――キスってのは、ある意味一番神聖なんだ。 言ったのは誰だったろう。 ――さくらが好きだ。 抱きしめた人は誰だったろう。 どちらもごくごく近しい、いつも傍にいた人だったはずなのに、顔も名前も思い出せない。ただ、胸がおしつぶされるように痛くて苦しくて、思い出せない誰かに心が手を伸ばしている。 ――さくらに願う。おまえにキスしたい。 胸が焦がれるくらいに跳ねる。 ――俺は願うよりも奪うよ。 奪うよ。 奪う――。 「待って…!」 さくらは近づいてくる顔を避けて叫び声をあげた。 「…夢?」 目が覚めたのだから夢を見ていたのだろう。だが、一瞬でどんな夢だったのか忘れてしまった。なにか、とてつもなく切ない想いだけが胸の中に余韻を残しているが、今見ていた夢を覚えていない。 「ここは、どこ…?」 辺りを見回して、さくらはここが見知らぬ部屋だと気づいた。 板張りの簡素な部屋に寝台がひとつ。さくらはその上で目覚めたのだが傍には誰もいない。起き上ろうとしたが、動かそうとした足首に激痛が走った。そればかりでなく足にはまったく力が入らず動けない。 そう認識した時、体中に不快な感触が走り、やがてこの足を斬られた時に自分の身に起こった禍がじわじわと脳内に蘇ってきた。 「あ…っ、あぁ……!」 逃げなければという思いに駆られ、さくらは無理に起き上ろうとする。どうしても動かせない足を手で引き寄せて寝台から出ようとしたが、痛みに耐えきれずにそのまま床に転げ落ちた。その激痛が、すべてが現実だったのだということを嫌と言うほどさくらに叩きつけた。 「いやぁぁぁぁ!」 「どうした!?大丈夫か!?」 乱暴に扉が開きひとりの男が部屋の中に飛び込んで来た。 「…!」 知らない男の出現にさくらの体が恐怖で強張った。近づいてくる男は、長い黒髪をひとつにまとめ、毛皮ような合わせ衣に幅の狭い袴を着け、腰布で縛っている。剣道着でもなく法衣でもない見たことのない衣装だ。自分を襲った男たちが着けていたもの似通っている様相にさくらの恐怖は増幅した。 また、あんな目に遭わされてしまう。 逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ…!! さくらは必死に男から逃れようと気持ちだけが後退するが、体はその場から動かすことができず、全身から血の気が引いていく。 「こ、来ないで…!!いや!」 ほとんど錯乱しながら拒絶の言葉で壁を作り、近づく男を遠ざけようとするさくらだが、 「そなたが怯えるのも無理はない。だが、俺はそなたに危害を加えはしない」 同じ目の高さに膝をついた男の声は優しく、精悍な顔立ちは誠実そうで、まっすぐに見つめてくる瞳は澄んでいた。見覚えはまったくないはずなのに、この人を知っているような気がする。警戒心が解けたわけではないが、さっきまでのいやな恐怖は不思議とどこかへ去っていった。 「そなたはひどい怪我をしている。まだ動いてはだめだ」 「……あなたは、誰?」 「俺の名は翔流(かける)という。これでも一応武将だ。だから安心していい」 「ぶしょう?」 首を傾げるさくらに、翔流と名乗った男は眉根を寄せた。 「そなた、武将を知らぬのか?」 「そうじゃなくて…、今どき武将なんて…」 「今どき?」 今度は翔流が首を傾げた。 「ああ。何故軍の将がこのようなところにいるかということか。今は事情でここに留まっているが、領地内外を視察して旅をしている最中だ」 「視察…?」 領地内外の視察をしているということは…、 「あなたは、偉い人なの?」 例えば防衛庁の上層部とか外交官とかそんな言葉が頭に浮かぶが、 「別に偉くなんかない」 それらと目の前の人はイメージが重ならない。 「そなた、名を何という?」 「私の名前はさくら…」 「さくらか。良い名だな。俺の好きな花と同じ名だ」 「あ…りがとう…」 よい名だと言われ、さくらは素直に嬉しいと思った。 今の時代に武将だとか、着ている服も話し方も変だが、この人、翔流のことは信じていい気がした。翔流から伝わる空気や雰囲気は優しくてひどく懐かしい。泣きたくなるぐらいに懐かしくて、心が落ち着く。 だからなのか、さくらの表情が堅い強張りから柔らかな笑みに変わった。 「………っ」 ふいにこぼれたさくらの笑顔に、翔流は息を呑みこんだ。 ――やはり、似ている。 あの日、闇を突き抜けた切実な悲鳴を聴いてあの場に馬を走らせた。 そこでひとりの女を辱めていた四人の賊を次々と斬り捨て、凌辱を受け脚の腱を斬られて瀕死になっていた娘をここに連れ帰り、その顔を見た時に心臓が止まるかと思った。 似ている。 もう、この世のどこにもいない、かの姫に。 姫は死んだ。 この娘はまったくの別人、そう分かってはいても、深刻な傷を負い高熱にうなされる娘を放っておけなかった。傷の手当てを施した薬師に娘を預けることも出来たが、翔流はこの小屋で自らの手で看病をした。なぜか、どうしてもそうしたかったのだ。 「……あなたが、私を助けてくれたの?」 「そうだ」 「なら…、」 あの時、着物を被せて抱き上げてくれたのはこの人。 