露見した彼女の弱さ
ある朝。ナマエは工藤邸の彼女の部屋から出てこなかった。昼頃までは放っておいたが、流石に無理やり外に出すべきかと沖矢は少しだけ悩んだ。
「あいつたまにそうなるんだ。大丈夫だから、放っておいてあげてよ」
遊びにきたコナンの言葉と口調は、完全に、年上の親戚のお姉さんに対するものではなかった。だが沖矢はそれを追求することはせず、彼の言葉に従った。
次の朝も、彼女は出てこなかった。風呂やトイレはどうしているのだろう?流石に不安にもなる。
「…ナマエさん?」
そっとノックしてみても音沙汰がない。
仕方なく、以前わたしたティディベアから聞こえる音声を拾っては見たが、逆に不安になっただけだった。生活音どころか、呼吸も、一切の衣擦れの音すらも聞こえてこなかったので。
工藤家は危機管理意識が強く、それぞれの部屋に防災グッズや、数日分の水と食料、工具が備え付けられている。いつどこで何があっても、どの部屋からでも逃げ出せるように。それはもちろんナマエの部屋も同じことなのだが、それでももって数日といったところ。
三日目、とうとう赤井は断りなく部屋の扉を開けた。沖矢でなく赤井の姿で入ったのは一種の賭けだ。部屋の中には、ベッドに腰かけ、所在投げにただ佇んでいるナマエの姿があった。赤井は素早く彼女の様子を検分した。
「精神科には?」
返答はない。後でコナンか工藤夫妻に訊くよりほかにはないだろう。
「………素人判断だが、重度の抑うつ状態だな。薬は処方されているのか?」
やはり、返答はない。
「…聞こえていないのか。」
そのうち、ナマエの体はゆらゆらと前後に揺れ出した。何かをこらえるように手が腕をさすり始める。
「俺の存在は負担か?それなら出ていく。出ていくのがまずいなら何でもいいから反応しろ」
返答はない。だが、ナマエの動きが止まって、ゆっくりと、顔が上がった。
………あかい、さん、 声と言えないほどの微かな息が漏れる。ほっとして思わずその肩を抱いた。
………あかい、さん、でていって、ください。おねがいだから…… 微かな無声音がささやいた。
「……反応したからには、出ていきはしないさ」
すぅっと、何の前触れもなく、ナマエの瞳から涙が流れた。
ごめんなさい……「ああ……」
ゆらり、すらり、
揺れる肩を抱きながら、一緒にただ揺れて、
夜は更けていった。
*
部屋の中にはナマエとコナンの二人だけ。
何を言っても、何を聞いても、明日には無しにしよう。だから、とにかく、話をしよう。
そんなささやかで不確かな約束を頼りに、ナマエはようやく口を開いた。
「……しにたい。」
何度もためらい、のみこみ、そうしてようやく吐き出すことができたのは、そんな最低な言葉だった。
「……ごめんなさい。」
どれほど苦しんでいるのか、そんな思考に意味はない。自分より苦しんでいる人間は掃いて捨てるほどいる。自分の苦しみを何てちっぽけだとあざ笑う人間もきっといる。そして自分自身それを否定することができない。
こんな苦しみに捉われる自分を愚かだと自分が一番思っている。さっさと抜け出したいのに、抜け出せない。きっと抜け出したいという思考自体がそもそも違っている。抜け出すのではなく、受け入れて、受け止めなくてはいけないのに。そこまで分かっているのにそれができない自分がただ酷くもどかしい。
だから死にたいのだ。死にたいと思ってしまうことそれ自体が死にたいと思う理由になる。論理は破綻しているが、それは真実だった。
「………ごめんね。お兄ちゃん」
「……ナマエ」
「そんなことしないよ。ぜったい、しなない。だって、いちばんしちゃいけないことだもんね?」
「…ナマエ、」
「自分で自分をころすなんて、いちばんしちゃいけないことだもんね?」
それが工藤新一の、江戸川コナンの信念であることを、ナマエはよく知っていた。
