ハッピーエンドの始まりは

「知っているつもりだったが、改めて、工藤ナマエは恐ろしい少女だな」

「そりゃそうじゃない。あれだけの人数を密かに救済して、隠匿して、暗躍させていたのよ?工藤君なんか目じゃないわ」

 ナマエの希死念慮と抑うつの傾向を見抜き、恐らくナマエが近いうちに自死あるいは失踪をたくらむだろうと予測した灰原と赤井は、密かにナマエに軽度の睡眠薬と覚醒薬を飲ませ、自白剤のような効能をもたらして、彼女の計画を暴き出していた。

 長期間のフライト中にそれは行われた。長年の緊張感からの一時的な解放がある今この時、時差と浮遊感による感覚を利用すれば、夢見心地のまま内心を聞き出すことができるはず――その計画はどうやらうまくいった。

 もしこれすらも攪乱のための偽の情報だとしたら打つ手はないが、ナマエの強みは、あくまで事前に秘密裡に練った計画と綿密かつ周到な手駒の配置であり、突発的かつ予測外の事態には弱い。それは近くで彼女を見ていた赤井にはよく分かっていた。突発的な事態への柔軟な対処は、彼女よりむしろ彼女の兄の得意とするところだ。兄と妹、個々では未熟さも不足も残るが、補い合えば完璧以上の成果を上げる。

「工藤夫妻には告げるのか?自死を防ぐとなれば、同居者の協力が不可欠だ」

「そうね。幼い頃は何度か自殺未遂を繰り返していたと聞くし、彼女のご両親にとっても、全くの想定外というわけではないでしょう。それが最善だと思うけど?」

「そうか」

「ご不満のようね?」

「いや、……そういうわけではないが」

 灰原は怜悧な視線を赤井に向けた。姉を騙し、利用して死なせた男だとつい最近まで思っていたので(最近それは利用して騙して昏睡状態にさせた男、という認識に改められた)、灰原は今でも赤井に対してフラットに接することができない。
 赤井は無表情ながら、その視線に咎められているという意識はあるのか、観念したように小さく息をついた。

「……。彼女が地獄の底へ行くのなら、その供をつかまつると約束した」

「ハァ?……相変わらず気障ったらしいことね。大体、地獄の底へ行かせないのが私やあなたの仕事じゃなくて?それともなに?FBIを辞職して彼女の専属のSPにでもなるというのなら止めないけど?もちろん無償奉仕なんでしょうね」

 皮肉気な言葉は留まるところを知らない。赤井は無言で顎を撫でた。

「……。それもいいな」

「……ちょっと、本気なの?」

「まあ、実際のところ、西海岸に最大の残党勢力組織が残されているのでな。その監視・制圧を兼ねて彼女の保護にあたる……というのが妥当な道だろう」

 呆れたような顔をしていた灰原の目が、一気に鋭く、冷たくなった。フッと嘲笑が漏れる。

「ナマエのことも利用するのね。組織の残党への餌として。守りたいなんて言い訳、みっともないからいちいち付け足さないほうがいいわよ」

 明美の件があり、しかもまだ解決していないので、赤井は灰原には無条件降伏である。軽く肩をすくめて、この件についての話を終える意思を示した。

「それより、君はいつまでサンフランシスコに?」

「解毒剤の効き目も自分の体で確認できたけど、そうね、最低でも二カ月は調整が必要かしら。工藤君まで無理に薬を飲んで渡航しちゃったし。一年もあれば薬は完成させてみせる。……解毒剤も、お姉ちゃんを治す薬も、ね」

 ふ、と灰原は笑った。
 その時の笑みだけは、皮肉や自嘲のこもらない、心からの笑みであるように見えた。
 赤井もわずかに頬を持ち上げてそれに応えた。

 後処理はいつも面倒なものだ。世界を救うだけで終わるなら、英雄業だって楽なものだろうに。




 カリフォルニアの街並みは、なぜだか日本より明るく、埃っぽく見えた。助手席に座るナマエの左側でハンドルを握る赤井は、煙草に火を点けずにくわえたまま、窓を半分開けている。日本で運転していた真っ赤なものと比べれば地味なシルバーの、それでもフォードマスタングのスポーツカー。あっという間に家は近づいた。

 フライトの後からどうも彼の顔を直視できない。夢かうつつかも分からぬまま、何かぐちぐちと弱音を吐いたような気がする。でも、ずいぶんと頭がすっきりしているので、恐らくあれは夢、の、はず。

「おかえりなさい、ナマエちゃん」

 満面の、しかしいつもの元気いっぱいのあの態度ではなく、穏やかで慈愛に満ちた声と顔で、ナマエは家に迎えられた。家まで運転してきた赤井は、挨拶もそこそこに去って行った。やはり仕事だったのだろう。ナマエのためだけに渡米したなんてそんな都合のいい事態よりそっちの方が信じられる。

「ただいま母さん、……父さんまで」

 優作はナマエの(ほとんどないも同然の)荷物を持つと、ドアを開けて、まるでナマエを一国の姫のようにうやうやしく迎え入れた。
 あたたかいココア。なめらかなプリン。規則正しく揺れるウッドチェア。どれも、かつてナマエの心を落ち着かせるために両親が試行錯誤して見つけたものたち。

「しばらくは仕事を受けないことにしたんだ。三人でゆっくり過ごそう。お前が嫌でなければここの通信制インターナショナルスクールでいくらでも教育は受けられる。家から出ずにだって過ごせるぞ」

