「それがなんだっていうのよ!」 カイゲツの頬を力一杯叩いた。それだけは覚えている。 まるで何時間も、何日も、何年も、ずっと寝ていたのではないかという錯覚を覚えながら、ネストケーキは青空の下、目を覚ました。 辺りには見覚えの無い広大な荒野が広がる。 建物という建物は存在せず、ただ、岩肌剥き出しの山と、その麓にある森と、あとは地平線が見えるだけだ。 思考が働いていないため、驚きもしない。 数十メートル先に死体のように転がり落ちているカイゲツを見つけた。 ぐわんぐわんと音が聞こえてくる程に、やけに重たい自分の頭をもたげてよろよろとカイゲツに近づく。 「起きなさいよ」 自分から出た声が思いもよらずカサカサに枯れてしまっていて、少し腹が立った。そして、遅れて覚醒し始めた脳がようやく行動に指令を出し始める。 「起きろってば」 水を求める喉から、絞り出すように再びそう声をかけ、そして一握り分の砂をカイゲツの顔に叩きつけた。 時間の魔物は、イテッ、と嫌そうな顔でゆっくり起き上がり、寝ぼけ眼で顔の砂を払った。ネストケーキがカイゲツに平手を食らわせた時に落とした、過去を視る左目の眼帯は辺りには見当たらない。 「ハァ……散々やってくれるヨネ……。で、なんなのココ? 北極海じゃあ、ないみたいだケド」 左目と少し腫れた頬を手で覆い隠しながら、カイゲツも水分の足りていない喉を2、3度鳴らしてネストケーキに尋ねる。 「……知らないわよ。今まで移動に失敗した事なんて無いし、っていうかさっきは移動するつもりも無かった」 不機嫌にそう呟きながら、スマホを取り出すと、表示された時間は目覚める前……ナナシ達と居た時からあまり進んではいなかった。圏外で、頼りのGPSも機能していない。 「……丁度いいじゃない。あんた腹立つから置いてくわ。あたしは帰る。じゃあね」 ネストケーキはナナシの顔を思い浮かべ、普段通り、空間移動を行おうとした。しかし…… 「……出来ない、どうして!」 ネストケーキはかすれ声で悲鳴をあげた。 「何ひとりごといってんノ」 その様子を冷めた目でカイゲツは眺める。 「あんた、ちょっと向こう行って! 森に!」 「ナンデ」 「ナナの所にどうしても行けないの! 何でかなんて分かんないわよ! もしかしたら能力が、使えなくなってるかもしれない……」 ネストケーキの額から吹き出すように冷や汗が出て来た。 それを見たカイゲツは、本当は手伝いなどしたく無かったが、あらゆる方面での事の重大さを一瞬で感じ取り、仕方がなく、フラフラと森へ向かった。 カイゲツが岩山の麓の森の中へ入るのを見届けたネストケーキは、今度はカイゲツの顔を思い浮かべながら、空間移動を使った。 * 「……ホント、呆れるくらいキモくて便利な能力ダネ」 そこは、日の届かない鬱蒼とした森の中。カイゲツの目の前には確かにネストケーキがいる。音もなく、そこに現れた。空間移動能力はしっかり使えていたのだ。 ケーキの顔色は急激に青ざめていく。 「……で、つまり、どーゆーコト?」 「居ない人の所には、飛べない……ナナも……レイゴも、みんな……世界に、存在してない……」 脳に浮かんだその予想を全て言葉に出した瞬間、ネストケーキはその場に崩れ落ちた。ショックか、脱水症状か。気絶してしまっている。 風も吹かない森の中、束の間の静寂に包まれた。 カイゲツはしばしの間ネストケーキを眺めた。そしておもむろに身に纏う厚手の服を脱ぎ、血の気の失せたネストケーキの上に雑に覆い被せると、ひとり、参ったナァ……と小さくこぼして森の奥深くへ歩いて行ってしまった。 「……おそらく存在してないのは、ボク達の方だ」 * ネストケーキが再び目を覚ましたのは真夜中の事だった。何故か喉の渇きはなく、ただ酷く、腹が減っていた。 小さな音でパチパチと爆ぜる火の粉がひとつ、起き上がったネストケーキの頬に飛んできた。控えめな焚き火の温かさが、自分が生きている事を教えてくれる。 よく見れば自分の頭のあったであろう場所の横に、大きな葉を何重にも重ねた器があった。