事実は小説より奇なり

「先日は、取り乱してすみませんでした」

 あれだけの錯乱が嘘のように、翌朝には彼女は平常を取り戻していた。

「すみません、とんだ悲劇のヒロインっぷりでしたね。悲観するのも不幸ぶるのもやめようって、常々思ってはいるんですが」

「………いや。実際、状況はそれだけ特殊だ。」

 彼女にかけるべき気の利いた言葉は生憎まだ見つかっておらず、出て来たのはそんな素っ気ない言葉だけだったが。
 赤井の言葉に、彼女は少し目を丸くした。

「意外ですね。赤井さんは、もう少し、…合理的な人間……というか、現実主義な人間だと思っていたんですけど」

「合理主義というのと、シンパシーがないのとは、決して等号ではないと思うが」

 赤井は時々、彼女の中で自分は一体どんな非情な人間に見えているのか、苦々しく思う時がある。彼女の知るそれの中で赤井秀一という人間は一体どんな描かれ方をしていたのやら。

「…まあ、それもそうですね。感情も考慮しないと人間の行動は読めないし」

 彼女はけろりとそう言って、赤井の向かいに腰を下ろした。彼女が思っているより赤井が彼女を案じていることは、恐らく彼女には伝わっていない。

「それで、今後のことですけど。私はこれを、コナン君に言うべきではないと思うんです」

「なぜ…いや、ボウヤの性質を考えれば当然か」

 彼が人を救うのに、論理的思考は存在しない。そんなところに余計な雑念は介在させるべきではない。

「コナン君には、まっすぐ、迷いなく突っ走ってもらわないと。それにもうすぐ私が知っている未来に追いついてしまうし、その後のことは、分からないから。今話すメリットは少ない。」

「だが、彼らが生きていることも伏せておくのか?」

「しばらくは。だって、彼らを助けた理由を話すには、昨日赤井さんに話したことを話さなければなくなるでしょう?」

「………」

 赤井はしばし黙って考え込んだ。もうひとつ考えていたことがあるが、口にするのを少しためらう。しかしナマエはそれだけで赤井の言いたいことを察したようだった。

「明美さんを…私が勝手に助けた人たちを、私が殺すと口にしたことについて、気になりますか?」

「…参ったな」

 なぜそこまで見抜かれているのか。だが少し考えれば分かること。

「まあ、俺も、ワトソンが言いそうなことは予想もできるが」

「………それって別に、キャラじゃなくて、長く付き合った人間なら誰でもそうでしょう?」

 彼女はそう言ってフォローした。性格や言動が予め運命づけられているのは何も物語の中の人間に限ったことじゃない、と。

「いや…気を遣わなくていい。知覚できないなら事実じゃない。少なくとも俺にとっては」

「それはよかった。打ち明けたらアイデンティティが崩壊するんじゃないかってちょっと怖かったんです。…でもまあそうですよね、あなたは物語の中の人間だ、なんて言われたって、そりゃ知覚しようもないから、意識できるはずもない。…深く考えれば考えるほど、分からなくなるし、気が狂いそうになるから、それくらいのスタンスがきっとちょうどいい。私一人が狂っているんなら、その方がきっといい。」

 彼女の話は聞いた。彼女が嘘を言っているとは思わない。それでも、赤井秀一にはそれを知覚することはできない。ナマエの脳の中にしかないことだから。証拠がなければ事実ではないのだから。それは幸か不幸か。どちらでも構わない。どうせ、生まれ落ちた世界で生きていくしかない。

「…それで、明美さんたちの件に関してですね。昨日言ったあれは本気じゃないですから、安心してください。…いや、まあ、半分くらいは本気ですけど…もし本当にそうするくらいなら、他人じゃなくて自分を消します」

 物語が行き詰ったら、“元”に戻すために、救った人間たちを消すと言ったこと。本心だけれど、してはいけないことだとも分かっている。死にたいのが本心でも決して死ねないのと同じ。

「それに、冷静に考えれば、既にもう彼らは生きているんだから…たぶん今更彼らを消したところで元には戻らないだろうし。…リセット機能なんてものがあるわけもない」

 ふ、と皮肉気な表情が彼女の顔に浮かんだのを、赤井はどうしてもかき消したくなった。

「…消させはしない。誰も。…工藤ナマエも。」

「あれ?赤井さんも命至上主義者でした?…読みが外れたな。あなたなら、いざという時私を撃ち抜くくらいしてくれそうだと思ったのに。…それで大勢が救われるならそうするべきです。そうでしょう?FBIの、赤井秀一さん?」

「気の利いた冗談のつもりなら今すぐ取り消せ。…地獄の底にひとりでいるつもりなら、俺もそこまで下りてやる。」

「………やめてください、折角、明美さんがいるのに。…あなたと彼女が幸せになってくれなきゃ、救った甲斐がないでしょう」

「なら、お前のことは誰が救う」

「さあ。私自身かな。救えるとしたら。…少なくともあなたじゃないですね」

「……言ってくれる。」

「…気持ちだけ、ありがたくいただきますから。そんな時間の無駄になることは考えなくていいですよ」

 どうしたら彼女を救えるのだろう、と、赤井は答えのなさそうな問いを睨み付けるしかなかった。

 彼女は優しすぎる。見ぬふりで放っておくこともできたのに、悩みながらも、救うことを決めたのだろう。…それが彼女の生来の性質なのか、工藤新一の妹という立場によるものなのかはもはやどちらでも構わない。

 それで救われる身にもなってほしい、と赤井は内心でひとりごちた。明美が救われていて、その事実によって自分も救われて、…たとえすべてが救われても、その当人がこうでは、素直に喜べない。平和とはそういうものだと赤井は知っていたが。…少数の犠牲の上に成り立つものだと。

 だが、これではまるで、彼女は神のようじゃないか。人々の未来を知り、運命を知り、彼らを救済しておきながら、自身は誰にも救われず。
 それは一体どんな孤独だろう。

「…覚悟していろ。お前の知る赤井秀一がどんな人間かは知らないが、すべてお前の想定通りにはさせやしない」

 ナマエは少しだけ泣きそうな顔をした。期待ゆえ、あるいは赤井秀一という人間を知っている絶望ゆえか。



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