望遠の花

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 荒い呼吸と剣が空を切る音が聞こえる。
 それ以外は何も感じない。木刀を振る腕の重さも、流れる汗も全く気にならなかった。自身が一振りの剣になったような気さえするが、それはまやかしだ。集中している所為というのもあるだろうが、とにかく邪念を振り払いたかった。そういう時は撃ち込むよりも素振りのほうがいい。
 深夜に鍛錬場で素振りをする酔狂な人間は自分だけだろうとフィオレは思う。朝には太陽が昇るころに警備の任務が入っているというのに疲れるようなことをする同期は居ない。それでもフィオレは止めなかった。
 今日、フィオレは初めて敗北をした。
 切っ先を首に据えられ、片膝をつき、勝者を見上げた。しかも接戦をしたわけでもなく、勝負はほとんど一瞬で着いた。自分から手合わせを強引に仕掛けたというのに。何とも無様な負け方だった。陰でフィオレを妬んでいたものは嗤い、纏わりついてきていた者はあっさりと勝者に付いた。彼は全てを無視していたけれど。
 別にそれらが居なくなったとしてもフィオレにとっては重要じゃない。けれど負けたという事実は変わらない。
 フィオレの集中は乱れ、木刀は汗で滑り手からすっぽ抜けた。
 誰もいない鍛錬場に木刀が甲高い声を上げて転がる。フィオレは荒い息でじっと木刀を見つめた。
 木刀は何も言わない。当たり前だ。けれどフィオレにとって何か叫んでいるように聞こえた。早く自分を取って振れとわめき散らしている。フィオレもそうしたいところだが、身体がずっしりと重くて立っているのがやっとだった。空気が重石のようで身体が押しつぶされそうだった。
 フィオレはぐっと唇を噛んだ。
 剣を自分から取れば何が残るというのだろう。武勲を誉とする家に生まれ、ほとんど剣を振ることに費やしてきたというのに。
 両手を見ると貴族の出とは思えないほどまめだらけの固い手をしていた。同世代の貴族の娘はこんな手をしていない。滑らかで細いシルクの手袋が似合うような綺麗な手をしているだろう。だが男の話ばかりしている彼女たちの輪に入るのは億劫でしかない。動きづらいドレスを着て、息が出来ないほどコルセットを締め上げて愛想を振りまくのだ。フィオレには馬鹿馬鹿しくて価値がないことに思えるが、彼女たちにとってそれは幸せなのだろう。
 ――だとしたら私の幸せはどこにある?
 結婚も剣も満足に出来ないとしたら、フィオレには何にもない。
 まめだらけの手も今までは誇らしかったのに、今では努力が足りないと烙印を押されたようだった。
 すると誰かから肩を掴まれた。
 フィオレは一気に態勢を整えて距離をとる。
 すると相手はくつくつと笑いフィオレを見た。
「そんだけ動けたら大丈夫だな」
 月明りが鍛錬場に差し込む。ゆっくりと相手の顔が見えてきた。同じ隊のダミュロン・アトマイスというフィオレが嫌っている同期だった。見慣れた男の顔が見えてフィオレは表情を鋭くする。
「何の用ですか?」
「いや、別に。ただお前が泣いてないか見に来ただけだよ」
 かあっとフィオレの頭に血が上る。きっとダミュロンも笑いに来たのだ。剣術が青いだの端的だの芸がないだの騎士団に入ってから散々言われてきた。そうやって馬鹿にしてきた者はすべて地面に伏してきたけれど、ダミュロンはそういうことには興味がないと思っていたのに、騎士団の男はみな変わらない。フィオレはダミュロンをきつくにらみつけた。
「泣いているかなんてあなたに関係ないことでは?」
 ダミュロンは頭を掻いてへらりと笑った。その表情がまたフィオレの感情を逆なでする。
「関係ないはないけど、休まずに何時間も木刀振ってるやつがいたら心配だろ?」