水が入っており、またその横には名前は分からないが大小の木の実がいくつか置いてある。 知らぬ間に羽織っていた厚手の服の、毛皮部分がふわふわと、かすかに揺れる。 「あたしなんか見捨てて、どこかに行けば良かったじゃない……」 ネストケーキは顔も向けずに、焚き火の向こうに座るカイゲツに蚊の鳴くような声でそう言った。 生きていて良かったという気持ちと、夢でなかったのならそのまま死ねていた方が良かったという気持ちが、せめぎ合う。 「ボクを巻き込んだまま死んでもらっちゃあ困るカラ。バケモノじみた力を持ってるくせに、人間みたいにか弱くて、迷惑極まりないヨネ」 淡々とした口調でカイゲツは“両目”をしっかり開けて、ある一定の方角だけをジーッと見つめたまま、棘のある返答をした。 今のネストケーキに喧嘩を買う元気などなかった。それどころか、生きる意欲も無いのに────腹の虫だけは素直だ。 小刻みに震える指先で、静かに赤い木の実をつまんで口に運んだ。 「すっぱ……なにこれ!」 さくらんぼの感覚で食べたのだが、思わぬ酸味でむせてしまった。 「カムサイ。環境の関係で、地球上でたった1カ所の森にしか生息してナイ、ハイカロリーな超珍しい食材ダヨ。1200年前に起きた森林大火災で絶滅しタ」 「なんでそんな詳しい事知ってるの?」 「ボクがどれだけ生きてると思ってンノ」 「知らないわよ。てかなんでその1200年前に絶滅した木の実をあんたが持ってるわけ?」 「コノ森にあったんダヨ」 「なんで」 「……あのサァ! チョットは自分で考えなヨ!! 」 平静を保っていたカイゲツだったが、ネストケーキの質問責めに集中力がプツンと切れてしまったようで、ずっと見つめていた方角から視線を逸らしてしまった。 「タイムスリップ! アンタが余計なマネしてくれちゃったカラ、ボクたちは1200年以上前に移動しちゃったんダヨ!」 * ふくろうでもいるのだろうか。低めの鳴き声が、森に穏やかな不気味さを増幅させる。 スマホの充電は随分前に切れてしまった。ただ、それでも自分のいた時代を信じるためのお守りがわりにと、ずっと触っていた。そうやって、背を丸めてカイゲツの服を肩から羽織り、膝を抱えながら夜が明けるのを待つ。 空間にまつわる能力のネストケーキと、時間にまつわる能力、特に過去へ干渉する力の強いカイゲツ。平手打ちによる接触や感情の昂りが、2人の不本意な能力の発動・時空間移動を引き起こしてしまったとカイゲツは推測していた。 「時間と空間の同時の歪みは、世界の理をも歪めル。ダカラそうならないように、ボクたちは本能的にお互いに嫌悪する関係なんダヨ。ベニクラゲは天使アムルと決して顔を合わせナイ。過去一度もその姿を見たことがナイ。それと同じサ」 「あたしは天使アムルじゃないもん……」 「……そーダネ。天使アムルならベニクラゲにビンタなんて、バカなコトしないヨネ」 ネストケーキは拗ねて、カイゲツの服を頭まで被って周りの情報を遮断した。汗臭いとか、何でもいいからとにかくカイゲツに対して何か悪口を叩きたかったのに──無臭なのが不満だった。 それから何日も、2人は森で過ごした。 森の奥には泉があり、魚も、木の実もとれ、食料はとても豊かなのに、不思議なほど鳥以外の動物に遭遇しなかった。おかげで、野宿生活が不慣れなネストケーキでもなんとか生きていけた。(魚は捕まえられないため、木の実生活だが。) 「こんな事なら魚釣り、ナナに教わっとくんだったわ……」 カイゲツは水があれば平気らしい。たまに鬱陶しそうにネストケーキの話し相手をしながら、あいも変わらず、とある方向を見つめ続けていた。何をしているのかは教えてくれないのだが、ナニカと交信しているようだ。 「あと少しダ……もう少シ……」 何が、と聞いても集中しているのか、わざと無視しているのか分からない。 そんなカイゲツのおかしな様子にも少しずつ慣れて、気にならなくなってきた頃の事。 ネストケーキが朝、目を覚ますと、いつもそこに居るはずのカイゲツの姿が、無かった。