理不尽な苛立ち2

 泣きそうになっているナマエと、後部座席についた血の跡。強引にナマエを車に乗せたことを、沖矢は盛大に後悔していた。数分前のことである。事務所についたのになぜかおりようとしないナマエを無理やり立たせると、彼女はついに何かがピークに達したのか、普段なら考えられないような、感情むき出しの目でこちらを睨み付けてきた。彼女が座っていたシートの辺りに血がついていることを考えれば、理由は十分に察しがついた。

(なぜ気づかなかったんだ…!)

 十一歳という年齢、しきりに灰原や蘭―つまり女性の助け―を求めていたこと、貧血の症状――――手がかりはあちこちに散らばっていたというのに。

「…だから車に乗りたくなかったのに…っ」

「す、すみません」

「沖矢さんはわるくありませんっ。…ヤダもう、子どもみたい……こうなるから離れてようと思ったのに……」

 ついに声に涙が混じった。その目から涙がこぼれおちないのが不思議なほどだ。日ごろ大人ぶっている分、こんな姿を晒すのは本意ではないのだろう。よく知りもしない男に生理だなんてデリケートなことを知られるのはさぞかし不本意であるはずだ。しかも、彼女の年齢を考えれば、初めての体験であろうことも容易に想像がつく。既に経験しているならとっくに対処し終えているに違いないのだから。
 沖矢はひたすら謝罪するしかなかった。いくらFBIきっての切れ者でも、初潮を迎えて泣きそうな少女への対応など教わっていない。何をすればいいのか分からず、ばかみたいに狼狽えるしかなかった。

「本当に、申し訳ありません…。あの、蘭さんを呼んできますから」

「だから謝らないでくださいってばっ」

 謝るなと言われても、ほとんど全面的に沖矢が悪い。沖矢は思わずたじろいだ。と、そこへ。

「あれ?ナマエちゃん?それにあなたは………」

「あ……」

 事務所の前の道路で立ち往生していると、事務所の真下の店から出てきた男に声をかけられた。ポアロでアルバイトをしている安室透である。エプロンに箒を片手にしている所を見ると、店の前の掃除でもしようとしていたのか。とりあえず、これ以上彼女を晒すわけにはいかないと沖矢はさりげなく彼女の前に庇い立った。

「どうかしたんですか?」

「いえ…蘭さんに用事がありまして」

「彼女なら今日は合宿でいないそうですよ。本当は何もないはずなのに急に予定が入ったとかで」

「そうなんですか…」

 沖矢は本日何度目か知らない舌打ちを内心でかましていた。全く迂闊にもほどがある。彼女を車に乗せるのに気を取られて事前の電話も忘れ、週末なのだからいるだろう、と思い込んでしまった。と、その横を安室がすり抜け、ナマエの前で腰をかがめた。

「ナマエちゃん?どうかしたのかい?」

 安室は沖矢には油断ならない態度を見せていたものの、少女が今にも泣きそうになっているのに気が付いたのだろう、ことさら優しい声を出した。

「………」

「ナマエちゃん?」

 と、そこで安室はいまだ開いている後部座席のドアから中の様子を窺ったらしい。全てを察した様子で沖矢に呆れと軽蔑の混じった視線を一瞬向けたのち、無言で沖矢の上着を奪い取ると、またナマエに向けて優しい声を出した。

「今日は寒いから、具合が悪くなっちゃったのかな?中で温かいものでもごちそうしてあげるよ」

 何も聞かずにその腰に沖矢の上着を巻いてやる気遣いぶりである。沖矢は状況も忘れて思わず感心した。狼狽えてしまった自分と違って、実にスマートだ。ナマエもいまだに無言ではあるが、素直にこくんと頷いて、安室に従っている。沖矢ははっと思い出して、ハザードランプをつけて路駐したままの車を、別の場所へ移動させたのだった。
 安室は中へ入ると、梓と給仕の仕事を代わり、彼女と共にナマエをバックヤードへ行かせた。その間、車を移動させ終えて店に入った沖矢ができたことといえば、邪魔にならないよう席に座ったくらいのものである。
しばらくして安室が沖矢の前のテーブルにコーヒーを置いた。何故か湯気が立っていない。

「…詳しく事情は聞きませんけど。彼女の保護者なら、もう少し気遣ってあげないと」

「……返す言葉もない、ですね」

 正確には正式な保護者は阿笠だが、実質、彼女の最も近くにいる大人は沖矢である。何も言い返せず、曖昧に頷くしかなかった。
 と、ナマエがバックヤードから姿を見せた。少し大きめのスカートは梓のものだろうか。手には沖矢の上着と、タオル、ペットボトルのミネラルウォーターを持っている。

「あの…これ」

「あ、ナマエちゃん。飲み物は何にしますか?………っと!」

 ナマエが沖矢の上着を持ったまま口を開いた絶妙なタイミングで、安室はテーブルの端に置いてあったコーヒーを落とした。コーヒーはちょうど沖矢の上着にかぶった。

「すみません沖矢さん!僕の不注意で…」

 心底申し訳なさそうに謝る安室に、沖矢は内心で舌を巻いた。冷めきったコーヒーを出されたのはこの為だ。恐らく上着には血がついてしまっていたに違いない。それをナマエに謝らせることもなく事故として処分させる算段なのだろう。案の定ナマエは複雑な顔をしながらも、ほっとしたような表情を浮かべている。

「染みになってしまいましたね。これじゃ洗濯しても落ちるかどうか…」

「いえ、それはもう穴が開いてしまっていましたし…申し訳ありませんがそちらで処分していただいてもよろしいですか?」

「ええ…新しいものを弁償します」

「いえ、本当にいいんです。新しいのを買おうと思っていたので」

「そうですか…それじゃ、これはこちらで処分しますね」

 表面上はにこやかにやり取りをする大人二人を、ナマエはやはり何とも言えない顔で見つめていた。だいぶ落ち着いたようだがまだ顔色は悪い。

「…何か食べていきますか?」

「え?あ、いや、別に…」

「せめて飲み物だけでも。どうかお詫びさせてください」

「お詫びだなんて…あの、それじゃ、コーヒーを。それと、少しここで待っててください」

「え?」

 引き留める間もなく、ナマエは店の外に出てしまった。窓越しに何をするのかと思って見ていれば、少し離れたところに停めてあった車の後部座席に乗り込み、何やら作業をしている様子である。しばらくして黒いビニールを持って出てきたところを見ると、後部座席の血の染み抜きをしたのだろう。全面的に沖矢が悪いというのに、何ともけなげなことだった。

「お待たせしました。コーヒーと、これは彼女へのサービスです」

「あ、彼女の分はカフェオレに…」

 彼女は家でもいつもカフェオレだ。しかし沖矢のせめてもの心遣いは安室にあっさりと否定されてしまう。

「彼女がコーヒーと言ったんでしょう?…それに、乳製品はあまりよくないですから」

 乳製品がいけないなど知らなかった。何も知らずにココアを出してしまった数時間前の自分を思い出して、沖矢はまたしても沈黙するしかなかった。安室に全面的に敗北だった。


※生理中はカフェインもだめらしいです。女性のみなさま気を付けましょう



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