「いらない心配です。してほしいとも言っておりませんので」
「相変わらず堅物だな」
「どうとでも」
 フィオレはダミュロンに背を向けて木刀を拾った。木刀を構えたフィオレにダミュロンが慌ててフィオレの手首をつかむ。
「休めって、もうフラフラだろ?」
「無視していただいて結構です。自分の限界は知っておりますので」
 ダミュロンの制止を無視してフィオレが木刀を振り始めた。ダミュロンがガシガシと頭を掻いてため息を吐く。
「世話のかかる奴」
 そう言ってダミュロンはすっとフィオレの間合いに入り鎖骨の辺りを押した。
「キャッ」
 軽く押されただけなのによろけたフィオレをダミュロンは抱きとめて持ち上げた。足が地面から離れて浮遊する。木刀はまたどこかに吹っ飛び遠くで音を立てた。お姫様抱っこをされているのだと気が付いてフィオレは羞恥に震えた。
「離してください!」
「やだね」
 暴れるフィオレを物ともせずダミュロンは運んでいく。
「離して! 私はまだ鍛錬します!」
「無理だって」
「嫌!」
「わがまま言わないの」
 がっしりと掴まれて逃げられない。
「だって、私には剣が、剣しか……!」
 ぐっと我慢していた感情があふれ出す。
 剣の道に生きると決めた時から負けるものには価値がないとずっと父に言われてきた。常勝を家訓として生きてきたフィオレはそれ以外には何もないのだ。可愛い服もおしゃれも興味がないし、女らしいことは苦手だ。そんな女から剣をとったら何が残る。フィオレは思わず嗚咽をこぼす。
 するとダミュロンは朗らかに笑った。
「一回負けただけだろ? オレなんてお前に傷すら付けたことないし」
「それはあなたが弱いからです」
「慰めてんのにその言い方はないでしょうよ」
 苦笑いするダミュロンにフィオレは黙まりこんだ。
 そうか、ダミュロンは馬鹿にしに来たわけじゃないのだ。けれどフィオレは素直になれず視線を逸らせる。
「慰めなんて要りません」
「本当に素直じゃないな」
 暴れ疲れるころにはもう鍛錬場の外に出て、貴族街に入っていた。
 ふとダミュロンの足が止まる。なんだろうとフィオレがダミュロンを見上げると彼は空を見ていた。するとダミュロンは顎で空を指す。
「今日は凛々の明星が綺麗に見える」
 空には輝く一番星が見えた。おとぎ話にもなっている二人の兄妹の話。意図がわからずフィオレが首を傾げているとダミュロンは笑った。
「一番は確かに綺麗だけど、それで剣が握れなくなるわけじゃない」
 フィオレは眉間にしわを寄せる。結局一番じゃなくてもいいじゃないかと言ってきているのだ。フィオレの表情を見てダミュロンは更に笑う。
「要は誰を守りたいかだと思うけどな。剣なんて」
「……誰かを守る剣?」
 確かに考えたことがなかった。誰かを守る剣。魅力的な言葉だけれど、フィオレにはあまり響かなかった。そんなこと考えたこともなかったから。
「私たちは市民を守っているではありませんか?」
 ダミュロンはうーんと唸った。
「そういう意味じゃないだよな」
 フィオレは首を傾げる。
「じゃあどういう意味ですか?」
 まっすぐにダミュロンを見つめると彼は苦笑した。
「まだお前にはわからないかな」
 朗らかに笑う彼は誰かを守りたいから騎士団に居るのだろうか。ふとそれは誰なんだろうと考えて、自分にはどうでもいいことだろうと思いなおした。
 それから十年の月日が流れる。
 けれど確かにあの日フィオレは少し肩の力が抜けて、少しだけ楽になれたのだ。
 もうダミュロン・アトマイスはこの世にいないけれど、守る剣は今のフィオレに受け継がれている。
 

罪深い光1
罪深い光2
罪深い光3
平野の覇者1
平野の覇者2
平野の覇者3


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