陽の光が届かない地下の神殿は昼間でも昏い。さくらは庭の桜の木からまっすぐにここへ下りてきた。 「疾風…っ」 神殿の中は静まり返り人の気配もない。 だが、見つけた。魔法陣の上に倒れている人を。 「疾風!!」 駆け寄ろうとしたさくらだったが、足はまだ咄嗟の踏み出しに慣れていない。途端にもつれて転びそうになったがそれはなんとか踏みとどまり、だが気持ちは急いたままさくらは転がるようにして魔法陣へと向かった。 「疾風…!」 うつ伏せに倒れている疾風を抱き起こすと、蒼白な顔、その口元が真紅に染まっている。魔法陣の上に疾風が吐いたと思われる決して少なくはない血溜まりがあった。疾風の命数はまもなく尽きる、と言った神官の言葉を思い出してさくらは激しく首を横に振った。 まだダメ。 まだ疾風を連れて行かないで。 もう少し、待って!! 「疾風、疾風!しっかりして、疾風!」 疾風の頬を手で叩きながら体を揺らし、気付けを試みるが固く閉じられた目は漆黒の瞳を見せてくれない。 「疾風、お願い。目を開けて…!」 さくらは涙をはらはら零しながら、必死になって疾風を呼び続ける。その滴が疾風の瞼の上にぽたぽた落ちた。 滴の温かさが疾風の意識に触れたのか、やがてゆっくりと閉じられていた瞼が開いた。 「疾風…!」 「………姫?」 疾風は涙に濡れたさくらの瞳に手を伸ばした。 「なぜ、そんなに泣いている…?」 「だって…」 「ああそうか…。そなたの大事な翔流が…死んでしまったからだな…」 疾風はふっと目を閉じ、そのまま力を失う。さくらは疾風の意識を沈めないよう、必死に揺らした。 「しっかりして疾風!私は、あなたを探してここに来たの!あなたが血を吐いて倒れていたから…!」 「………俺が、血を吐いて……?」 疾風は再び目を開け、力を失っていた瞳が少しずつ生気を取り戻す。 しばらくしてやっと、疾風は自分が魔法陣の上で血を吐き倒れ、さくらに抱きかかえられている自分の状態に気が付いたのだ。 「そうか…。俺は捧げの後に…」 疾風はゆっくり体を起こし、さくらの顔をまじまじと見つめた。 「だが、そなたはなぜここへ来た。翔流が死んで、塔の部屋にこもって泣いていたのではないのか…」 「言ったでしょう。疾風を探して来たの」 「なぜ、俺を…?」 口元に垂れる血を手の甲で拭いながら、疾風は自分が吐いた血溜まりに視線を投げた。 「そなたが俺を探す理由など、あるはずがない…」 「あるわ。捧げを止めさせるために探していたのよ」 「……そなたが、捧げを止めさせるだと?」 疾風は可笑しそうに、吐き捨てるように言った。 「疾風が毎日やっている捧げの術がどんなものか知ってるわ。それが疾風に及ぼす“弊害”も」 「……ならば、止めるわけにはいかないことも分かるだろう。俺に出る“弊害”など、捧げの効果に比べれば大したことではない」 「いいえ。捧げは止めなきゃダメ」 「………」 キッパリと言い切るさくらを疾風は忌々しそうに睨みつけた。 「これまで捧げの術を止めてくれと俺に訴える者たちは何人かいたが、やめろと言い切った者はいなかった。そなたがそれほどまでに言う理由を聞かせろ」 「理由はいくつかあるわ。まずひとつは、術の行使には限界があるからよ」 「………なるほど」 疾風が捧げの行使が出来なくなったとき、術の効果はたちまち切れる。 「すなわち、その場しのぎの安穏だと、そなたは言いたいのだな」 「そうは言わない。一時的でも人が豊かに暮らせるなら術の意味はあるのだと思う。でも、一時的な豊かさと引き換えに疾風のすべてを捧げなければいけないなんて、そんなのは理不尽すぎる。不公平よ!」 「…公平不公平の問題ではない…」 「問題よ!私の生まれた時代では、人は誰しも平等なんだもの!」 いい?とさくらは疾風に詰め寄った。 「未来はそういう世界になるの。その礎になるのは過去なのよ」 「……」 「何を莫迦なこと言ってるんだ、みたいな顔しないで!」 「……していない。続きを話せ」 上手く話せていないのは分かっている。