嵐が止んだ朝。 扉を叩く音と姫様失礼しますの声にさくらは重たいまぶたをゆっくりと持ち上げた。 昨日の朝まで目覚めて一番最初に見ていた優しい顔がここにはなく、代わりに寝台の天井から床まで届いている真っ白な薄布が目に入った。 「…………っ」 昨夜のことを夢だったなんて甘いことは思わない。 あれは現実。 疾風に囚われこの身を奪われた。 ――そなたはもう、俺に捕まったのだ。 さくらは自分の体をぎゅっと抱きしめて身を丸くする。嵐が止んで朝が来てもこの絶望からは抜け出せない。 「失礼します、姫様」 再び寝台のすぐ傍から声をかけられたが、さくらは毛布を頭から被ったまま応えなかった。 「わが主、疾風様から姫様の身の回りのお世話をするすよう申しつかりました朔夜です。本日より姫様のお傍にてお仕えさせていただきます」 声の主はさくらの態度を気にする様子もなく、優しい中にも毅然とした声色で言う。 「お望みのことがあれば何なりとお申し付けください」 「だったら…翔流に会わせて…」 さくらは毛布をかぶったままぽつりと言った。 だが、 「それはできません」 予想通りの言葉が返ってくる。 「……なら望むことなんてない。出て行って」 「翔流様は今朝早く北に発たれましたので、会わせて差し上げることができません」 「…!」 さくらは思わず毛布の中から顔を出した。すると朔夜と名乗った者が、おはようございます、と頭を垂れる。黒髪をまとめ身軽な衣装を着けた朔夜は、侍女というよりは武人に近い印象の、さくらよりも少し年上の女だった。 「北って…、翔流は戦に行ってしまったの…?」 「はい。軍を率いて北の戦場へ発たれました」 「攻防戦が繰り広げられているという…?」 「我が領内に攻め込んできた敵軍を撃退するため国境では激しい戦となってます」 「翔流…っ」 戦国映画での戦しか見たことがないさくらには本当の戦を想像することもできないが、翔流が危険の最前線に行ってしまったことは確かだ。 別れ際の翔流の笑顔がさくらの脳裏に浮かんだ。どこか切なげに、それでもいつものように優しく笑ってくれた顔を思い出して、さくらの胸は様々な感情が複雑に入り乱れる。 「翔流…!」 「姫様がご心配されるのはもっともですが翔流様は松風一の武将です。それに翔流様の軍は我が国の精鋭が揃っています」 「……だから大丈夫だっていうの?そんなの分からないじゃない…!いいえ、そういうことじゃなくて…、疾風、ひどい…!」 武将が戦に行くのは当たり前なのかもしれない。翔流もそう言っていた。 だが。 「…この国の領主は最低だわ…!」 実の弟を危険の最前線にさらし、自分は矢の届かない安全な場所で弟と想いを通わせている…、翔流を愛している…、 ――私を、無理やり奪った…! 昨夜起こったすべてのことが心と体に蘇り絶望の底が深くなる。翔流が知ったら、なんと言うだろう。翔流を受け入れなかった躰が、犯されたとはいえ疾風を受け入れてしまったと、翔流が知ったら――。 もう、翔流のお嫁さんにはなれない…。 疾風に捕まり、塔のてっぺんに閉じ込められてしまった今はもう、昨日、部屋を出ていく翔流の笑顔を見た時とは何もかも変わってしまったのだ。 さくらはもう一度毛布をかぶろうとするが、朔夜がそれをやんわりと阻止して言った。 「お召替えをさせていただきます」 「いいわそんなの。しかもそんなキラキラしたお姫様みたいな着物、着たくない」 「いけません。姫様をいつまでも夜着のままにしておくと後で私が疾風様に叱られます」 「私は姫様なんかじゃないわ。ただのさくらよ…!」 だが、それでも朔夜はさくらを姫様と呼びながら寝台に横たわったままのさくらを抱き起し、夜着を肩から脱がせ始めた。 「疾風様は国と民を想う立派な領主様ですよ」 「信じられない。あの人は自分の欲望を満たすことしか考えていない…!」 欲望と執着だけでさくらをこの時代に召喚した恐ろしい術士だ。 「いいえ…。疾風様は昔から民のことを一番に考えておられます」 「嘘だわ。立派な領主だというなら疾風が戦に出ればいい。得意の術で敵を蹴散らせばいい…!」 「戦には武将と兵士が赴くもの。