弱くても生きられないわけじゃない

 彼女の弱さに触れたのは赤井だ。沖矢ではなく。
 だから暫くの間、沖矢はあくまで何も知らない同居人としてナマエに接していた。頼まれたわけではなく赤井が勝手にした配慮だったが。

「…うん、今日のベーコンは完璧ですね。火の通り具合も、油の量も。本当に沖矢さんは料理の上達が早いですね」

 いつものように彼女が朝食の批評をしたとき、沖矢はふと手を止めてしまった。その日のベーコンには塩を振りすぎて、作った本人ですら食べるのに苦労するほどだったからだ。だから思わず言ってしまったのだった。

「……君は、味を感じないのに、いつも正確な批評をしてくれていたんですね」

 先日の一件があってから、工藤夫妻に連絡をして、事情は聞いた。だが聞いたのは飽くまで赤井だ。今の台詞は、何も知らない沖矢が言っていい台詞ではなかった。
 失敗したか、と思ったが、ナマエはとくに様子を変えなかった。

「全く感じないというわけじゃないんですが。…あ、もしかして塩ふりすぎたんですか?確かにちょっとざらざらするなぁとは思ったんですよね」

 事もなげに、彼女はそう言った。触感だけを頼りに、日常生活を営むふりを続けていたのだと知る。彼女の指摘は沖矢の知る限りいつも正確だった。牛乳の量、油の量、火にかけるタイミング、野菜の切り方、卵のとき方。味覚も嗅覚も殆ど麻痺していることなど悟らせないほど。

「ベーコン、全部私がもらいますよ。私ならどっちでも…」
「塩分過多ですよ。一度洗ってパスタにでも入れることにしますから、残しておいてください」
「……分かりました。………あの、今まで、嘘をついていたわけじゃないんですよ?でも、…正確な批評もできないのに先生ぶってて、すみませんでした」
「謝ることではありませんから。むしろ、それなのにご教授いただけて有難いことです」
「それならよかったですけど」

 事もなげに彼女は会話をする。味覚が働いていないことを告白しながら。
 それはあまりに普通で、平常で、……いっそ痛々しかった。喚き散らしてどうなることでもないと知っているからこそ普通に振る舞っているにはちがいないのだろうが。

 それにしても、物心ついた頃にはほとんど味覚がなかったと聞く。それなのにスクランブルエッグの完璧なつくり方やゆで野菜の塩加減を知っているのは一体なぜなのだろう。
 赤井と沖矢を区別することを諦めた昴が彼女に直接訪ねると、彼女は分からないくらい短い一瞬の間息を詰めてから、また事もなげに答えた。

「兄は正常でしたし、私に食べさせるものでも両親は気を遣って作ってくれましたから」

 なるほど経験で覚えていたらしい。…何が美味かを知覚できないのにどんなものが美味であるかは知っているなんて、虚しいと言えば虚しいのかもしれないが。

「いい親御さんとお兄さんだったんですね」
「…ええ。特に兄は口うるさくて。塩加減にもうるさかったし。食育はしっかりされていたから、舌が肥えてて」
「そうですか。………それなら、今日のスクランブルエッグはいかがですか」
「スクランブルエッグですか?…そうですね、」

 ナマエは不意に、片手の親指と人差し指で両頬を無理やり持ち上げる、不思議な仕草をした。一体何だ?

「卵のなめらかさが、とても私ごのみです」

 なるほど、笑顔を表現しているらしい。

「それは、光栄です」

 沖矢はにこりと綺麗に笑って見せた。…どうせこれも作った笑顔だ。指で持ち上げるか筋肉で持ち上げるかは大した問題じゃない。彼女なりの満面の笑みを見せてくれたということなのだから。



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