そして、確かに疾風は呆れた顔をしていた。だが、さくらはさくらの言葉で想いを叩きつけるだけだ。 「………捧げで疾風のすべてが犠牲になって、疾風が病気になって、疾風が死んでしまったら、捧げはできなくなって人々はまた苦しみの中に落ちる。その時に領主が、疾風がいなかったら領民たちは路頭に迷うわ!」 「……」 「領主は領民を守るのが使命なんでしょ?!だったら、疾風を天に捧げるわけにはいかないのよ!だから、豊かになるなら疾風も一緒じゃないとダメなの。そうじゃない捧げは止めなきゃダメなの」 「……なかなか面白い屁理屈を言う」 「屁理屈でもなんでもいいわ!私は道理に外れたことは言ってない」 そうだな…、と疾風は笑った。 「だがもう手遅れだ。俺には余命がない。どのみち捧げはできなくなり民は困窮する。ならば、せめて命があるうちは…」 「そんなの絶対にダメ!」 さくらは疾風の両腕をがつりと掴んだ。 「姫…」 「余命がないなら、その命を民たちが捧げがなくても生きていけるよう、考える時間に当てて!他国の脅威だってあるのよ?今、疾風の余命を捧げるわけにはいかない!少しでも命を延ばすのは領主の責任だと思う!」 「……っ!!」 疾風は目を見開いてさくらを見つめた。 「水害がひどいなら堰を築く。落雷の被害を抑えるために住む場所や建物の建て方を工夫する。作物が育たないなら雨風にも耐える品種に改良したり…」 人は、自分たちの暮らしを守るために、そういう工夫や努力をして強くなっていく。 「私と翔流がいた東の集落の人たちは、みんなで助け合う優しい人たちばかりだったわ。他の集落の人だってきっとそうだと思う。みんなで協力して努力して豊かになっていくと思う。人は――」 ――人は、必要に迫られると思いもよらない名案を思い付いたり力が出たりするものだ。 いつか翔流がそう言っていた。 「人は…、その力を持っていると思う。でも、領民が力を出す為には民を大切にする、疾風のような領主が必要なのよ!」 疾風ひとりの犠牲で手に入る豊かさなんてない。そんな不公平は豊かとはいえない。 「もうひとつの理由は、疾風にも幸せになって欲しいからよ…」 「姫……」 「民のためにすべて捧げてひとりで一番辛い思いをした疾風は、本当は一番幸せにならなきゃいけないのよ」 「………それは無理だ」 捧げの対価に咎の報い。疾風の命運はもう、魂の欠片まで尽きる定めが決まっている。 「諦めないで…。少しでもいいから疾風が感じる幸せを探して」 「………俺が感じる…、」 疾風はゆるゆるとさくらを見つめた。 「諦めないで…」 さくらはもう一度同じ言葉を声にする。 「領民の幸せを願うなら捧げは止めなきゃだめよ。そして疾風も幸せにならないと…ダメ!」 渾身の想いを込めて話し終え、肩で小さく息をするさくら。半ば呆然となってさくらの話を聞いていた疾風は、やがて、ふっと笑った。 「……術はもう、不要なものなのだな…」 「疾風……っ」 「15の時から俺がしてきたことは…、結局無駄なことだったのか。俺はただ己の命も願いも、そして楓も…無駄に捧げただけだったのか」 「疾風…」 さくらが言ったことは15才の時からの疾風を全部否定してしまうような言葉だ。きっと、疾風を傷つけた。深く、深く傷つけてしまった。 それでも。 「無駄なことなんてない。疾風が領民を想う気持ちは本当だもの。でも、だからこそそんな疾風を領民だって失えないのよ。生きていてほしいの。疾風に!」 「……そなたもか」 「あたりまえよ!」 疾風の漆黒の瞳がさくらの目を見つめる。 「そなたの目は、偽りのない綺麗な瞳だな」 「……疾風」 「姫の話はよく分かった。少し、考えることにしよう…」 疾風はゆっくりと立ち上がった。 「疾風、大丈夫なの!?」 「ああ…。そなたも塔の部屋へ戻るがいい」 大量の血を吐いた人とは思えない、しっかりとした足取りで疾風は神殿を去っていく。背筋を伸ばし堂々と歩く後姿で揺れる稲妻のような銀髪が、さくらにはもの悲しく見えて仕方がなかった。 |