『これが松葉杖か』 『ほんとはここがもっとまっすぐで、持ち手のところももっとこうしっかりしてて…。筆じゃうまく描けないわ…』 『いや。この図でよく分かった。この横木で体を支えるのだな』 『そうよ。脇の下にこれを入れて、体を支えるの』 『ということはこの箇所の強度が必要だな…』 『作れるの?』 『任せておけ。これでも手作業は得意だ』 翔流。 『上手いものだな、さくら』 『翔流が作ってくれたこの杖が優秀だからよ』 翔流。 『……だが、ひとつだけ希うことを許されるなら、今少し、このままでいてくれないか』 翔流、翔流。 『口吻とは神聖な触れ合いだからだ。愛しいと思う相手にしかできぬ触れ合いだからだ』 翔流、翔流、翔流。 『その痛みはさくらが俺のものだという、せめてもの印』 翔流、翔流、翔流…、 「かける……っ」 空が緋色に萌えている。 西の最果てに建つ塔の部屋、その窓の外で今太陽が水平線の下にと沈んでいこうとしていた。 たった今、塔のこの部屋に来た疾風は、傍に控えていた朔夜に今日はもう下がっていいと申し付け、寝台の傍に立った。 体を丸めるようにして横たわりさくらは泣いている。何度も翔流の名を呼びながら、涙を流して眠っているのだ。 さくらがこの部屋に来た夜から数日が経つ。最初の夜からその間、疾風がここを訪れることはなかった。先の世から無理やり召喚しここへ捕らえて無体を強い、ただ絶望だけを与えてしまったさくらに、せめて心の整理はさせてやらねば哀れとあえて会わずに日を流したのだ。 だが、傍につけて世話をさせている朔夜から聞く報告は毎日同じ。 さくらは食事も満足に摂らず、ほとんど口も利かず、夢の中に引きこもって泣いている、と。今も卓の上には運ばせた食事の膳が手つかずのまま置いてあるから、今日もただただ絶望の中で眠りに落ちてしまったのだろう。そして、翔流を呼び続けているのだ。 なんと忌まわしい報いだろうか。 初めから手に入らぬ心だとは知っていても、それほどまでに翔流に焦がれる楓の魂が憎らしい。 「だが今すべきことは、この娘に食事をさせることだな…」 さすがにこれ以上飲まず食わずでいれば危険だ。この娘は決して死なせるわけにはいかない。 「起きるのだ」 疾風はさくらの濡れた頬に触れ、涙の雫を丁寧に指でぬぐう。そしてもう一度、目覚めよ、と声をかけた。 すると、さくらの瞼が重そうにゆっくりと持ち上がり、そして――。 「………!!」 その瞳が疾風を捉えた瞬間、さくらの眼は絶望と恐怖、そして憎しみにあふれて見開かれた。身は固く強張り、全身全霊で拒絶する意志が如実に態度に表れる。 「……食事をしろ」 疾風は冷徹に一言だけを言った。 「いらない……」 「いる、いらないは関係ない。俺は、しろ、と命じているのだ」 「あなたの命令になんて従わない」 「……どこまでも強情な娘よ」 疾風はさくらを寝台から抱きあげ、そのまま卓へと連れて行く。 「いや…!」 もちろんさくらは暴れるが体力が著しく落ちているためまるで抗いになどならず、簡単に卓まで連れてこられてしまった。 「どうして、松葉杖を捨てたの!?」 疾風に抱かれたままさくらは叫んだ。 「必要ないからだ」 疾風は冷静に一言で返す。 「あなたが決めないで!あの杖は私にとって必要だったわ!」 「あれがなければ動けぬからか」 それだけじゃない。もっと大切な理由がある。だが、それを疾風に言って、良いことなどひとつもないことをさくらはもう知っている。 「――そうよ!」 「………だから捨てたのだ。そなたが逃げ出せぬようにな」 「な……っ!?」 「そなたは囚われの姫。杖はもう不要だ」 「………私の足を治してくれるつもりなんて、最初からなかったのね…」 「………」 疾風はさくらを膝の上に横抱きしたまま椅子に座る。 