■ 罪深い光2

「ねえフィオレ―、本当に行くの?」
 シャイネン家の長い廊下を歩きながらキリエが不満そうに尋ねる。フィオレは彼のペースに合わせて駆動魔導器が付いている車椅子を動かす。キリエは前が見えないほど両手に高価そうな紙の束を持っていて、でも全然重くなそうに悠々と足を進めていた。
 キリエの様子にフィオレはくすりと笑う。
「行かないと地の果てでも追いかけて来ますよ?」
「うへぇ」
 キリエは舌を出して吐きそうな表情をした。フィオレは肩を竦める。
「もうあの手紙はメイドが渡しているのですから逃げられませんよ」
 フィオレの言葉にキリエはため息を吐く。きっと数分以内には屋敷で怒声と破壊音が聞こえるだろうと二人は推測している。それをキリエはとても嫌そうに顔をしかめた。フィオレも面倒かそうでないかを考えると、とても行きたくないが父を説得できなければ始まらないことはわかっている。
 キリエは口を尖らせて言う。
「あのジジイもう年なんだから黙って行かせてくれたらいいのに」
 フィオレはキリエのほうを向いてにっこりと笑った。
「お父様の頭が柔軟であれば私はここで仕事をしていません」
 ザーフィアスの貴族街に位置しているシャイネン家の屋敷は騎士団本部からは少し離れている。それはフィオレの父であるジョナサンが足の動かない娘を過剰に心配して家でも作業できるようにと弟子のアレクセイに強要いているのだ。おかげで『引きこもりの副団長』と大変不本意なあだ名を付けられている。全く迷惑な話だ。
「ホントに見境なしだ――」
 向かっている先から何かが盛大に割れる音がした。恐らく食器類だろう。そのあとに雄たけびのような野太い罵声が響き、フィオレとキリエは顔を合わせる。
「あらら」
「あちゃー」
 どうやら父は予想通りの反応をしたようだった。使用人たちがどんどん奥の部屋に吸い込まれていく。そして慌てた声でお止めくださいと何度も言い募る声が聞こえてきたが、破壊音は止まらない。
 キリエがうんざりした表情でフィオレを見た。
「今のうちに逃げない?」
「逃げたらそれこそ逆効果です。行きますよ?」
 そしてフィオレはドアノブまで近づいて捻った。
 
 ***
 
 景色が開けると部屋の中は泥棒でも入られたのかと思うぐらい荒れていた。キリエが見渡す限りではすべての調度品は壊れているし、破片が痛んだじゅうたんに広がっている。辛うじて机が倒れずに済んでいるこの状況を数分で作り出したジョナサン・F・シャイネンという老骨にため息を吐きたくなる。
 ジョナサンは先々代の騎士団長であった為、腕っぷしは強い。服の上からでもわかる筋肉隆々の体つきをしているが背は小さく髭が胸のあたりまで垂れ下がっていた。
 ジョナサンがフィオレの姿を認識した途端くわっと大きく口を開いた。
「なんだこれはあああああ!」
 ダンと拳を机に叩きつけてまた机が軋んだ。ジョナサンの手にはくしゃくしゃの手紙があり、フィオレを激しく睨みつける。
 フィオレはにっこりと笑って返す。
「なんだと言われましても、見ての通りだと思いますお父様」
 慣れた様子でフィオレが言い返すと、反論が気にくわなかったのかジョナサンは額に血管を浮き上がらせた。
「父親に向かってなんだその言い方は!」
「申し訳ありません、お父様――」
 珍しく素直に謝るフィオレにキリエは驚いたが、それも一瞬のことだった。
「耳が痛いのでもう少し声を小さくしてください」
「誰がそうさせているのだと思っているのだっ! このバカ娘がああ!」
 ジョナサンは拳を振り上げて机に叩き降ろした。机は木製とは音を出してジョナサンが叩いた部分が割れる。使用人のがっくりと肩を落とすのがキリエには見えた。かわいそうにと心の中で思う。この親子が喧嘩するたびに何かが破壊され、掃除をし、それを新調して運び込むのは彼らなのだから。哀れな姿になったテーブルを見てキリエもため息を吐いた。恐らく何十万ガルドもする机だったのだろう。シャイネン家は家具の購入代も馬鹿にならない。だがシャイネン家は侯爵の地位を頂いているので浴びるほど金があるのかもしれないが。
 ジョナサンが青筋を立てて手紙を叩きつける。
「この手紙はどういうことだ! 説明せんか!」
 そういえばキリエも内容を見ていなかった。顔を近づけて見てみるとくしゃくしゃの手紙の内容はなんともフィオレらしい言葉だった。
 
 親愛なるお父様へ
 
 今日はお日柄もよく、抜けるような青空が広がっております。
 このような日にお父様はいかがお過ごしでしょうか?
 早速用件に入りますが、私は旅に出ようと思います。
 どれほどの期間放浪するかはまだ決めておりませんが、
 最低でも一か月以上は家を空けることになります。
 その間、家のことをお願いします。
 出発は明朝ですのでお見送りは結構です。
 それではザーフィアスに安寧と幸福がありますように。

