理不尽な苛立ち
朝起きた時から、何となく嫌な予感がしていた。
元の世界、ただの一読者であった頃には、何度も何度も経験していた鈍痛。
(前はもうちょっと始まるの遅かったような……いや、こんなもんだっけ?)
ナマエはまだ小学五年生だ。前は六年生の終わりごろに始まったような気がする。
「ううううー………」
唸ってみたが、頭と腹にたまるような嫌な感じは消えてくれない。
(そもそもこの家生理用品なんかないだろ……)
工藤由紀子のものがあるだろうか。だが、滅多に家に帰らない人だ。
隣家に行くことも考えたが、隣家の住人は男性と小学一年生の女子だけだ。灰原に言えば買ってきてくれるかもしれないが……。今日は休日だ、いっそ今日が登校日ならば保健室に行くなりなんなりできただろうに。
「……とりあえず、探してみるか……」
それにしても、“前”よりも痛みが酷い。初めのうちからこんなにも重いものだったろうか?個人差が大きいとは言うが、“工藤ナマエ”の肉体は生理が重い性質なのだろうか。
「おや、ナマエさん、おはようございます」
「……おはようございます」
「…具合でも悪いのですか?」
察しが良すぎる男というのは、この場合、厄介以外の何物でもない。ナマエはなるべく平然を装って、背筋を伸ばした。下腹部に鈍痛が走るが、無視する。
「……ちょっと、怠くて。大したことではないので、心配しないでください」
足早に沖矢の横を通り過ぎ、洗面所へと向かう。目につく場所にはそれらしきものは見当たらないが、上の方の棚の中にあるかもしれない。
「……と、届かない……」
背伸びしてもぎりぎり届かない。ナマエは小学五年生にしては低い自分の背を恨んだ。
と、微妙なバランスで手をかけていた洗面台から、高い所にあった歯磨き粉や髭剃りクリームなどがガタガタと落ちていった。低い所にはナマエの使うものが置いてあるので、高い所に置いてあるのはたいていが沖矢昴のものだ。
「あーーもう…!」
普段なら大したことがないことなのに、何だか酷く惨めな気持ちになった。
(……きっと生理だから気が立ってるんだ。うん、落ち着け、落ち着け)
苛立ってくる自分をどうにか宥め、落ちてしまったものを拾おうと身を屈める。
と、股の間にどろりとした感触が流れ出るのが分かった。
「うそでしょ……もーヤダ…」
頭もお腹も痛い。挙句ものを落としてしまうし、しかもこんなところで始まってしまった。最悪だ。ナマエは思わずしゃがみこんで膝の間に顔を埋めた。涙まで出そうになっていることに気付いて愕然とした。
たかが生理。されど生理。
(しょうがない……とりあえずトイレに……)
そう思った瞬間、背後で、かたりと音がした。誰かの足音も。誰かなんて、一人しかいないわけだが。
「ナマエさん?何か落ちた音がしましたが………大丈夫ですか?」
うずくまるナマエを見つけた途端、沖矢の声が鋭くなった。すぐさま傍に駆けつけようとした彼に制止の声をかける。
「待って、来ないでください、大丈夫なので」
「……どう見ても大丈夫という顔色ではないようだが」
「……」
ただの貧血だ、と言ってもいいが、そうすれば嫌に察しがいいこの男は全てを察するだろう。別にそれでも構わないのだが……
(いま下手なこと言われたら八つ当たりして怒鳴っちゃいそうだしな…)
たぶん怒鳴ったところで彼との協力関係がどうこう、ということにはならないだろうが、単純に嫌だ。情緒不安定と分かっているのに余計な火種を持ち込むこともない。
「……何か、あたたかい飲み物を用意してもらえたら、うれしいです。すぐ行くので」
「……………分かりました。落ちているもの、後で直しておきますから、そのままでいいですよ」
無理しないでくださいね、と言って、沖矢はとりあえずその場を立ち去ってくれた。
トイレで応急処置を終えたナマエは、さっきよりも痛い気がする頭と腰をひきずりながら、キッチンへ向かった。テーブルの上には湯気を立てるマグカップがおいてある。
「ホットココアを入れてみましたが…一緒にパンとサラダも食べられそうですか?」
「あ…朝ごはんは後で適当に…」
「それじゃあ、ラップかけておきますから」
椅子を引いていつもの席に着き、両手でカップを持つ。手がじんわりと温められて心地よい。
のだが。
(よりによってココア……!)
