夜半が過ぎ、静まり返った本殿に颯矢はひとり佇んでいた。 明日は千年祭。先ほどから風が強くなり、ひゅうひゅうと空気が震える音がここまで聞こえてくる。この風で桜の花もずいぶんと散ってしまうだろう。祭りが終わるまでもってくれればいいのだが、と冷静に考えながらも、ざわざわと胸の奥にさざ波が立ち、何かが起こりそうな気配に不安が押し寄せ、何となくこの場所に足が向いてしまったのだ。きっと、数日前のさくらとの会話がずっと脳裏にあったからだろう。 本殿は神が降りる場所、すなわち依り代であり、伝説に語り継がれてきた姫の形見――その“装飾品”も神の傍に祀られている。千年祭で一般公開されることになっているが、今、ここにある桐箱の中は空っぽだ。そんなものは千年前の初めから珠羽神社に祀られてはいないのだから。 この事実を知っているのは代々宮司を務める者とその親族、村の長、古くからの一部の氏子のみであるから当然、颯矢も前から知っていた。 だから、ふたりの皇子の御霊が姫の形見と共に祀られたことで禍が止み、そのおかげで珠羽松風の両地は豊かになった、という伝説が大いなる作り話であるということも初めから分かっていた。 千年祭で公開されるのは珠羽の姫とは何ら関わりのない髪飾りなのだ。ここ数年、珠羽神社の神はキスのカミサマと評判が立ち、全国から訪れる参拝者で賑わっている。それまで寂れていくだけだった神社も村も、この人出を利用し村を興している最中だ。そこにちょうど千年祭が重なったため、伝説の形見を公開すれば話題と共にさらに人を呼べると村の上の者たちが考えたのだろう。身代わりの品を形見と偽って公開するなどどうかと思うが、この国は古来より人も物も身代わりを立てるのを当たり前としてこれまでの歴史を築いてきている。 颯矢はそっと手を伸ばし、空の桐箱を手に取った。初めから存在などしていないものを、いったい誰がいつ伝説にしたのだろう。考えてみれば不思議なことだと思うが、自分がさくらに語ったように、これも後の人の想いが幻の形見を作り上げたのだろう。 人の巡る願いが伝説を創る、それを素敵だとさくらが言った。巡るとは途切れない、終わらないということだとも。 「千年の間、願いが巡り続けている…か」 だとすれば、千年祭は巡り続けた想いを祝う祭りだと言える。 形見は幻であっても、千年の昔、ふたりの皇子に愛されたひとりの姫が存在したのは事実だ。皇子たちは同時に同じ姫を愛した。姫はふたりの想いを受け、一方だけを選ぶことが出来ずに自害してしまったというが、そうなる前に、どちらかが姫の心を独占することはできなかったのだろうか。 『ふたりが好きだったらどちらかひとりなんて選べないなって、普通に思うだけ』 『ふたりの皇子も、お姫様も可哀想。ずっと仲のいい幼馴染でいられたらよかったのに』 さくらは言っていた。だが、それほどまでに愛した人を自分の手に入れる、そのために己の想いに真っ直ぐに忠実に従ってしまうことはできなかったのか。 ――自分だったら。 どんな手を使っても奪いたいと、真っ黒を通り越した漆黒の腹で思う。ここにおわす松風の神は、千年もの長い間、何を想ってきたのだろう。 姫の形見はない。 初めから一緒に祀られてなどいない。 ならば、何を拠り所にして神は神になったのか――。 ごう、と風が鳴った。 その音がやけに胸に響き、その奥深くまでがぐるぐるとかき回されるような感覚が切欠となったのか、ふいに颯矢の胸に去来したのは悪夢の後に残る黒い感情だった。 欲しい――。 ――なにが…、 欲しくて、たまらぬ――。 ――だから…、いったい何が…! 手に入れること決して叶わぬ、唯一の――。 ――唯一の…、何なのだ! 愛しき…――。 ――それほどまでに欲しいなら、奪ってしまえばいいだろう! ……奪う?――。 ――そうだ。奪え、奪え――!! 何かを欲し、焦がれ、思い通りにならないことへの激しい憤り――。今この時、悪夢の中に引きずり込まれたかのように生々しい言葉と感情が颯矢を直撃し、そして理解した。目覚めると沈んでしまっていた、これが悪夢の正体だと。 奪え――。 夢の中で自分は確かにそう叫び、その時の感情は間違いなく己のものだった。何かを心の底から欲しているのも自分。奪えと叫ぶのも自分。ひとつの体に心がふたつあるような違和と不快感。 どくん、どくんと胸打つ鼓動が痛く、激しく、颯矢は思わず膝をついて胸を押さえつけた。 「な…んなんだ…?!」 魂をもがれるような息苦しさに見舞われ気が遠くなっていく。目の前が霞む。かざす手も霞んでいく。 己の存在が不確かになっていくのと反して、耳を打つ風の音が強く激しくなる。 欲しいなら、奪えばいい。 どんな手を使ってでも――。 想いが頭の中ではっきりとした声になった時、闇の中に意識が溶けていくような感覚に襲われた颯矢は体の力を失っていった。 ・ ・ ・ 巡る。 闇の中をぐるぐると。 ここに在るはずの己の存在を絶つかのように遠くへと引きずられながら巡っていく。 「嵐が止むまでここにいてやるから、もう泣くな」 今、その言葉を発したのは間違いなく自分だ。なのに、心の所在がつかめない。 自分は今、どんな時に、誰を目の前にしてこの言葉を紡いでいるのだろう――。 確かに外は嵐のような風が吹いていた。桜の花が散ってしまうことを憂いていた気もする。 泣くな、と自分が誰かに声をかけるとしたらさくら以外にいないはずだが、さくらは傍にいただろうか。つい最近、泣き顔は見た気もするが、あの時は嵐だっただろうか――。 ぼんやりとした頭でそんなことを思いながら、颯矢の意識は巡りの中からゆっくりと覚醒していった。 「疾風…」 疾風…。松風領主であり古代種の術を扱える最後の術士――自分のことだ。 「ありがとう…」 心の底から安堵したような微笑みを今目の前で自分に向けているのは、 「……か…えで」 楓…。今も、昔も、自分が、松風領主が愛するただひとりの人。 ――いや違う。これはさくらだ。 なのに、己の口は当り前のように別の名前を呼んだ。楓はさくらで、さくらは楓なのか。 覚醒しきっていない意識は凄ましく混乱するが、ここにいる“疾風”は冷静に楓を楓として見つめているのだ。 だが。 「ありがとう疾風…」 先ほどと同じ言葉を呟くように言い、目の前の人は泣き顔を笑顔に変えた。 「楓…」 もう一度その名を口にした瞬間、颯矢の意識は一瞬の間に“今この時”に同期した。 |