猫と戯れ
滅多に笑顔を見せない少女の笑顔に、沖矢は思わず立ち止まった。と、少女は沖矢に気付くなりその笑顔を潜めてしまったが。
「…珍しいお客さんですね」
工藤邸の門の前に佇んでいたのは、隣に住む灰原哀だった。
「……ちょっと用があったからよ」
そうでもなければ立ち寄りもしない、と言いたげな灰原の視線に、沖矢は苦笑した。
「用、というのは、その腕の中のものに関してでしょうかね」
「………ナマエさん、まだ帰ってないの」
「ええ。上級生は大体この時間に授業が終わって、今頃帰路についている頃じゃないでしょうかね」
警戒心丸出しの少女の腕には、まだ小さな体の子猫が抱かれている。先程の少女の笑顔の訳はこれだ。
「どこからか迷い込んできたんだけど…今度博士が学会に発表するメカ、繊維厳禁なの」
「なるほど。子猫の細かい毛が飛んでは困るということですね」
そこで子猫をどこかへ放り出す、という選択肢は灰原にはないらしい。動物好きなのだろう。
「責任をもってお預かりしますよ。里親まで探しておいた方がいいですか」
「……ええ、そうね。そうしてくれると助かるわ」
今まで近寄ろうとすらしなかったこの少女が、こうして素直に頼ってくれるだけでも沖矢にとっては僥倖だ。大きな進歩といえるだろう。
…同じく滅多に笑顔を見せないこちらの同居人の少女も、子猫には笑いかけるだろうか。
引き受けたのには、そんな下心もあったのだった。
*
「……沖矢さんが猫を洗っている……」
帰宅し、荷物は部屋に置いてきたのだろう。手を洗いに洗面所へやってきたらしいナマエが呟いた言葉に、浴室に居た沖矢は顔を上げた。
「私だって猫くらい洗いますよ」
「…そ、そうですか…」
また微妙な顔をしているのは、中身が赤井秀一であると知っている弊害なのだろう。
本人としてはそこまでおかしなことをしているつもりはないのだが。
「君も洗いますか?」
「………………え?」
奇妙な沈黙が落ちる。ああ、と沖矢は笑い、からかいまじりの口調で付け足した。
「猫を、ですよ?」
「……………………ちょっと待ってください、別に“私を”だなんて誤解をしていたわけでは」
「別に何も言っていませんが」
「……口が回る人間ってのはこれだから…」
そうぼやく彼女自身も頭と口が回る方ではあるだろうに、時折沖矢の発言に固まるものだから非常にからかいがいがある。そうやって遊ばれても怒りもしないのが沖矢を助長させているのも分かっているだろうに、それでも彼女は怒らない。
ある意味、ボウヤ以上のお人よしだ。
「もう少しで洗い終わりますから」
「はあ…」
暴れつける小さな子猫を押さえつけながら、ドライヤーをかける。まだ小さな体で目いっぱい抵抗してくるせいで、沖矢の手には小さなひっかき傷がいくつもついた。
「あの、手……」
「これくらいなら、支障はありませんよ」
そう答えると、ナマエはほっとした表情を見せた。
コナンもそうだが、ナマエも、沖矢の手に傷がつくのを恐れる。赤井の商売道具であるからだろうが、こちらとしてはもう少し他の部分も心配してほしいところだ。まるで狙撃の腕以外はどうでもいいと言われているような気になるので。
「…それで、何で猫なんか?しかもまだ小さい」
「いえ、やむをえない事情でお隣から預かりまして…」
簡潔に猫を預かった経緯を説明すると、ナマエは納得したような納得していないような表情でうなずいた。
「しばらくこちらに置いてもいいでしょうか?」
「え、ああ…はい」
とりあえずの了承を得たところで、沖矢はドライヤーのスイッチを切った。
「なんか…手慣れてますね。私なんか、触るのも怖いのに」
「そうですか?…まあ、小さい子の髪を洗ったり乾かしたりしたことはありますから」
「………人間と猫とじゃだいぶ違うと思いますけど」