置いていかれた? と、突然の孤独に不安を抱きつつも、空間移動ですぐに追いつけるため、そう思えばただムッとするだけだった。 食料を調達するついで……という名目をわざわざ心に刻みながら、カイゲツの捜索に出ると、3分もしないうちに見つけてしまった。 「呆れた。なんでこんなところで寝てるのよ。おーい、起きろー」 うつ伏せで倒れるカイゲツを、地肌に触れないように気を付けながらぶっきらぼうに足で小突いて揺さぶってみるが、まるで反応がない。気を失っているのだろうか。 救ってもらった恩を思い出し、仕方がない……と、カイゲツの足を持ちあげ、引きずって拠点に戻ろうとした。すると、 「こんにちは」 背を向けた方の茂みから突然、女の透き通った声がした。ネストケーキはギャッと短く叫ぶと同時に反射的に、勢いよく後ろを振り向く。 茂みには誰もいない。 疲労からの空耳だったのかもしれないと自分に言い聞かせ落ち着こうとしたが、足元のカイゲツに目を向けると今度は後ろに跳ね上がりながら、先程より長く悲鳴をあげた。 髪も服も真っ白な女が、体を這い合わせるようにして、のびているカイゲツの顔をまじまじと見ていたのだ。 「魔力が尽きてしまったのですね。本当に良く、頑張りました」 女はカイゲツの頬に唇を軽く押し当て、しばらく見つめてからゆっくりと立ち上がった。 「驚かせてしまいましたね。申し訳ありません」 腰を抜かして絶句しているネストケーキに、微笑みかけながらそっと手を差し伸べる。 「ようこそ、未来からいらした素敵なお方。あたくしは、キン・スイボ……。言葉はこれで、大丈夫でしょうか」 * 詳しい話はカイゲツが目覚めてから……と、スイボと名乗る女になだめられたネストケーキは、一度深呼吸をして自分を落ち着けた。害はなさそうだが、差し伸べられたその透けるほど白く細い美しい手の助けを借りるのは──本能的に遠慮しておいた。 すぐ近くのネストケーキ達の拠点へ戻ると、スイボはカイゲツを自分の膝枕で休ませた。愛おしそうに、カイゲツの頬や髪を撫でながら鼻歌を歌っている。 恋人などというよりは母子のように見える。聞きたいことは山ほどあるのだが、何を聞いても、「あとでね、カイゲツが目覚めてからにしましょう」と、あしらわれるだけだった。ネストケーキは声に出すのをやめ、頭の中だけで勝手に色々と考える事にした。 日がだいぶ上の方に登ってきた頃、スイボの延々と続く鼻歌効果でネストケーキの眠気も最高潮に達そうとしていた……ちょうどその時。鼻歌がぴたっと止まった。 「おはよう、カイゲツ。よく眠れたみたいですね」 突然の発声にびくっと体を驚かせ、ネストケーキは現実に引き戻された。 「ああ、スイボ……ずっと待ってたんダ」 カイゲツは、左目を覆い隠してくれていたスイボの手をやんわりとどけて、膝の上からゆっくりと起き上がった。 ネストケーキに対していつも、無感情か、苛つきを纏わせたような話し方しかしないカイゲツ。スイボに対して放った少ない言葉達は、気持ち悪いくらいに、あたたかかった。 まるで2人だけの世界といったようなその雰囲気に、割って入らないよう、ネストケーキは今だけ口を閉ざしておいた。 「スイゲツがいないナ……ひとりで来たのカ?」 「ええ。スイゲツは今、この時代のあなたの転生の術を受けています。魔界から違法に出て来た悪魔に喰われてしまいましたから」 「あの時カ! 懐かしいネ……確か、悪魔を捕まえるのに二ヶ月かかったナァ。思い出したく無かった思い出のひとつダヨー」 「ふふふ……それにしても未来のあなた、なんて可愛らしい姿なのかしら! この時代から数えて、何度転生を?」 「ンー……あの時からなら7度目ダネ。この姿でいま240年は乗り切れてル。結構長いヨ。キミはもちろんずっとその美しい姿ダ」 「そう、平和な世の中なのですね。安心いたしましたわ。この時代のあなたは背も高くてとても男前だけれど、アタクシはそのお姿の方が好き」 まるでピロートークでも聞かされているようだった。眠っていればよかったと、半分白目を剥きながらも、ネストケーキはじっと聞き耳を立てていた。 