東都現像所その後

 仮面ヤイバーの初号試写は結局事件のせいで見られないまま終わったが、事件はいつもの通りコナンが解決した。予定調和である。
 そして帰った後、灰原は熱を出した。

(………ベッドの中で、何考えてるんだろうな、灰原さん)

 漫画のキャラだったはずだった、それでも、ここは少なくともナマエの意識の上では限りなく現実に近い世界。ならばそこで生きる全てのキャラクターも、恐らくはキャラ設定という運命に縛られているだけで、彼らなりに生きているはずなのだ。

(運命から逃げるな、か……)

 それは、こんな数奇な人生を辿ることになってしまったナマエにも言えること。

「志保さん」

 無声音に近いほどの囁きで、ナマエはその名前を呼んだ。盗聴器があっても聞き取られないほどの声量で。

「……っなに、」

「そう呼んでいい?」

 灰原も阿笠博士も服部平次も、コナンのことを、基本的には工藤と呼ぶ。なぜなら彼の本当の姿は工藤新一だから。時には人目があるところでさえ。
 それなのに灰原のことを宮野志保と呼ぶ人間は存在しない。家では二人切りの阿笠博士でさえ。…まあ、盗聴される家だから、その方がいいのだろうが。

「………ダメよ、あなたまで疑われるわ」

「大丈夫だから。…ね、これくらいの声でしか呼ばないから、ぜったいに」

 無声音のまま、もう一度「志保さん」と囁く。
 彼女は、皮肉気に、しかし確かに、ふふ、と微笑んだ。
 そういえばあなたは私の本当の姿を知っているのよね、と彼女もまた無声音でささやいてから、

「……何の心配をしているか知らないけど、無用な心配よ。別に私はそこまで悲観していないもの。それよりその名前で呼ばれるといつ誰が聞いているかと気が気じゃないの。…いつもの通りに呼びなさい」

 きっぱりとそう言った。
 そう言われてしまったらナマエは「分かったよ、灰原さん」とうなずくしかなかった。
 だから、せめて、声に出さずに吐息だけで呼ぶのだった。「志保さん」と、何度でも。

 ――――ナマエの本当の名を呼ぶものだって、いないのに。



 杯土デパートの中にある小児科での診察待ちの間。テレビで話題の樽賀亭で卵粥でも食べようと言った博士とコナンに、灰原は冷たく言った。

「私パス。具合が悪いから車で待っておくわ」

 そう言って博士の車の後部座席に戻った灰原に、ナマエはためらわず同行を申し出た。彼女を一人にしておくのは忍びないし、兄も、灰原を一人にしながらテレビに映ってしまって後で血相を変えて飛んでくるだろうから。…せめて傍に人がいれば、安心感も違うものだ。

「…あなたまで付き合うことなかったのに」

「ん?いいよ、どうせ樽賀亭は混雑してて卵粥は食べられないだろうし。本当に卵粥が食べたければ作るなり蘭姉ちゃんに作ってもらうなりすればいいんだから」

「…………あなたって本当に予知能力があるみたいね」

「勘がいいだけだよ」

「そう…。それじゃ、私の未来も当ててくれないかしら。いつ死ぬかが分かればそれまではびくびくしないでいられるもの…」

「…相当弱ってるね」

 志保さん、と無声音で囁いてから、その小さな額の汗を拭った。確かこの時点ではベルモットに盗聴されているはずだから、あまり下手なことは言えないが。

「大丈夫、絶対死なないよ。コナン君は結構しつこいし身勝手だから、死なせてくれないよ。…私のことも、死なせてくれなかったし」

「……」

「あれ、初耳?…私ね、何度か自殺未遂したんだ。それでも見捨てないでいてくれるんだから、全くありがたい家族だよ」

 皮肉のつもりはなかったが皮肉に聞こえてしまったかもしれない。灰原は返事をしないまま、苦し気に目を閉じてしまった。

 …ごめんね、志保さん。

 無声音で呟く。

 …こんな私があなたの幸せを願うのは矛盾しているかもしれない。死というのはとても甘美で完璧な方法のように思えるから。それでも死なずにいてほしい。そうすれば私も生きていていいと思えるような気がするから。



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