そうだろうか。似たようなものだと思うが。特に下の妹の幼い頃など、子猫と何ら変わりない。沖矢は赤井の下の妹を思い浮かべた。
じっとこちらの手元を見詰めてくるナマエに、沖矢は猫を差し出した。
「触ってみます?」
「や、…触るのも怖いって今言ったばっかりじゃないですか」
「もうおとなしいですよ。さっきは水が怖くて暴れていたんでしょう。かわいいものです」
「………………」
と、またナマエが固まった。これも赤井らしくないからだろう。沖矢はにこやかに子猫を差し出した。
「うわ、ちょっと、やめてくださいよ」
「だいじょうぶですよ、ほら」
たまらずナマエが逃げ出したところで、沖矢は残念そうな表情を作って子猫を戻した。
「…騙されませんからね」
しかし、警戒心丸出しの子猫のようなナマエの言葉には、耐えきれず噴き出してしまったのだった。
*
沖矢もずっと子猫を腕に抱えているわけにもいかず、いったん手を離すと、子猫は狙ったかのようにまっしぐらにナマエのもとへ駆けていった。壁の向こうから聞こえてきた小さな悲鳴に、沖矢は苦笑してその後を追いかけた。
ちょうど冷蔵庫から飲み物を取り出そうとしていたらしいナマエは、足元にまとわりつく子猫に苦戦している。登ってこられそうで怖いのだろうが、あまり動くと飲み物がこぼれそうなので動くに動けない、といったところだろう。
「すみません、夕飯を作ろうと思って離したら……」
「…っ、と、とりあえずどうにかしてくださいこれ!こぼれる!」
「…ふ、…分かりました」
普段あまり表情のない彼女にしては、かなり珍しいほど動揺している。彼女自身もそう思ったのか、誤魔化すように睨み付けてきた。
「…何だか今日は随分沖矢さんの笑い顔を見た気がします」
「同じだけ君の珍しい姿も見られたということです。私としては他の子どもたちとの接し方も学べて一石二鳥です」
言いながら、沖矢は腕の中の子猫に視線を落とした。
「ケージでも必要ですかね…」
ここまでナマエに支障が出るとは思わなかった。子猫一匹くらい、と思っていたが甘かったか。
「…ケージに閉じ込めたりしたら灰原さんに怒られます。……夕飯は私が作るので、沖矢さん抱いててください」
そこまでなのか、と、沖矢はまた笑いをもらした。今まで休日の昼などにナマエが軽食を作ったことはあっても、たいていの場合料理は沖矢が作っていた。単純に時間があるから、というのもあるが、腕を上げておいて損はないだろうと考えていたからでもある。
「包丁と火の扱いには気を付けてくださいね」
「…………分かりました」
まるっきり子供に向けるような言葉を言われたのが納得いかなかったのか、何となく憮然としたような表情をするナマエを、沖矢は微笑ましく見つめた。
「ホー…手慣れてますね」
「わっ、ちょ、こっち来ないでください」
「酷いですね…君にはこの子猫が猛獣にでも見えているのかな?」
「……………誰しも苦手というものはあるんです」
「弱点になる前に克服すべきだとは?」
「いったい誰が子猫を使って攻撃してくるっていうんですか」
「何があるか分からない世界に君ももう足を踏み込んでいるじゃないですか」
言いながらも、とりあえず組織が子猫でナマエを責めることはないだろうな、と思って沖矢は一人でまた笑ってしまった。
「それに、昔のとある国では、猫は神聖な生き物だと扱われていて、王城を陥落させる際に猫攻めというのをしたそうですよ。猫を大量に放ち、人々が猫の救出に追われている隙に攻め込んで城を陥落させたそうです」
知識豊富な人間というのは、たかが人をからかうだけのためにもその知識を存分に使うものらしい。ナマエは早々にギブアップすることにした。
「………もう、好きにしてください」