「僕らがこの時代に来るコト、いつ気付いタ?」 「あなたがアタクシを呼ぶ、3ヶ月以上前には……すでにこちらに向かって歩いておりましたわ」 「随分遠いトコロにから来てくれたんだネ……すまナイ」 「いいえ、大切なカイゲツのためですもの。痛くも痒くもありません……しかし、今回ばかりは天使アムルの力が使えたらなと、心から思ってしまいましたわ」 うふふ……と、スイボは向かい側にいるネストケーキに微笑みかけた。ネストケーキはスイボに何もかもを見透かされているようで、さらに居心地が悪くなった。 「カイゲツ、あちらの素敵な方をアタクシに紹介して? あなたが起きるまで、お話しするのを楽しみにとっておいたの」 スイボにそう言われたカイゲツは一瞬でいつもの冷ややかな顔付きに戻った。 「空間移動の力を持つ、ニンゲンだってサ。一応、選出旅人に指名されてるみたいだカラ……あとは特に無イ。紹介に値しないヨ」 声のトーンも下がった、非常に無気力な紹介だ。別に期待はしていなかったが、やはりイラっとはくる。 「……アタクシ、なんだか反抗期の子どもを見ている気分よ、カイゲツ。よーく御覧なさい。向日葵のように輝く金色の髪に、翡翠石のような綺麗な瞳……」 スイボは立ち上がると、カイゲツの額を指で弾き──割と強めの音がした──、おもむろにネストケーキの隣に座って、その手を優しく握った。 「な、なに?! やめてよ!」 「ごめんなさい。でも、そんなに避けないで……あなたの美しい容姿と心を、ただ近くで見たかっただけなの」 スイボの顔が超至近距離に急接近してきたため、ネストケーキは思わず赤面してしまった。ナナシやレイゴ以外の他人にここまで褒められた事も無く、恥ずかしさも相まって。 「あんたみたいな美人に言われても……全然嬉しか無いわね。嫌味にしか聞こえないっつーの」 顔を背け、拗ねるように言った。 「ヒトと魔物を比べてはいけません。ヒトはね、儚くて尊い、まるで夢のような奇跡の生物なのですから……。ねぇ、あなたのお名前を教えて」 スイボが何を言っているのか、あまりよく分からなかったが、なんとなく良いことをいわれた気がした。 「トラン・ヴァン・ネストケーキ……長いからケーキでいい」 名を聞いたスイボは体をネストケーキから離して満足気に微笑んだ。 「ケーキさん。アタクシがカイゲツに呼ばれた理由……分かるかしら?」 ケーキは少しスイボの方に視線をやると、さらっと答えた。 「話聞いてて察するにだけど、あんたもソイツと同じ、時間の魔物の3体のうちのひとりなんでしょ。アッチが過去特化型なら……あんたは未来特化型、ってとこじゃないの」 「すごい! 御名答ですわ!」 驚きを含めた満面の笑みに拍手を交えてネストケーキを褒めちぎる。もういいから……と、ネストケーキの制止にもウフフと笑う。つかみ所のないこの手の性格の相手は、おそらく最も苦手なタイプだと心の中で思った。 「じゃあお願い。早くあたしを元の時代に返して。誰もいないこんな時代、もう耐えられないわ」 「ごめんなさい。今すぐは出来ません」 あまりにもサラッと断られてしまい、ネストケーキは呆気にとられた。一瞬の間をおいて、ひっくり返ったような声で叫んだ。 「どうして!」 「アタクシは、自らの危険回避の為に常に時の力を解放しています。そして今回、ここへ向かう為にずっとカイゲツと交信しておりましたから、残りの魔力は限りなく零に近い……」 スイボのその話を聞いて、ナナシの髪を取り戻す際のカイゲツの言葉を思い出し、すっかりまた落ち込んでしまった。 ベニクラゲの魔力回復にはかなりの時間がかかる。カイゲツの時は『栄養タンク』のナナシがそばに居たことで短縮効果はあったものの、それでも一週間という時間をかけての回復だった。 「狙って1200年後に行くには、相当な魔力が必要だろうネ。スイボの完全回復も、もしかしたらあと1ヶ月はかかるんじゃ無いカナ」 ネストケーキは、何かいい方法は無いの? と、聞こうとしたが、やめた。元の時代へと戻る希望の光は見えたものの、あと1ヶ月もこの生活か……と考えると、心は酷く落ち込んだ。 * 森の奥にある泉の、さらに進んだ所には少し水温の高い泉がわいていた。温泉のように気持ちのいいものでは無いが、冷たいよりはマシだろうとネストケーキは毎日昼間──夜は怖いので──に浸かりに来ていた。 身に付けているものは全て取り払い、足先から少しずつ泉の中に入っていく。胸まで浸かったところで、大きくゆっくり息を吸い酸素を肺に溜め込むと、そのまま頭まで沈んだ。 水中はいつも不思議なほど透き通っている。目を開けていても、どうしてか痛くない。そのため、ネストケーキは心の中で勝手に《涙の泉》と呼んでいた。 昔から水の中が好きだった。不自然な自分の身体を自然が優しく包み込んで、許してくれるようで。少し息苦しさを感じるそれさえも心地良いと思う。 何度か息継ぎをしては潜ってを繰り返し、30分は遊んでいただろうか。流石にそろそろ岸に上がろうと思い、自分の衣服を脱いだ方を探して振り返ると──そこにはカイゲツが立っていた。無機質な目でじっとネストケーキを見つめている。 ネストケーキは表情を変えず、そこから少し離れた岸へ上がった。 「……見てんじゃないわよ、ヘンタイ」 その言葉に何の反応をするわけでもなく、ただ視線で追いかけてくるカイゲツ。それにはネストケーキも前を隠すわけでもなく、無表情で返した。一応は言葉に出してみたものの、何故だか、恥も怒りも嫌悪も、湧き上がってこなかった。 例えようの無い“無”の時間が過ぎていく。嗅いだことのない甘い匂いが辺りを包むが、不思議と何も思わなかった。そしてようやくカイゲツが口を開く。 「アンタがホントーはナニモノなのか、見にきタ」 お互い視線を少しもそらさずに見つめ合う。ネストケーキからの返答がない事、それをカイゲツは“許可”と解釈した。 「その身体はどうしたタ」 「これは……あたしの自由の形」 「人間でありながら、男でも女でもナイのが、ホントーに自由カ?」 「変わらないわ。男として過ごしてもどこか不自由だったし、女として過ごしても……そう。だから選ばない事を選んだの」 「フーン……選ばない事を、選んだ、ネ」 「そうよ。この世にはね、選ばない自由ってものがあるのよ」 淡々とした口調でカイゲツの問いにそう答えたネストケーキだったが、その瞳から、ふいに大粒の涙がこぼれた。それは栓が抜けた合図だったのかもしれない。 「あぁ、やだ。……馬鹿よね。自分で選んだ道のはずなのに」 無表情から一変して、今度はごまかすように口角を上げて笑って見せるものの、それでも、次から次へと容赦なく涙は零れ落ちていく。 「どうすればいいか、分からないことばっかり。どうなりたいのかも分からないし、それを考えるのもつらい。だから選ばないようにしたの。だって、どんなに願ったってあたしは絶対、そうはなれないんだもん。自分が自分である限り、あたしの願いは、叶わないんだもん」 涙と一緒に今まで胸に秘めていたありったけの思いが、堰を切って出てくる。今まで誰にも、親にも親友にも告げた事がない、隠し続けてきた思い。 「ソレは選んだんじゃナイ。そーやって何になろうともしないで、困ったらその不思議な力で姿をくらまして、選ぶコトからずっと、逃げて来ただけダロ」 「わかってる、わかってるわよそんなの……あたしは誰よりも、自分が中途半端な弱虫だってわかってるのよ!」 カイゲツの辛辣な言葉を否定は出来なくて、ただ、どうしようもない悲しみにはち切れそうな胸を抑え込もうと自分自身を抱きしめて、その場に崩れ落ちた。 風もなく、小鳥のさえずりも、羽ばたく音さえも、何の音もしない森に、唯一ネストケーキの咽び泣く声だけが広がる。甘い匂いは強くなっていたが、気付くことが出来なかった。 泉の真上だけは、木々も邪魔をせず、青い空を覗かせている。水面を照らす光だけが、ゆらゆらと呑気に揺れ動く。 ──なんとなく。楽しそうだから。 そうやって気ままに生きていこうと決めたのに、現実はそうではなく、そういうふりをして、ただ、怖いものから逃げるだけの生活になっていた。その寂しささえも、気付かぬふりをして。 