夢の終わり | ナノ





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夢の終わり 5

 凪いでいた海が荒れ始めたのは陽が沈みかけた頃だった。務めをあげ、神殿から戻った松風城主疾風は厚い雲の中で光る稲妻と、そのすぐ傍近くにある塔の部屋を見上げ顔を曇らせた。
 松風城には城を挟んだ東西に二つの塔がある。その西側最上の部屋に、今、珠羽の姫が滞在しているが、この風と雷に独りで怯えているのではないだろうか、と。
 疾風の弟、翔流を訪ねてこの城に訪れた珠羽の楓姫だったが、あいにく疾風は今日、翔流を北の領地に向かわせたばかりだった。出直すという楓姫に翔流が戻るまでの七日間、この城での滞在を促したのは疾風だ。
 この地での嵐は珍しくはないが、珠羽の楓姫にとっては慣れないことだろう。しかも、稲妻がすぐ近くに走る塔の部屋にいればどれほど恐ろしい思いをしているだろうか。
 塔の最上へと続く階段に足を延ばした疾風だが、すぐにその足を止め逡巡した。
 今はもう、楓姫は自分の許嫁ではない。夜の闇が近づくこのような刻限に女人の部屋を訪れるべきではないと。そう思えば胸の中が軋むように痛んだが、疾風は諦めに似たため息を吐き踵を返した。
 だがその時、空が割れるほどの雷鳴が轟き塔を震わせた。
「やはり、放ってはおけぬな…」
 先ほどとは違った意味でのため息が零れる。
 ただ楓姫を哀れと思うだけだ。決してやましい思いから進むのではない。この風が、雷が、楓姫を怖がらせているだろうから――。
 塔に上がる理由をもたらした雷鳴に心の片隅で感謝しそうになる想いを精一杯否定しながら疾風は長い螺旋の階段を上り、そして扉の前に立ちここでまた逡巡する。
「……」
 さきほどから雷はさらにひどくなっていた。頑丈な扉の向こうで楓姫がどうしているのか気配は探れないが、塔を打ち付ける雨と風の激しい音は煩くなる一方だ。
 意を決して扉を叩けば、すぐさまそれが開き、
「疾風……!」
 目を真っ赤にした楓が顔を出したのだ。
「やはり泣いていたか。そういうところはいつまでも幼い頃のままだな」
「だって雷が落ちてくるのではないかと思うと怖くて怖くて…」
「ここに雷は落ちぬ。その為の捧げだ…」
 どれほど空が荒れ狂おうと城や領民を脅かす処への落雷は決してない。させない。疾風が己のすべてを投げ打って、その願いひとつを天に叶えさせているのだ。
 楓姫を安堵させるつもりの言葉だったが、その表情はますます雲っていった。
「どうしても捧げをやめることは出来ないのね…」
「そうだな。俺の務めだ」
 間髪を入れずに言い切る疾風に、楓姫もそれ以上の言葉を呑みこんで窓の外に目を向けた。
 闇の空に幾筋もの稲妻が途切れることなく走る。下では荒波が轟々と暴れ回り、その凄まじい光景は楓姫をひどく震撼させた。
「落ちないと分かっていても、やっぱり怖い…」
「……無理もないな。嵐が止むまでここにいてやるから、もう泣くな」
 楓姫の頬に零れる涙を人差し指ですくい上げ疾風は笑った。 
「疾風…。ありがとう」
 先ほどとは違い、今は疾風の言葉に心の底から安堵したように楓姫もやっと微笑んだ。
 その顔を見つめ、前に楓姫とこうしてふたりの時を過ごしたのはいつだっただろうか、と疾風は思った。
 幼い頃から楓姫とは珠羽と松風を互いに行き来する仲だった。それは両家の領主同士が懇意にしている友好関係にあったからだが、その延長として数年前に楓姫は疾風の許嫁となったのだ。この西の塔の部屋は楓姫がここに滞在する時のために疾風が用意させたものだ。天蓋付の豪華な寝台も、螺鈿の鏡台も卓も、松風で一番のものを選んで楓姫のためにあつらえた。前に楓姫がこの部屋に滞在した時は疾風の許嫁としてだった。婚姻の儀式を挙げるまではと楓姫に触れることはなかったが、幾度となくこの部屋でふたり、夜半を過ぎるまで語り合った。
 だが、楓姫との婚姻は疾風の都合で破談になった。そして、楓姫は――。

 目の前の人は頭上で雷が鳴るたびに、びくりと肩を震わせ怯える。
「……そなたもいずれ松風の人になるのだ。少しは慣れないと心の臓が持たぬぞ」
「そうね…。分かっているのだけど、雷が鳴ると体が勝手に震えてしまうの」
 少しずつ慣れるように努力するわ、と楓姫。
「でも、これでもさっきよりは落ち着いたのよ。独りでいた時は心の臓が破裂してしまいそうだったけど、疾風が来てくれて」
 そうか…、と疾風は目を伏せる。自分の存在が楓姫のためになったのは嬉しく思うが、素直にそれを受けとめることは今の疾風には出来ない。
「落ち着いたと言うわりには、そなたの肩は忙しく震えているな」
 言った傍から、また楓姫は大きな雷鳴に震える。
 そんな姿を見ると哀れで、疾風は何か楓姫の気を紛らわせてやれるものはないかと思った。
 ふと目に留まったのは花瓶に挿した桜の枝だ。疾風は、まだ蕾を付けただけのそれに掌をかざした。
 すると、蕾はふるふると震え、やがて花弁を開いて枝の桜は満開になった。
「いつ見ても疾風の術はすごいわ」
「そなたが喜んでくれたならなによりだ」
 蕾の時を進め、花を開かせる先行術だ。幼い頃、楓姫に幾度となくこの術を見せると、その度に丸い目をめい一杯見開き輝かせていた。
「でも…、術で時を進めて開いた花は枯れるのも早いのではないの?」
「そうだな」
「……花の命が短くなるのは悲しいわ…」
「花は一瞬で咲き一瞬で散るが美しいと俺は思うが」