 ナマエは笑って礼を言おうとして、しかし、一瞬、言葉に詰まった。

「……どうして。どこまで私に都合がいいの、この世界は」

「ナマエちゃん」

 シィー、と、有希子がナマエの唇に人差し指をそっと押し付けた。
 まるで、いいのよ、何もかも分かっているの、とでも言うような……真に子どもを理解したかのような口ぶり。
 そして実際彼女は何もかも見通しているかのように思えた。
 そんなはずは、ないのに。

「……お願いがあるんだ、母さん」

「何かしら?」

「それが何だろうと叶えてくれる?」

 有希子はにこりと笑って、しかしイエスとは答えなかった。

「母さんと父さんになら絶対にできることだよ。必要なのはお金と、それを許してくれる寛容な心だけだから」

 ナマエはすぅっと息を吸った。声が震えないように。

「全寮制の学校に、行かせてください。スイスの、KLASに通わせて。日本人学校だし、美しい場所だし、……そこにいた方が、私は楽なんだ。集中して、何もかも忘れて、自分の人生を生きられる」

 有希子は微笑したまま、少しだけ息をついた。諦めではない、困った子どもをどう諭そうかと頭を悩ませるような慈愛の微笑。
 口を開いたのは優作だった。同じく微笑のまま、でも少し怖い顔。
 この表情は、いつだったかにも見たことがある。

「そうしてアルプスにハイキングにでも行って、事故に見せかけて姿をくらまそうとでも?」

 思い出した。新一がコナンになったばかりの頃、共にアメリカに行こう、と、有無を言わせぬ提案をしたときのあの顔だ。
 新一は結局自分の望みを通して日本に残った。そして兄と共にナマエも残ることを許された。それはひとえに新一への信頼によるもの。……ナマエへのではない。

 ナマエは唇をふるわせた。
 どうしてこの人たちは、何も打ち明けていないのに、こんなに私の心が読めるのか。

「……だめなの。何をどうしてくれても。私は……私は、死ぬかもしれない。治し方が分からない病気だよ。母さんたちを悲しませたくない」

「遠く離れたところにいれば悲しまないとでも?」

「父さん。分かったよ。それなら私を精神病棟にでも入れて隔離して。一日中見張りをつけて、手足もベッドに縛り付けて。私をどうしても死なせたくないならそうする他にないよ。父さんの力があれば、いい病院をいくらでも見つけられるでしょう」

「誰に似たのか、頑固だな。でもそこが君の美徳でもある」

「あなたに似たのよ、新ちゃんもね」

「君じゃないのか?誰にも知られずやり通した演技力なんて、いつかの君そっくりだ」

「……父さん、母さん、冗談じゃないんだ」

「あら、私たちだって冗談じゃないわ。誰があなたをそんな暗くて冷たいところに一人追いやるものですか」

 ふふ、と有希子は笑った。

「……どうして?どうしてそんなに私に都合がいいの?どうして……」

「当たり前でしょう?あなたを愛しているのよ。ナマエちゃん、たとえあなたがどんな暗いところにいるんだとしても、どんな秘密を抱えているんだとしても、ね」

「疑わないの?……そんな秘密なんか抱える暇はなかった、って。そんな秘密なんか本当はなくて、全部ただの私の行き過ぎた猜疑心と妄想で、私に必要なのはただ脳や精神の治療かもしれないって」

「疑わないわ。あなたに必要なのは、あなたを何があろうと受け入れる誰かだけで、私も優作も新ちゃんも赤井さんも、他のたくさんの人間も、その誰かになりたくてたまらないのよ。あなたに必要なのはただそれを受け入れるだけ。心を開いて認めるだけのことなのよ」

「……“それ”が何か、聞かないの?」

 ナマエを悩ませ、そしてナマエを非凡たらしめ、今回の組織の壊滅さえ可能にした、ナマエの最大の“秘密”。兄が最後まで求め続ける、“たったひとつの真実”。
 けれど有希子は事も無げに肩をすくめた。

「あなたがでもジョン・コーフィでもエリオットでもXメンでも、あなたが話しても話さなくても構わない。……ちょっと待って、ナマエちゃんならXウーマンかしら、ううん、Xガールかしらね」

 ナマエは思わず少し笑った。

「……アレックス・ブラウニングでも?」

 飛行機墜落を予知しFBIに首謀者として疑われ、結局は死んだ予知能力者。しかもナマエは彼と違って、大勢を救うために予知を公言したりはしなかった。
 全部、映画の中の、おとぎ話の登場人物たち。
 有希子はあら、と目を輝かせた。

「FBIが敵になるなら、秀ちゃんだって敵に回すわ。科学者たちがあなたをこぞって調べたがるなら、世界の果てにだって一緒に逃げるわ。優作の名前で今まで関わった全部の雑誌に全部暴露したっていいし、そうね、こういうのはどう?一緒に工藤カンパニーを築いてひと財産設けるの。それでスイスでもどこでも、世界のどこにだって自由に行けるわ。政府にも研究者たちにも漏らさずに私たちの言うことを聞く出版社はいくらでもあるのよ」

「……そんな、めちゃくちゃな」

「楽しいじゃない!素敵よ、ねえ、そうしましょ?」

 ナマエを守るためというより、本気で「楽しそうだから」という理由で有希子はそう言っているようだった。優作も止めるどころかにこにこ笑ってうんうんと肯いている。ナマエは一粒の涙とともに苦笑を漏らし、大きく肩を落として息をついた。

「分かった。分かったよ、降参」



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ジョン・コーフィはグリーンマイル、エリオットはE.T.からです念のため
Xメンは言わずもがな。


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