「……鬼!!」 そして、膳から適当なものを取ってさくらの口に持って行く。だが、さくらは固く口を一文字に結んだ。 「口を開けろ」 首を振って拒否するさくらは、もう一切口を開けようとしない。 疾風はさくらの頬を親指と人差し指でつかみ、無理やりに口をこじ開けさせ食物を押し込んだ。噛まずに吐き出そうとする口を、今度は閉じさせて噛ませる。それを何度か繰り返すと、さくらはひどくむせて咳込んだ。 「水だ。飲め」 水差しの先を唇に押し付ければ、やはりさくらは頑なに口を結ぶ。 「……」 疾風は浅いため息をひとつ吐き、水差しの水を自分の口に含んだ。そしてさくらの顔を上に向かせ強引に口移しをすれば、不意の唇同士の接触に戸惑ったさくらがほんの少し唇に隙間を作った。すかさず疾風はその隙間に水を流し込む。 「んん…!!」 それは単に水を口から口へ移動するだけの行為だったが、さくらは過剰に反応し疾風を強く押し返した。 そして疾風が触れた唇をぬぐい、今与えた水分がそのまま涙になってしまったような大粒の滴をぽろぽろと零す。 「………それほどにいやなら自分で飲め」 疾風の声が地の底よりも低く冷徹に響く。 さくらは疾風の手から水差しを奪い取り、同じことをされないために中身をすべてあおった。 ただ水を飲まされただけ。 だがさくらにとっては翔流以外の唇が唇に触れたことにひどく傷ついたのだ。 口吻とは神聖な触れ合い。愛しいと思う相手にしかできない触れ合い。 翔流と交わした口吻はさくらにとって何よりも神聖で綺麗な触れ合いだった。 翔流が求めてくれ、さくらも翔流を求め、愛しい想いを伝え合うために深く深く繋がり合ったこの唇だけは穢されたくない。何もかも奪われてしまったさくらが、唯一翔流の存在に抱きしめられるのがこの唇に残るあの夜の感触なのだ。 だが。 そんなさくらの想いは、分かりやすく態度に現れてしまっていた。 「なるほど…。その唇は翔流がそなたと交わった唯一の場所なのだな」 「……っ」 さくらが必死になって守りたいものは全力で奪いたくなる。それが翔流との絆を守っているものならなおさらめちゃくちゃに壊してやりたくなる。翔流が作ったという松葉杖も、この唇も。 膝の上に抱いているさくらの顔を両手でつかんで上に向かせた疾風は淡々と覆いかぶさるようにして唇を奪った。 「んんーーーッ!!」 首を振り、両手で疾風の腕を掴んで疾風の唇から逃れようとするさくらだが、顔を挟むように掴まれ強く唇を押し付ける疾風を振りほどけない。 「ん…っ!!」 抵抗するさくらをがつりと押さえつけ、強引に唇を貪ったあと、疾風はようやくさくらを解放した。 「…っは、はぁっ…、はぁ…っ!」 弱っているところに長時間酸素供給を断たれていたさくらは、肩を揺らすほどの荒い息をしながら叫んだ。 「ひ…、人でなし!」 だが疾風は冷徹に、その通りだと肯定しながらさくらを寝台に運んで押し倒した。 「人でなしはこうする」 さくらの上に馬乗りにまたがった疾風は再び唇を奪う。 「んっ!」 涙を流しながら抵抗するさくらの両手を左手だけで押さえつけ、唇を動かしながら何度も奪う。 「最低!!」 「ああ」 「悪魔!!」 「そうだ」 酸素を取り込む一瞬にさくらが叫んで疾風は肯定する。 「鬼人でなし最低悪魔…、そなたが吐く罵倒の言葉、初めからすべて受け入れている。その上でそなたを奪っているのだ」 そしてまた唇を押し付けて逃げ惑う舌を追いかけ捕まえて絡ませ、さくらの声も息も唾液もすべて奪う。 荒々しく口内を蹂躙する疾風の舌に翔流の感触が消されていく。 優しく与え合った口吻も翔流が囁いてくれた言葉も執拗に絡み深くかき回す疾風が奪っていく。 