 ――はらはら散る花びらが地面を絨毯に変える姿も、春の嵐に花を一気に攫われるさまも…。

「私はできるだけ長く見ていたいわ。こんなに綺麗に咲いているんだもの…。急いで散ってしまうのは…」
「……悲しげだな、楓」
 昔は同じ術で喜んでくれたはずだった。花を咲かせられる疾風が好きだと。疾風のお嫁さんになりたいと。無邪気にそう言って楓姫は笑っていた。ふたりの婚姻が決まった後はこの塔の部屋にも何度も訪れて――。
 人は変わる。
 自分の嫁になりたいと無邪気に言っていた楓姫が、まもなく弟の妻になるのだから。

 ――そうだ。

『翔流に嫁ぐようにと父上に言われました…』
『そなたは、翔流が嫌いか?』
『好き…です』
『……ならば、俺はふたりを祝福するだけだ』

 楓姫は弟、翔流の妻になると決まった。翔流が好きだと、そう言った。ふたりの皇子のうち、ひとりをちゃんと選んでいたのだ。
「もう、あの約束は果たせないのだな…」
 術で蕾を開くことが楓姫を悲しませてしまうなら、いつかもっとたくさんの花を咲かせてあげようと幼い頃にした約束はもう果たせない。楓姫が喜ぶことなら何でもしてやりたいと思っていたあの頃にはもう二度と戻ることが出来ない。今の自分にはもう、欲しいものも、願うことも、なにひとつ叶えることが出来ないのだ。
 子孫を遺せぬ不治の病を発症した自分に代わり、両国の関係を守るため弟が楓姫を娶ることとなった。弟も幼い頃から楓姫を好ましく思っていたことを疾風は知っている。
 仲の良い幼馴染としての三人の関係だったが、いつの間にか自分だけがふたりに置いていかれてしまった。
 それは、仕方のないこと。
 それが、自ら選んだことに対して支払わなければならない対価。

 それでも――。

 稲妻が滝のように闇から海に走り雷鳴が轟いた。塔が揺れるほどの轟音だった。
「疾風…!」
 思わずだったに違いない楓姫が疾風の胸に飛び込んで来た。
「楓…姫…っ」
「ごめんなさい、疾風…!」
「いや、いい…」
 自分の取ってしまった行いに戸惑い、楓姫は慌てて疾風から離れようとする。
 だが、疾風は、

 ――今ひととき楓の…、愛しい人の温もりに触れていてはいけないか…。

 ささやかでも心の底からの想いが、離れようとする楓姫をさり気なく抱き寄せていた。
 今ひとときだけ。
 ほんのひとときだけでいいから――と。
 轟々と風が鳴る。
 休むことなく稲妻は走り、雷鳴を轟かせる。
 嵐は、いつまで続くのだろう――。

「この嵐は…止みそうにないな」
「嵐が止むまで…、ここにいてくれるのよね…?」

 ふいに、ふたり、同じ時に違う言葉を放っていた。
「楓…」
「疾風…」
 それぞれ放った言葉の意味を考え、互いを見つめる目を反らすことができない。
 嵐が止むまでここにいてやるから、もう泣くな――確かに、さっき自分は楓姫にそう言った。
 だが今――。
「今夜は、止みそうにない…」
 ささやかな温もりだけで耐えようとしていた。どれほど愛しく思っても手に入れることは叶わない人だと諦めようとしていた。
 なのに、楓姫はこんなにも無防備に自分にしがみついて。腕の中で震えて。
 どれだけの思いでこの想いを封印したかなど、楓姫は知るはずがないだろう。咽び震える心を限界まで封じ、弟との結婚を祝おうとしていたというのに――。
「………っ」
 止みそうにない嵐と嵐が止むまでの意味を察した楓姫が、先ほどまでとは違う、怯えた瞳を揺らし疾風を見つめる。
「そのような目で見るな…」
「は…やて?」

 ――それほどまでに欲しいなら奪ってしまえ。

 奪う……?

 ――どんな手を使ってでも己の想いに真っ直ぐに、忠実に従って手に入れてしまえ。

 奪う。
 弟からか、それとも運命からなのか。

 ――奪え…!

 囁くのは悪魔の声。
 だが、この嵐は天の情け。
 自分から一番欲しいものを奪った代わりに、天が一時の情けを与えてくれたのだ――。

 疾風の中で何かが音を立てて壊れた。

 ――この嵐が止むまで楓は俺のもの。欲しくて、焦がれて、だが決して思い通りにはならない運命に、今だけは抗ってもよいと……!

 まるで、肯定するかのような雷鳴が轟く。
「術の花はもう咲かせない。だが、別の花をそなたに咲かせ約束を遂げよう」
「はや…て…っ?!」
 おずおずと後ずさりしようとした楓姫の両腕をがつりと掴んだ時、疾風の理性の糸は焼切れた。楓姫をそのまま寝台に押し倒し、襟を力いっぱい開く。

 ――楓…、楓…っ!

 抵抗して泣き叫ぶ楓姫を素肌に剥き無垢な柔肌に無数の朱い花を咲かせていく。己を失くし、まるで獲物に食らいつく獣と化した疾風の頭の中を巡っていたのは、ただ、奪え、という言葉だけだった。






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