うずくまるネストケーキの体に、何かが覆いかぶさる。ここに来た当初、何度も世話になった無機質な暖かさだ。 「あまりにも弱い……」 頭上から聞こえてきたその憐れむような囁く声と、そっと頭に置かれた手の感覚に、ネストケーキは潤む目を見開いて、ばっと顔を上げた。 そこにいたのは、レイゴだった。 まばたいても、目をこすっても、血の味を感じるほど唇を強く噛み締めても、紛れもなく、心の中の想い人。 「そんな奴らばかりだから俺達は人間を、愛おしく思ってしまうんだ」 妹のナナシより深く、濃い青色の瞳が愁いを帯びながら、真っ直ぐ見つめてくる。目の前にいるレイゴは、昔、子ども同士の戯れに触れた時よりずっと、がっしりと逞しい身体つきだった。 先日、努めて明るいふりをして組んだその腕も、衣服越しには気が付かなかったが、よく鍛え上げられている。 その筋肉質な腕に抱き寄せられて、ネストケーキは心の底から求めていた、優しさに包まれたように思えた。 「ひとりで生きようとするからそうなる。助けが欲しいなら請えばいい。道に迷っても、一緒に道を選んで歩いてくれそうな奴らが、お前にはいるだろ」 耳の後ろから聞こえる声も呼吸も、伝わってくる律動的な鼓動も全て、自分の嫌いなマモノのものと判りながら、このまま寄り添っていたいと感じてしまう。 自分の背中に回されていた両腕の力はゆるみ、今度はその両手が両頬に添えられた。 レイゴの姿をしたマモノは、その手でまた自分と視線が合うようにネストケーキの顔を誘導すると、目頭から目尻にかけてを親指でなぞらえ、留まる涙を拭った。 「幸せな時にだけ笑えばいい」 ゆっくりと近寄る唇に、ネストケーキは人差し指を立てて当てがった。 このまま受け入れれば、今この瞬間だけでも幸せかもしれない。 それでも、例えいくら相手が幻であろうと、こんな幸せが自分に来るはず無いと、まだ冷静なネガティブがネストケーキの思考を支配するのだった。 「……悪いわね、起きたまま夢は見ないことにしてるのよ」 ネストケーキはレイゴの姿をしたマモノの体を腕でグッと押し返して距離を置いた。 より一層、哀れんだ眼差しで見つめてくる相手に、微笑んで返す。 「でもおかげですっきりした。ありがと。 ねぇ、あんたは誰? カイゲツ……でも無いんでしょ。女の方?」 その問いにレイゴの姿をしたマモノは答えず、ゆっくり立ち上がり背を向けた。 「幸せになるには勇気が必要だ。勇気はひとりじゃ出せない事の方が多い。だから……」 言葉を途中にして森の方へ歩き出す。ネストケーキは耳を澄まして言葉の続きを聞こうとしたが、張り詰めていた糸がぷつんと切れた影響か、大泣きした影響か、ようやく気が付いた不思議な香りの影響か……突然眠くなってしまった。 ──他人を頼れよ カイゲツのゆったりした大きさの服に全身をうまく包まれて、太陽の傾き加減でちょうど陽だまりとなったその場所でネストケーキは心地よい眠りについた。マモノの言葉が聞こえたかどうかは本人にしかわからない。 レイゴの姿をしたマモノは茂みに入ると、すぅーっ……と姿を戻し、立ち止まった。 「あれで、よろしかったかしら?」 スイボはすぐ横の、木にもたれかかるカイゲツに目を向けて話しかけた。カイゲツは抱えていたスイボの服を軽く投げ渡した。 「ボクの姿を見せろとは一言も言ってないゾ……」 「お話を円滑に進めるために、仕方のない事でしたわ。アタクシの普段の姿ではきっと、話になりませんでしたもの」 うふふと笑うスイボは自分の服に袖を通して、長い髪を軽やかになびかせる。そして、ふぅ……と小さくため息をつくと、声のトーンを少し落として呟くように言った。 「人生で初めて、失敗しましたわ」 「魔力、あまり取れなかったカ?」 「感情が昂ぶっていたので程々には戴けましたけれど……この術で、幸せを感じてもらえなかったのが、心苦しいのです。魔力を戴く代わりに、夢のような幸福な愛の時間を与えるのが、アタクシの主義ですのに……」 マモノたちは静かに拠点の方へ歩き出した。 「せめて夢の中では、幸せに……」 |