それに疾風様のささげがあるから松風の民は豊かに暮らせているのです。今も疾風様は独りささげをしておられます」 「ささげ?なにそれ」 「領主様…、いえ疾風様の勤めです…」 そう言った後、朔夜は脱がせたさくらの夜着を手にしたままふいに固まった。 「………」 朔夜が凍結した理由が、自分の躰に無数に咲いた朱い痕のせいだと理解したさくらは、 「……これ、全部疾風がやったの…。これでも立派な領主なの?」 冷やかに言い放った。拒んで泣き叫ぶさくらを押さえつけ、無理やりに犯した冷酷な領主だとの意味を言葉の裏に込めて。 朔夜はしばらくさくらの体に見入っていたが、やがて絹地で仕立てられた緋色の着物を被せながら言った。 「疾風様は女人と交わりません…」 「は?」 この期に及んで何を言っているのだろう、とさくらは呆れた。 「私が嘘を言っていると思ってるのね…」 「そういう意味ではありません。後宮には疾風様の慰めになりたいと、自ら身を捧げんと城に上がった良家の娘たちが幾人もいます。ですが――」 疾風は一度も彼女らのもとに渡ったことがない、と朔夜は言う。 「女人たちがどれほど渡りを希っても、疾風様は一切手を出そうとなさりません。その疾風様が本当に姫様の肌にこの痕を残したというなら…、」 疾風様は姫様をよほど愛しく思われているのでしょう――と、朔夜はつぶやいた。 「違うわ…!」 疾風が愛しているのは自分ではなく楓姫。死んでしまった楓姫に執着し、楓姫の代わりにするために、自分を千年も先の時代から無理やりここへ連れてきて、そして何もかもを奪った悪魔だ。 「私は…、」 楓姫じゃないのに……!! さくらは唇をきゅっとかみしめる。 さあできました、と朔夜が最後に金色の帯を締めてさくらの召し替えが終わった。 「次は髪を結いますからこちらへ」 朔夜は寝台から三面鏡までの数歩をさくらの体を支えながら歩こうとする。だが、さくらはその手を払って言った。 「私の松葉杖を返して。杖があれば手を借りなくても歩けるわ」 昨夜はずっと翔流が抱いて移動してくれていたから杖はこの部屋に持ってきていない。だが、城のどこかにはあるはずだ。 「松葉杖とは、もしや二組の杖ですか?」 「そう。それよ!」 翔流が作ってくれたとても優秀な松葉杖だ。さくらの体にぴったりで、どのように体重をかけてもしっかりと支えてくれる杖。 「…申し訳ありません。その松葉杖とやらは、先ほど疾風様に申し付けられて処分してしまいました」 ―――え? さくらは一瞬、声を出すこともできずに朔夜を見た。 「……処分……て?」 「言葉のとおり、疾風様がこれはもう不要だとおっしゃるので私が焼却場に投棄してしまったのです」 「そんな…、酷い!!」 「申し訳ありません。支えなら私が代わりに努めます」 「…!!」 翔流が作ってくれたあの松葉杖は、動くための支え、それだけじゃない。形も大きさも強さも、さくらの体に合うように、さくらが安全に使えるように、翔流が心を配って作ってくれた優しさの塊だったのだ。 それを、不要だと。 焼却場へ投棄してしまったと。 「酷い酷い…!」 「姫様…」 「あなたの支えなんていらない!もう出て行って!」 「ですが…」 「いいから出て行って!!」 さくらは寝台にうつぶせてさめざめと泣いた。 思い出されるのは、松葉杖が欲しいと翔流に願った時のこと。口で上手く説明できないさくらに筆と紙を持たせて図を描くようにと翔流は言った。翔流はさくらが描いた下手な図を参考にして、試行錯誤を繰り返しながらあの杖を作ってくれた。翔流が作ってくれたその杖で、さくらは翔流のために何かできるよう、ひとりで動けるように必死で練習した。 『上手いものだな、さくら』 『翔流が作ってくれたこの杖が優秀だからよ』 翔流がくれた優しさも、ふたりで作った思い出も疾風に踏みにじられて捨てられてしまった。 ――許せない、許せない、許せない!! 自分から何もかもを奪う疾風が憎い。こんなにも人を憎いと思ったのは初めてだ。 「……今は、失礼します」 朔夜は静かに部屋を後にする。 悲しみに打ちひしがれるさくらは、泣くことしかできないことが悔しくて仕方ない。 それでも、ただただ泣き続けるしかできなかった。 |