小説は事実より奇なり

 その日、沖矢昴は、思考の妨げにならない程度のアルコール―気に入りのバーボンを嗜みながら、工藤ナマエという少女について考察していた。
 ヒントは恐らくもうほぼ出そろっている。

 ジェームズが誘拐された際、予知めいた言葉を言っていたこと。
 ESP捜査官というワード。
 東都現像所付近で灰原哀の監視をしていた捜査官に赤井秀一の名を出したこと。
 ハッキングの腕前。
 灰原哀の来訪を予知していたかのような行為。
 時折予知めいた言葉を継げること。

 全てを鑑みれば、いくつかの可能性が浮かぶ。そのどれもが、この推理をした本人である赤井秀一ですら否定したくなるものではあったが。しかし一体どの推理が正しいのか絞り込めるほどの確証はまだ得られていない。

『…………明美さんが今も生きているとしても?』
『生きているだけですよ。救えはしなかった。…妨げになるなら殺す用意もできています』

 あの騒動の中、直ぐに安室が現れたままに深く追求することもできなかったが、見過ごすことができない言葉だった。…決して。
 どう出るか。
 からんと氷が溶けたのをそのままにして、沖矢はしばし思考に沈んだ。



 そして時は訪れる。
「沖矢さん――――いえ、赤井さん。」
 本を読んでいた沖矢は、静かに本を閉じて、横に置いた。
「全てをお話しする時が、来たようです」
「………ああ。」



 どういう風に話を始めようか、とナマエは言葉を探した。自分が実際にしてきたことを説明するのはたやすいが、まず、その前提について。
 情報源はどこか。なぜ知っているのか、ということについて。
 ナマエは考えた末に、書斎の片隅においてあったシャーロックホームズの冒険という本を手に取った。

「すみません、自分でも、うまく説明できるか分かりませんが」
「構わない。話しやすいように話してくれ」

 沖矢昴の姿に赤井秀一の声。ナマエは少しためらってから、

「声かマスク、どっちかに統一していただけませんか」

 と願った。結果、沖矢昴が話を聞くことになった。
 ぱら、とナマエは本を開き、いちばん初めの章を開いた。
 ボヘミアの醜聞。

「………シャーロックホームズの世界に入り込めたら、なんて、考えたことあります?」

 沖矢は奇妙な表情をした。

「…あれは、虚構の物語ですが」
「ええ、だから。…シャーロキアンなんてものもいるくらいです。何年に何が起こったのか詳細に調べ上げて、考察して、キャラクターの性質や生い立ちももちろん把握している。フィクションと思えない程詳細に。…あるいはフィクションだからこそ」

 心臓が、どくどくと音を立てている。唾を飲もうとして、口の中が痛いほど渇いていることに気が付いた。水を持ってくるべきだった。話は長くなりそうだ。

「………私にとって、あなたは、…あなたやコナン君は、シャーロックホームズなんです」

 比喩でしか語れない自分を、なんて臆病なんだと少し笑った。

「それは、どういう…」
「………これで許して下さい、これ以上は、どうか。」
「………推察せよ、ですか」
「他のことは全て話します。過去に助けた人間…助けたと言っていいかは分からないけど、とりあえず、今組織に敵対するために動ける人員について」

 ナマエは、顔を上げた。





 全てを聞き終わった時、沖矢は、何を言えばいいのか、分からなかった。
 ようやく出てきた言葉は、彼女に対するどんな感情をはらんでいたのか。

「…………君は、どうしてそこまで、」

 それに続く言葉が何だったのか。
 それも分からない。

「どうしてそこまでするのか、って言いたいんですか?」
「………いや……称賛、しています。そこまでして、彼らの―彼女の命を救ったことを。君にとっては他人にも等しかっただろうに」

 沖矢が困惑しながら選んだ言葉は、彼女を、取り返しがつかないほど追いつめてしまったらしかった。彼女の瞳が絶望に染まった。自分が言葉を間違えたことだけは分かった。

「……傷つけたなら謝ります。そういう意味ではなく………ですが、どうしてそこまでできるんです?」

 ろくなことが言えないならもうこの時点で口を閉じてしまえばよかったのだ、と、後になってから思った。

「どうしてそこまでできるのか、ですか」

 彼女がふっと笑った。中身が子どもでないと分かった途端、その表情は酷く老成して見えた。

「私はね、とても傲慢で身勝手なことをしているんですよ」
「……人命を助けることの、どこが。」
「命は何よりも大切ですか?本当に?」

 その瞳には狂気すらうかがえた。
 ややあって、漸く。
 彼女の感覚がないのがなぜなのか、彼女が呼吸すらできず幾夜の眠れぬ夜を苦しんで過ごしたのかがなぜなのか、
 その理由に思い至った。

「いかなる人間も、その人の人生は、その過去と未来と、現在の選択は、その人だけのものです。侵されることはない、その人だけの権利で、失敗すらも、その人だけが負うべき義務、得られる権利で。時には他者から何らかの影響を受け、支えられ、助けられることがあるとしても………その人の人生は、その人だけのものです。危険があるからって先回りしてそれを取り除くなんて、普通ならそんなことはできません、できないはずなんです。そうやって誰かに関与され……予め死を回避し、危険を取り除かれた人生は、本当に彼ら自身の人生と言えるのでしょうか?…私は、私のしていることは、まるで自分を神であるかのように振る舞っているかに等しい――――傲慢にもほどがある行為なんです」

 耐えきれず、沖矢は彼女の肩を抱いた。
 先を知っている、だから死ぬはずだった人間を救える、その人間の死によって苦しむ人間を救える、――――先を知っているなら敵より優位に立てる。そんな考えしか抱けなかった自分が、軽率に彼女を称賛したのが、いかに愚かだったか思い知った。

「すみません。もう、十分です、ナマエさん」
「私は、彼らを救ったんじゃない。自分の罪悪感を軽くするためだけに………自己満足のためだけに、彼らの人生を、尊厳を、存在そのものを、踏みにじったんです」

 きつく、きつく、抱きしめるより他にできることが思い浮かばなかった。
 誰が彼女を責められるだろう?そして。
 誰が彼女を慰められるだろう?彼女を許せるのは彼女と同じ経験をした者だけだ。沖矢には、彼女の心境を推し量ることすらできない。
 生きていることの、意味そのもの、助ける命の価値そのもの、
 そんなことまで考えながら、彼女は人を救ってきた。彼女の兄が、論理的思考に関わらず人を救い続ける傍で。

「……………だから、君は死にたがるんですか」
「ええ、ええ、そうです、最低でしょう?もしどうにもならなくなったら私は自分が救った人間をみんなころして、ぜんぶ無かったことにしてじさつしてそれですべておわりにしようっていつも思っているんです、最低でしょう?だってそれでも遺された人は生き続けるのに自分さえいなくなればかまわないだろうって、」

 とうとう彼女は気が違ったように自分を責め始めた。だがそれを咎めることなど一体どうしてできようか。

「分かりました、もう、何も言わなくて構いません。申し訳ないが掛ける言葉が見当たらない。頼むから、もうそれ以上何も言うな――――ナマエ。」

 ひくり、と、彼女の喉が引き攣れた。

「う、う、うああああああああぁああっ」
「……そうだな、泣け。泣けるうちに。」

 泣くことすらできなくなってからでは遅いのだから。



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