翔流の小屋で目覚めてから数日。 未だ傷が痛み寝たきりの生活をしているさくらだが、翔流が付きりで看病してくれている。 だが、質素すぎる食べ物や変なデザインの着物など、日が経てば経つほどに違和感が強くなっていく。 必ず珠羽の家に送り届けてやろう――。 翔流はそう言ってくれたが、珠羽領に自分の家はあるのだろうか。 喚びかけに応えろとの声が聞こえ、応えてしまったあの日、強い力に引かれて目に見えない何かを飛び越えた感覚があった。 あの時から起こった出来事は理解の範疇を越えている。 脚を斬られたのも自分を襲った男たちが言っていたことも、ここが“珠羽村”ならありえない。武将も城も“珠羽村”ならあるはずもない。あんな男たちが徘徊しているのも、武将や城があるのも、ここが松風“領”だからだ。 声に応えてしまったからなのか。応えなければ、こんなことにはならなかったのか。 どうしたらいいのだろう。 「さくら、何か心配事があるような顔をしているな。欲しいものがあれば遠慮せず言え」 さくらが不安になると、口に出さなくてもいつも翔流に伝わってしまう。そんな時、翔流はさくらを気遣う言葉をくれるのだ。 「……ありがとう」 何もかも分からないけれど、何が起きているのかを知らなければ解決することもできないから――。 「翔流にお願いがあるの…」 さくらは小さく呟いた。 なんだ、と返された声がとても優しかったから、それが次の言葉を出す勇気になった。 「私に、外の様子を見せて」 「だが、そなたはまだ動けんだろう」 「私を抱いて外に連れて行って。重いかもしれないけど…、お願い」 さくらの言い方に、翔流はふっと笑った。 「……そなたは少しも重くはなかったぞ。分かった」 翔流はさくらをそっと抱き上げる。 さくらは翔流の首に両腕を回し、ふたりの顔が触れ合う寸前にまで近づいた。 どきん、とさくらの胸が跳ねたのは、近づいた翔流の顔がよく知っている幼馴染に似てると思ったからだ。 「そ…、」 だが、その名を口に出そうとして、さくらは愕然とした。 思い出せない――? 幼馴染の名前を呼べない。 自分には確かに幼馴染がいたはずなのに、名前だけではなく、顔もはっきりと思い出せない。これまでも、思い出そうとすると沈んでしまうことが気になっていた。 「どうしたのだ?」 優しく問いかけてくる翔流の顔がそのまま幼馴染の顔だったような錯覚に陥り、さくらは激しく首を振った。 村のことも大学の友達の顔も思い出せる。なのに幼馴染だけが記憶の中からすっぽりと抜け落ちてしまっている。 ――どうして? 「さくら?」 「な、なんでもないの…」 「ならば外へ出るが、いいか?」 「うん…」 もう一度思い出そうとして、やっぱり何も思い出せないことに茫然とするさくらは、扉の外に出てさらに愕然とした。 ありえない。 けれど予想していた通りの風景が広がっている。 「……翔流。珠羽には送ってくれなくても…いい」 ぼんやりと外の景色を見つめながらさくらはつぶやいた。 「なぜだ?そなたの家は珠羽にあるのだろう?」 「私…、記憶が曖昧で…。家は珠羽にあると思っていたけれど、そうじゃないことを思い出したの」 「ならば、そなたの家はどこにあるのだ?」 さくらはふるふると首を横に振った。 「家は…ない…。なくなっちゃった…」 「なくなった…?」 家は、この世界のどこにもない。 家だけじゃなく、父も母も友達も幼馴染もここには存在していない。なぜなら、ここは、さくらがいた時代とは違うから。さくらが生まれるずっとずっと前の世界だから。 簡素な小屋が立ち並んだ集落。 翔流と同じような着物を着て歩いている人たち。 電柱やコンクリートが一切ない道。 こんな場所、今の時代のどこを探したってない。百年や二百年ではきかない、ここは数百年、もしかしたら千年以上過去の世界だ。 さくらの瞳からはらはらと涙が零れ落ちた。 さくらの時代には居たはずの大好きだった人、大切だった人が存在していないということは、失ってしまったことと同じ。さくらだけが生きていて、他のみんなはこの世のどこにもいない。 「さくら…?!」 「ごめ…んなさい…」 どうしてこんなところに来てしまったのだろう。声に呼ばれてたった一瞬、何かを飛び越えただけだったのに。 あんな酷い目に遭って。 歩けなくなって。 いったい誰が喚んだの? 声の人は誰なの? ここに来た意味ってなんなの? どうしたら還れるの? それとも、もう還れないの? 怖い。怖い。怖い。 泣いたところでどうなるものでもないのに、怖くて悲しくて涙が止まらない。 「ごめんなさい…」 「いや。泣きたいだけ泣けばいい。そなたには、辛いことが起こりすぎたようだ」 「うぅ…っ。翔流はどうして…」 そんなに優しいの…? 翔流にぎゅっとしがみつき、さくらは声を殺して泣く。今、この世で頼れるのは翔流だけ。 「さくら…」 かつて守りたくて守れなかった姫に似たさくらを自分が助けたのも運命なのだろうか。 翔流は震えているさくらの髪にそっと己の頬を摺り寄せ、抱く腕にほんの少しだけ力を込めた。 |