「ではお言葉に甘えてそうさせていただきます。見ていて勉強になりますから」
「………こんな人だとは思わなかった………」
明らかに自分をからかって遊んでいると分かったのだろう。愕然としたように呟きながらも、ナマエの手は手際よく作業を進めていく。今夜の夕飯はチキンのグラタンと魚介のスープらしい。普段煮込み料理ばかり沖矢が作るせいか、更にもう一品野菜の炒め物が加わった。エビの背ワタと腸を取り、種類ごとに適切な形状に野菜を刻んでいくナマエの包丁さばきはなかなかのものだ。料理を始めたばかりの沖矢よりもよほど手際が良い。沖矢は時折真剣に質問したりしながら、料理の完成を待った。
…当初の予定である笑顔は見られなかったが、動揺している姿や焦っている姿、多少怒っている(といっても全く大したものではないが)姿などが見られたのでよしとしよう。
*
「…すみません、猫の世話、任せきりで」
「いえ、居候の身で勝手に連れ込んだのは私ですから。それに里親探しは君にしてもらうことになりましたし」
「まぁ、それは…」
ポスターを貼って探していては時間が掛かりすぎるし、かといってネットなどで探すわけにもいかない。住所や電話番号を載せるわけにはいかないからだ。となると必然的に知人をあたるしかないが、当然この世に存在するはずのない人間である沖矢には伝手などない。あってジェームズくらいのものだ。
「…にしても、昴さんがお風呂に入ってる間、どうしようかな」
「……何なら一緒に入りましょうか?」
「…………………」
「…ああ、もちろん、」
「子猫と、ですね。でもこの子今日二回目じゃないですか」
昼間からかわれたのを思い出したのだろう、先回りして早口にナマエは言った。
「弱点克服だと思って頑張ってみますか?」
「……弱点ってほどじゃないと思いますけど……」
反論する声は弱々しい。しかし、ナマエは、決心した顔でうなずいた。
「分かりました、私が見てます。…なるべく早く出てきてくださいね」
たかが子猫を見るのに大げさな、と思わなくもなかったが、沖矢は素直に「分かりました」とうなずいた。
「ってほんとに早っ。烏の行水じゃないんだから」
足音に気付いたのか、振り向きもせずにナマエが言った。赤井はタオルで髪を拭きながら、ナマエの正面に向かう。
「早くと言ったのは君だろう」
「…………そう、デスネ」
正面に回った“赤井”の姿を見たナマエは、また一瞬固まった。その膝には疲れ切ってしまったらしい子猫が寝ている。そのせいで動けないのだろう。緊張しているのか、ナマエの体は見るからにがちがちに固まっていた。
「まだ慣れないのか?」
赤井が意地悪く問いかけると、ナマエの表情が警戒に強張った。またからかわれると思ったのだろう。
「…………どっちに、ですか?」
「ん?ああ……この場合、俺の素顔に、だな。猫には随分慣れたようじゃないか」
「…おかげさまで。でももういいです、ひきとってください」
「まあ、もう少し待ってくれ」
がしがしと髪を拭きながら、赤井はナマエの横に座った。本格的にその小さな体が強張っているのが分かる。
「……風呂が早いのは、あれなんですかね、やっぱり戦闘職種の性なんですかね。日本の自衛官とかもかなり早風呂だし」
今日の彼女はいつになく饒舌だ。やはりたまにはイレギュラーを起こすのも悪くない。
「まぁ、いつ何時なにが起こるか分からない職業だからな。早いにこしたことはない。…それより、そんなに小声で喋ることもないだろう?」
「だって起きちゃうかもしれないし」
「子猫にまで気を遣うこともないだろうに」
赤井はくつくつと笑いをかみ殺した。と、ナマエがまじまじとこちらを見ているのに気付く。
「………赤井さんでも笑うのか……」
「…君は俺を何だと思っているのかな?」
「…すみません」