァイは顔を巡らせる。
「……染まったか?」
 俺色に。そう付け足されはしなかったが、空耳のように聞こえてきて思わず真琴の瞳は揺れる。細められていくリヴァイの双眸に、そうであってくれと望まれているように感じた。
 真琴の頬は優しく緩んでいく。
「とっくに。きっと出逢ったときから、染まり始めてたんだと思います」
 リヴァイの眼が僅かに瞬く。が、瞬時に口許を歪ませた。
「馬鹿、冗談で聞いたんだ。くせぇこと言ってんじゃねぇ。鳥肌が立っちまっただろう」
 わざとらしくぶるぶると身震いしてみせ、リヴァイは後頭部を掻き毟った。やぶさかではなさそうな面差しだったけれど。

 個室の簡易的な浴室とは違い、大浴場は広々としていた。木製の風呂桶は内部に風呂釜が設置されており、外の焚口と貫通しているから、薪を焼べてやれば、いつでも熱い湯に浸かることができた。
 残り湯を捨てて空になった浴槽の、底を覗き見たリヴァイはご立腹だった。
「湯垢がびっしり付いてんじゃねぇか。こんなんで湯に浸かってんのか、あいつらは」
「当番制で掃除するっていっても、ここは男湯ですからね。適当になっちゃうのも頷けます」
 男子が丁寧に掃除するとは思えない。湯垢のこびりつきようから察するに、ブラシをかけずにただ洗い流すだけで湯を張っていたのかもしれなかった。

 濡れないように、真琴はズボンの裾を腿までたくし上げた。同様にズボンの裾を上げたリヴァイも腕まくりをして、風呂垢という恐ろしい敵との戦闘態勢に入った。片足を風呂桶に入れた途端、不味いものを食べたような顔に変わる。
「……クッソきたねぇ。足の裏が最ッ高に気持ち悪いんだが。肥溜めに突っ込んだほうがマシだ」
「肥溜めよりヒドいんですか。……入るのが怖いんですけど」
 眼で確認できるほどの湯垢に、真琴も拒絶反応を起こしかけていた。掃除をするためには我慢するしかないとはいえ、はずれクジを引いたのは歴然だった。
 怖いもののように、そろりと足先で突いてみる。ぬるぬるした感触がし、悲鳴を上げそうになった。
「自分んちのお風呂ならまだしも他人の垢って。潔癖性じゃなくても耐えられませんね」

「俺の精神状態はお前の比じゃねぇ」
 リヴァイの目許に暗い影が落ちていた。いまにも白目を剥いて放心してしまいそうだけれど。
「失神を起こしそうな感じですね。倒れないでくださいよ。全身垢まみれになっちゃいますから」
「ったく、俺がいねぇとすぐこうなる。っとに碌でもねぇ奴らだ」
 くどくど愚痴りながら、リヴァイはデッキブラシで浴槽の底を磨いていく。真琴も倣い、腰を入れてブラシをかけ始めた。

 垢を削ぎ落とすことに真琴は精を出した。兵士らしくない白い腿には太めの青い血管がうっすらと見える。
「わー、どんどん落ちてく。地図が出来上がっていくみたい。絵を描いてみたら怒りますか?」
 せっせと動かしていたリヴァイの手がどうしてか緩慢になっていく。視線が真琴の脚に釘づけになっていて、どこかぎごちない口調で問う。
「お前、浴場の掃除をしたことはあんのか」
 とにかく垢を落とすことに夢中になっていて、真琴はリヴァイの視線に気づいていない。
「今日が初めてです。ボクは共同浴場を使わないので、掃除当番から外れているみたいで」

「これからもしなくていい。無理に頼まれたとしても断れ」
 真琴は磨くのを止めた。腰を伸ばすと凝りを感じた。デッキブラシを支えに、柄に腕を預ける。
「どうしてですか? 嫌いじゃないですけど、お風呂掃除。べったりついてた湯垢がごっそりなくなっていくのは、ちょっと快感ですよ」
「いらねぇ快感を覚えやがって」
 リヴァイは苦い表情をした。背を伸ばしてぴしゃりと言う。
「身体が快感を求めても、浴場の掃除は引き受けるな。これは命令だ、わかったか」

 真琴は戸惑いつつも頷いた。妙にこだわる理由が分からないから釈然としないが。
「命令だと言うなら、ボクは従うしかないです。リヴァイ兵士長は上官ですから」
 リヴァイはほっとした様子で浅く息をついた。
「変なところで抜けてっからな。なぜ分かんないだか」
「もう、なんなんですか? はっきり言ってくれないと分からないんですけど」
 真琴の不満が燻っていく。有無を言わせず駄目だと言う煮え切らないリヴァイの態度に。

 風呂桶の縁にリヴァイが腰掛けた。
「誰の前でもそうなのか」
「え?」
「それとも、俺の前だから気が抜けるのか」
 その発言は何だか甘くて、真琴の胸をつくんと突いてきた。
「話の意図が分からないんですけど」

 デッキブラシの柄で腕を組み、リヴァイは顎を乗せた。大きく息をついてから、わざとっぽく発音する。
「脚」
 真琴が一度瞬きすると、リヴァイはもう一度、いやにイントネーションをつけ、そして淡白に言う。
「脚だ、脚」

 言われて真琴は視線を下げた。巻き上げて短パンほどの丈になっているズボンと、太いか細いか自分では判断できない両腿が見えた。
 どうしてこだわってきたのかが分かった。真琴は顔から火を噴きそうだ。
「しょーもないことを気にしてますっ。だって裾を捲らないと濡れちゃうし、リヴァイ兵士長だって脚を曝してるじゃないですかっ」
「しょーもないこと?」
 リヴァイは呆れた感じの眠そうな眼つきをした。
「俺はいいんだ。お前は、もっと自分を自覚したほうがいい。危機感がなさすぎる」

 リヴァイが素肌を気にかけてくれたことが、真琴の羞恥をひどく煽った。言っていることは理解できるが素直になれない。俯きがちに小さく言う。
「男……同士で危機感とかって、変ですよ」
 まだ言うか、と言いたげにリヴァイはジト眼をした。
「俺は忠告したぞ。そのあとで事故が起きたとしても、もう知ったこっちゃねぇからな」

 とうとう匙を投げられてしまい、真琴は眼を泳がせた。声も消え入るようになる。
「何を心配してるのか、ちゃんと分かってますって」
 たくし上げすぎたズボンの裾を膝小僧付近まで降ろしていく。同じ要領で片脚にも手をかけたときだ。
「なんだ、もう隠しちまうのか。もったいねぇなことを言っちまった。なかなかの値打ちもんだったってのに」
 中腰でクシャクシャな顔だけを上げた真琴は、
「どっちなんですかっ」
 あつあつな湯に浸かっているわけでもないのに、のぼせそうな気分だった。


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