もう大丈夫だ、と言ってくれたのはこの人――。 ということは、一糸まとわぬ姿を見られている、と気づいてさくらの顔がみるみるうちに赤くなる。それは単純に、乙女心の羞恥だ。 だが、翔流にはさくらのそのような気持ちは伝わっていないようだ。熱があるか?と、さくらの額に自分の額を合わせる。そんな翔流の行動に、さくらはまた赤くなってしまう。 「熱はないようだ。だが、あれからそなたは五日も眠っていた。怪我も軽いものではない」 「この足…」 「……残念だが、腱を断たれたそなたの足はもう動かない」 「そんな…!でも…、手術すればきっと…、」 スポーツ選手がアキレス腱を切ってしまう話はよく聞く。でも、手術で治って再びスポーツをしている話もよく聞く。ひどい怪我なのかもしれないが、もう二度と歩けないとか動けないと絶望するものではないはずだ。 「手術…?もしや、術のことか。そうだな。城に戻ればあるいはどうにかなるかもしれんが…」 「城?」 また変なことを言っている、とさくらは思った。 武将とか城とか、まるで昔のようだ。何もかもさくらの常識に当てはまらない。 違う、変だ。 「ここは、どこなの…?家に帰りたい…」 さくらがぽつりとつぶやくと、翔流はそっとさくらの肩に手を置いた。 「ここは松風だが、そなたの家はどこにある?そもそも、そなたはなぜあのような森の中にいたのだ」 「私の家は珠羽村にあるけれど…、神社の裏の林で雷に追いかけられて…」 「……そなたは、珠羽領の者なのか」 「珠羽…領?」 誰かが言っていた。 昔、ここは松風領と珠羽領に分かれていた、と。神社の辺りは珠羽村の松風という場所。だが、領なんて名前ではない。珠羽村松風、そういう地名のはず。 やっぱり変だ。 まるで昔にタイムスリップでもしてしまったかのよう――。 ――タイムスリップ…? まさか。ありえない。 でも――。 違う。きっと悪い夢を見ているだけだ。 目が覚めたら元の場所にいて、幼馴染の…。 「しかし、神社とはなんだ?神殿のことか?」 「……神社は神様を祀っているお社のこと…だけど…、知らないの?」 「いや、この辺りはそれを神殿と呼んでいる。場所によって呼び方が違うのだろう」 そうだろうか。 神殿という言葉がないわけではないがあまり言わない。神様がいるところは神社――これはたぶん、全国共通の呼び名だ。 「それで、神社とやらでそなたは何をしていたのだ」 「……お祭りの手伝いをしていたの。雷が鳴りだして、真っ黒な雲に追いかけられて…、雲の中から私を喚ぶ声がして…、必死に抵抗したのだけど、気が付いたら森の中に…」 翔流はさくらの話を一生懸命己の中で噛み砕こうとしているのだが…、 「……すまんな。そなたの話していることが、俺にはよく理解できないのだが…」 結局、困惑したようにさくらを見た。 「…ごめんなさい…。私の話はめちゃくちゃよね…」 自分でも分かっていないのに、翔流に上手く説明できるはずもない。 さくらはこれ以上の話をするのを止めた。まさか、と思っていることが嫌でも胸の中に広がっていく。 「いや。そなたが謝ることはない。おそらく一時的に記憶に障害が起きているのだろう…」 あのような仕打ちを受けたのだから…、と翔流は口には出さずに納得した。 「だが珠羽か…。不思議な縁だな」 「縁?」 翔流はさくらの顔を確かめるように見つめた。 顔は似ていても、亡き人とは違う別人。 分かっている。 分かっているのに、さくらに重ねてしまう面影。 『翔流に嫁ぐように言われたの…。翔流は私で、いい――?』 姫のあんな辛そうな笑顔を見たのは、初めてだった。 口にしている言葉と本当の心に大きな開きがあったからこその、あの笑顔。 何年も思い出すことすらできないでいた面影が、今、目の前に。 「………さくら、か。今はちょうどその季節。春を告げる…よい名だな」 「翔流…」 自分を見つめる翔流の顔が、さくらにはまるで泣き出す寸前の子どものように見えた。そんな翔流がなぜか切なくて胸がきゅんと軋む。 「翔流、なんだか、痛そう…」 「…はは…。俺よりもそなたの方がずっと痛いだろう?ひどい目に遭ったが、命があってよかった」 「翔流…」 「ここは俺が借りている小屋だ。俺は今、この界隈を荒らしている賊を討伐している。まだしばらくはここを動けないからその間にそなたはゆっくり養生するがいい。傷が癒えたら必ず珠羽の家に送り届けよう」 「あ…りがとう…」 優しい人だ、とさくらは思う。 でも、どこか悲しそうにも見えて胸が痛い。 ――どうしてだろう…。 「どうした?何か俺の顔についているだろうか」 じっと見つめてしまっていたことにさくらはやや狼狽して首を横に振った。 「何か食べるものを持って来よう。そなたは五日も寝ていたからな。少し無理してでも食べた方がいい」 そう言って翔流は部屋を出て行く。 凛と背筋が伸びた翔流の後姿を見つめているさくらの脳裏に、幼馴染の顔が浮かびそうで形になる前に沈んでいく。 どうしてちゃんと思い出せないのかと頭の片隅で気になる違和感を感じながらも、さくらは再び眠りの中に誘われていくのだった。 |