ただ奪われるだけ。 さくらと呼んでくれる声もなく、囁く愛の言葉もない。 ――翔流…、翔流…! 翔流を想いとめどなく頬を伝い流れる涙と、奪うために絡み合う唇から零れる唾液が混ざり合い、激しいくちづけがぴちゃぴちゃ卑猥な音を鳴らした。その淫らな音に罪悪感が押し寄せ、絶望の上に絶望が重なる。 ――翔流…。私、もう何もなくなっちゃったよ…。 涙だけは絶えることなく流れる。 「………」 一切の抵抗をやめ、力が抜けたさくらの躰。 唇を放した疾風はその儚い躰を抱き起して言った。 「哀れな娘よ…。そなたの恋い慕う翔流もまた楓を愛していたのだ」 「……」 知っている。 翔流があきづきの水風船を見せてあげたのは楓姫だということを。その楓姫は翔流の婚約者だったということも。 「だから、何だっていうの…」 「分からぬのか。そなたは楓の身代わりだったということだ」 さくらの肩がびくりと跳ねた。 「身代わり…?」 「あれは幼いころから楓に夢中だった。やっと婚約するにまで至った楓が自害したのだ。あやつは自分を責め引き裂かれた心には生涯消えぬ疵が残っている。そんな時に楓に瓜二つのそなたに出逢えばどうだ」 「……っ」 「そなたを亡き楓の代わりに愛すだろう。翔流にその自覚がなくともな」 「……あなたが、楓姫にひどい仕打ちをしたから楓姫は自害してしまったんでしょ!?楓姫は翔流のことが好きだったのに、あなたが…!」 今とまるで同じだ。楓姫も自分と同じ思いをしたのだろう。想いは翔流にあるのに躰を疾風に奪われ絶望して、その絶望にとらわれすぎて身投げをしてしまった。 「そうだな…。だが翔流はそうとは知らず楓の死を己の責とした」 「翔流はそういう人よ…!」 どこまでも誠実で優しいから、楓姫の自害を自分のせいだと考えたに決まっている。翔流のことだから、愛する楓姫のことを守りたいと思っていただろうに、それが出来なくて自分を責めて――、 「…だから翔流は死に急ぐような無謀を繰り返していたんだ…」 今、翔流の傷痕に触れ、時折痛そうな顔をしていた翔流を思い出してさくらの胸に切ない塊がこみ上げた。 「身代わりとも知らず翔流に想いを傾けるそなたは、やはり楓の魂を受け継ぐ者…」 「何度言ったらわかるの?私は楓姫じゃない…!私は私として翔流を愛しているの…っ」 「だが翔流は違うだろう。そなたをそなたとして愛してはいまい」 疾風の言葉はこれまでの何よりもさくらの心をえぐる。 「………っ」 だがさくらはこみ上げるものを今は必死に呑みこんだ。この言葉でだけは泣きたくなかった。 疾風の言うとおり、翔流が自分に楓姫の面影を重ねているのだとしても、翔流を愛する気持ちは楓姫など関係ない自分だけのものだ。 悪魔に喚ばれ、賊に辱められ、身も心も死にかけていた自分を身だけでなく心までも救ってくれたのは翔流の優しさと存在そのものだ。この気持ちは自然と育ったさくらだけのもの。 ――だから…。 「そんな言葉に傷ついたりはしない…っ」 さくら、と名を呼んでくれた翔流の声。 優しく抱きしめてくれた翔流の温もり。 無理に奪わないでいてくれた翔流の想い。 それは、嘘じゃない。 疾風に何もかも奪われたと思ったが、一番大切なものは誰にも奪うことなどできない場所に残っていたことをさくらは知った。 「健気だな…」 疾風は忌々しそうにつぶやいてさくらの唇を奪う。深く、何度も何度も。 「だが、奪うものが尽きたなら、後は与えてゆくだけだ」 「……!?」 疾風は再び寝台に押し倒したさくらの頬を指でスーッとなぞり、冷徹に囁いた。 「今から与えてやろう。そなたが悪魔にすがり啼くまでな…」 その躰に快楽という、淫らな悦びを。 |