                  貴方の最愛の子 フィオレより

「旅に出ます」
「理由は!?」
 目を血走らせて聞いてくるジョナサンにフィオレは満面の笑みで答える。
「休暇が欲しいのです」
 一瞬ジョナサンが黙り、髭を撫でながらフィオレをにらみつけた。
「休暇、だと?」
 不審そうなジョナサンを見て仕方ないだろうなとキリエは思った。今までフィオレはどんなに体調が悪くとも騎士団の仕事をこなしてきた。ましてやこの十年まともに休暇を申請したことがないのだ。疑って当然だろう。
 そんなジョナサンの表情もフィオレは笑って受け流す。
「ええ、ユウマンジュの温泉にでも入ってゆっくりしてこようかと」
 肌も綺麗になりますしねと笑顔たっぷりで言いのたまうフィオレにジョナサンは怒鳴る。
「嘘を吐くな!」
 ジョナサンの言葉にフィオレは大きく目を開いた。そして顔を俯ける。
「……流石ですお父様、私の考えていることなどお見通しなのですね」
 しんと部屋が沈黙する。顔上げたフィオレは真剣な表情で言った。
「実は……」
 ただならぬ雰囲気にジョナサンはごくりと喉を鳴らした。
 フィオレは姿勢を正し、まっすぐにジョナサンを見る。
「世界一周食べつくしの旅を――」
 と笑顔で言いきらぬうちにジョナサンの罵声が遮った。
「馬鹿者があ!」
「ですから食べつくしの旅を……」
 さらに言い募ろうとしたフィオレにジョナサンが手で制す。もう聞きたくないということだろう。一度、威厳たっぷりに咳をした後、娘を見る目とは思えないほど酷薄な瞳でフィオレをにらみつけた。
「……お前、今度は何をしでかそうとしておる」
 ジョナサンの言葉にフィオレは眉をひそめた。
「私がいつも何かしでかしているような言い方はやめてください」
 フィオレの言葉にジョナサンは口の端を痙攣させて怒鳴るのを我慢した。顔に笑顔を張り付けてフィオレに向かって言う。
「前の見合いをどうしたのか覚えておらんらしいな?」
 フィオレはくすりと笑い口元を隠した。
「いえ覚えていますよ? ――あれは傑作でした」
 キリエが紙の束を持ちながらふっと何年も前のことを思い出した。
 確かあれは冬の寒い日だった。
 とある貴族の出の男がフィオレに見合いを申し込んだのだ。
 ジョナサンと話していた男は誠実そうで顔も良かった。年齢もフィオレとそう変わらず、家柄も遜色ない。すでに行き遅れ始めていたフィオレにとって良縁でジョナサンは大いに喜んだ。着々とフィオレの了承なしに婚姻の話が進む中、彼女は文句を言わなかった。それどころか本人に会いたいと申し出て、相手の家にも遊びに行った。いつになく積極的なフィオレにジョナサンも安堵して、これで自分も心穏やかに余生を過ごせるだろうと思っていたのだろう。
 だがフィオレは納得していなかった。
 ジョナサンが安心している間に独自の情報網で男を徹底的に調べ上げていたのである。
 そしてフィオレは相手の男がかなりの女泣かせのすけこましで、今も指の数が足りないほど女性と関係を持っていることを知った。そればかりか男がフィオレのことを家系だけの都合がいい女と言っていたことを耳にしてしまったのである。
 どうするの? とキリエが尋ねるとフィオレはにっこりと笑ったまま答えなかった。あの時ほどキリエはフィオレが怖いと思ったことはない。
 そしてフィオレは行動に移した。
 ある日の午後、男と談笑しながら紅茶を飲んでいるとフィオレが男に近づいて耳元で何かを囁いたのだ。
 何を言ったのか、キリエには聞こえなかった。だが何か良からぬことを吹き込んだのは間違いなかった。その日から男の砂を吐きそうなほどの甘い言葉でフィオレを口説き始めた。キリエには聞くに堪えない言葉だったけれど、フィオレはただただ笑って頷いているだけだった。
 そして男は言った。怖がらないでくださいと、私はあなたのすべてを受け入れると『家系だけの都合がいい女』と言ったその口で愛を囁いた。
 フィオレはまた耳打ちすると男は飛び上がって家に帰っていった。なにを言ったのだろうと思っていたらその日の晩にわかった。
 フィオレはその晩、滅多にしないパーティを家で開いた。仮面を着用するのが義務の変わったパーティで来た人は楽しんでいたが、大広間の扉を全裸で開いて入ってきたのが男だったのである。
 フィオレは男に二人で夜を過ごそうと言っていたらしく、それだけではつまらないと全裸で来るように言っていてこの様なのである。
 ちなみに男は仮面をしていない。フィオレのパーティは男によって混乱に陥り、以来男は社交界に姿を現さなくなったのである。