犯人すらも死なせはしない、その強さ、その恐ろしさ。
「……もういい、ナマエ」
「……ごめんなさい」
「……オレの考えは、お前を追いつめてたのか?」
「ちがうよ、ちがう、それだけはちがう、ほんとうに…ただ私が弱いだけなの。誰も悪くない。自殺したら周りの人が自分を責めちゃうものらしいけど、本当に、ちがう。ほんとうのほんとうに自分だけのせいだから。他に何も原因はないよ」
「………」
「……ごめん、この思考回路自体きっとおかしいよね?だいじょうぶ、分かってる、希死念慮なんて、ただの鬱病の症状のひとつだよね。病気なんだよ、きっと。だいじょうぶ、しなないよ。だってそれって病気に負けるってことだもんね?大丈夫、理解してる、きちんと治療して、セロトニンを増やせば、なおるよね、うん、だいじょうぶ、だいじょうぶ、わかってるから」
自分に言い聞かせるようなその言葉は、いっそ痛々しく、コナンの胸をえぐった。
「……それでも、死にたいんだろ?」
泣き出してしまいたくなった。
「…………うん」
ナマエは音もたてずに泣き出してしまった。コナンはそっと息を吐いた。
それでも今この瞬間、ナマエは生きている。まだ何か道はあるはず。
…死ぬ他に救いがないなんて、認めない。
「…ナマエ、ごめんな」
「……やだ、やだ、やだ、ごめんなさい、ちがうの、お兄ちゃんが謝ることじゃないの、ごめんなさい、わたしが弱いから、…わたしが弱いばっかりに、こんな、ごめんね、」
壊れそうな、あとほんのわずかな衝撃が加われば簡単に砕けてしまいそうな、脆い眼光が、揺れた。
そして。きゅるきゅると螺旋が巻き直されていくように、不意に、しかし急速に、ナマエの瞳に光が戻った。正常へ。平衡へ。均衡を保とうとする力が目に見えるかのように。
「あー、あ、…わたし、何言ってんだろ。ごめんねコナン君。忘れて。あーでも、縄と刃物と銃の類だけ遠ざけてて。それだけでいいからさ」
えへへ、と、笑った顔は随分ひさしぶりに見たものだった。“普通”すぎて、あまりにも痛々しい。
「…わかったよ、ナマエ姉ちゃん」
それ以外に、一体何が言えようか?
がんばって、とも、無理をするな、とも、……謝罪の言葉すら。
「……ナマエ姉ちゃん。ボク、ナマエ姉ちゃんのこと、大好きだよ。いなくなっちゃったらきっと悲しいよ」
子どもの姿でよかった。新一だったらきっとあまりに困難な言葉も、子どもであるという建前を借りれば、少しは言いやすい。
「ほんとうだよ」
「…うん、分かってる。ありがとう」
笑って見せた彼女は、きっと本当だとは思っていないのだろうな。それを感じながらも、もう他に言える言葉は残っていないかった。
*
「あ
――」
不意に漏れた彼女の言葉は、別に不安定さも危うさももう孕んでいない。勉強に疲れた学生が伸びをするような、仕事に疲れた社会人が一服するような、ただの音の羅列。少し迷った後、赤井はあくまで普通に言葉を返した。
「どうした」
「……みんなの記憶から、私のことだけきれいに抜け落ちてくれないかなあ」
赤井は、じっとナマエの横顔を見た。
「…………無理だ」
「ですよね」
じゃあやっぱり、生きるしかないか。そう、ぽつりと聞こえた。
そう。生きるしかないのだ。生きなければならないのではなく、生きていてもいいのではなく。生きるしかない。
「……ったく、じゃあ何で死ねるんだろ。老衰以外の死なんか物理的に不可能にしておけばいいのに。生命ってのも案外いい加減なプログラムですよね」
「そんなプログラムなら、探偵もFBIも医者も、その他あらゆる職業も廃業だろうがな」
「確かに。じゃあやっぱり、うまくできてるのかな」
そんないい加減な会話を交わしながらも、二人とも本当は分かっていた。
この世界や生命がどんな風にできているのかはもはや関係がなく、
ただ生まれ落ちてしまった以上、存在する世界に合わせて生きていくしかないのだと。