いや、ナマエはココアが嫌いなわけではない。恐らく沖矢も、普段からコーヒーに大量の牛乳を入れるナマエを見て、牛乳は嫌いでは無いと判断したのだろう。
だが、タイミングが悪かった。
生理中に乳製品はNGだ。
(いやいや沖矢さんは悪くないし……)
ものすごくむしゃくしゃしてしまったのを振り払うように、大きく息を吐く。
そう、沖矢に非は無い。そもそもナマエが生理中であることなど知らないだろうし、いくら博識の彼でも生理中に乳製品がよくないことなど知らないだろう。
「ココア、苦手でしたか?」
「あ、いえ………」
いつまでも飲まないと不審がられる。ナマエは覚悟を決めて、ココアを啜った。
「………あの、今日、灰原さんって……」
ようやくナマエが口を開いた。沖矢はほっと息をついた。
ココアを飲む間中ひとことも言葉を発しなかったナマエを、沖矢の方も妙な緊張感をもって眺めていたのだ。何かしてしまったかとも思ったが、全く心当たりがない。
「今日から三連休ですからね。博士の出張についていくと言っていましたよ。何でもホテルの食事がたいそう豪華らしく、放っておくと際限なく食べてしまいかねないから、と」
「…そうですか」
重たい空気がいっそう重くなった。沖矢はコーヒーを啜りながら、さりげなくナマエを観察した。さきほどよりは顔色はよくなっているが、…なんというか、非常に機嫌が悪そうだ。
(彼女は寝起きが悪いほうではない…昨晩は魘されていた様子もなかったし…となると、やはり単純に体調不良か?)
ティディベアに仕込んだ盗聴器でしれっとナマエの様子を把握している沖矢は、ふむ、と考え込んだ。
「あの……私、しばらく博士んちにいっときます」
「不在中に、ですか?」
「鍵持ってるし、好きに出入りしていいと言われてますから」
「………」
それはつまり沖矢と一緒にいるのが嫌だということだろうか?流石に理由が分からない。
「………正直に言っていただきたいのですが……私は君に何かしてしまいましたか?」
「いえ、違います。私の方の事情です」
きっぱりと返ってきた否定の言葉に、「そうですか」と返す。
事情とは何なのか。全くもって、謎だ。手がかりが少なすぎる。
「体調が悪いようですし、できればこちらにいていただきたいのですが。何かあっては困りますし」
「………なるべくリビングにいておくようにしますから。何ならレディグレイもつれてくし」
博士宅のリビングには盗聴器がしかけられている。それならば何かあっても分かるだろう、とナマエは暗に告げたが、沖矢は納得しなかった。
「声が出せない程体調が悪化したときに困るでしょう。…私と一緒にいたくないというのは構いませんが、一人になられるのは困ります。どうしてもというのなら毛利事務所にでも送っていきますから」
「………………そっか、蘭姉ちゃんなら…」
「蘭さんをお呼びしましょうか?」
ようやく妥協策が見つかりそうな気配に、沖矢は電話を取り出した。しかし、目の前の少女は他人に迷惑をかけることを非常に嫌う。「待ってください」とストップがかかった。
……具合が悪い時くらい素直に人に頼ればいいものを。
もしかして一人になりたいというのも、沖矢が嫌なのではなく、単に迷惑をかけるのが嫌なだけなのだろうか?その可能性は、大いにあり得る。
「手を借りたくない気持ちは分かりますが、一人になって倒れてしまった方が迷惑だと分からないわけでもないでしょう?」
少し語調を強めて言うと、やはり図星だったのか、ナマエは気まずそうな顔をした。
「車で送って行きます。いいですね?」
「へ、部屋で寝ておくので…」
「ダメです」
そして沖矢は半ば強引にナマエを車に乗せたのだった。