 その日のことを思い出すとキリエは今も腹を抱えずにはいられない。扉を開けた時の男の間抜け面が思い出されてキリエは軽く噴き出した。
 笑った声が聞こえたのか、ジョナサンにキッとにらみつけられキリエは笑いを引っ込める。ジョナサンはフィオレに向き直る。
「それにお前、私が用意しておいた見合いはどうした?」
 フィオレはキリエのほうを向いてにっこりと笑った。キリエは意図を理解して持っていた紙の束を地面へと落とす。ドサドサと落ちたそれらはすべて見合いの資料だった。
 それを見たジョナサンは顔を真っ赤にしてフィオレを怒鳴りつける。
「私がどれほど苦心して頼み込んだかわかってるのか! お前は二十五を超えたのだぞ!」
 キリエが一瞬にして青ざめる。
 ―― 一番言っちゃいけないことを!
 内心戦慄しているよそでフィオレの笑顔にひびが入った。
 通常、貴族の令嬢は二十歳を超えるともうほとんどが結婚をしている。今年で二十七のフィオレはかなり行き遅れていると言っていいだろう。
 あの真っ裸男以来、フィオレは男たちから怖がられるようになってしまい、未だに結婚が出来ていないのである。まあする気もないのだろうが。
 フィオレが少しばかり冷ややかな声で言う。
「なら、無駄な努力をやめてしまったらよろしいではないですか? 私は自分が認めた方でないと結婚する気にはなりません。他に言うことがなければ退室させていただきます」
 キリエを呼んで出ていこうとするフィオレにジョナサンは慌てた。
「ま、待たんか! 結論を言うぞ、駄目だ」
 フィオレはきょとんと首を傾げる。
「あら私はもう成人していますので、お父様にお許し頂かなくても良いと思うのですが?」
「お前はもう家督を継いでおるのだぞ! 勝手な真似は許さん!」
「家督を継いでいるからこそ、お父様にも止める権利はないのですよ」
 歯ぎしりをして唸ったジョナサンだが、ふいに何か思いついたようにひょうじょうを明るくさせた。
「なら騎士団の仕事はどうした? 私の反対を押し切ってまで手に入れた副団長の座を簡単に手放してしまうのか?」
 フィオレは晴れやかに笑顔で言ってのける。
「仕事は信頼できる方に任せました。それに私は騎士団を辞めるとは言っておりません」
「アレクセイが許さんだろう」
 勝ち誇った笑みを浮かべたジョナサンにフィオレは跳ね除けるような飛び切りの笑顔で言った。
「それが彼がどうしても騎士団に留まって欲しいと仰られたものですから私もお言葉に甘えまして長期休暇という形で席を残して頂くことになりました」
「ほ、本当か?」
 フィオレは深々と頷く。
「それはもう快く了承して頂きました」
 馬鹿弟子がと低い声で吐き捨てたジョナサンが押し黙る。ついに引き留める口実がなくなったのだろう。
 ピリピリとした緊張感が部屋に流れる。少し黙ったジョナサンがややあって口を開いた。
「お前はもう歩けないのだぞ……健全者のように旅など出来ぬ」
 ジョナサンの視線がフィオレの足に向くのがわかった。フィオレの足は十年前の人魔戦争の負傷により動かなくなった。回復の兆しはなく、医者には一生歩けないだろうと言われている。ジョナサンの眉間にしわが寄り、苦渋にまみれた顔をフィオレからそらした。
 フィオレはジョナサンの様子に気が付かないフリをして口を開いた。
「一人で行くなど言っておりません。キリエを連れていきます」
 フィオレの言葉にジョナサンは鼻で笑う。
「こんな子供一人連れてなんになる?」
 ジョナサンの言葉にフィオレは動じず微笑んだ。
「彼は見た目ほど弱くはありませんよ」
 ジョナサンの視線がキリエに向けられる。値踏みするような目はキリエにとって不快だったが、堂々と口の端をつりあげて笑う。
 キリエの笑みに驚いたのかジョナサンは目を見開いた。そして先ほどまでの怒鳴りが嘘のように黙り込み、息を吐いた。
「わかった」
 キリエはフィオレを見ると彼女は穏やかに笑った。もう大丈夫ということだろう。それと同時に使用人たちの表情も明るくなった。彼らとしてもフィオレが屋敷から離れれば一時的に親子喧嘩はなくなり気苦労が減るので嬉しいのだろう。使用人たちが手を叩いて喜びそうな中、ジョナサンは笑みを浮かべて髭を撫でた。
「ただし条件がある」
 ジョナサンがこういう表情で何かを提示してくるときはフィオレに不都合な条件ばかりだ。いいのだろうかとフィオレを見ると彼女はいつものようににこにことして頷いた。
「いいでしょう」

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