▼ 55 ドキドキな状況
人格交代のルールを決めてから何日か経過した。今のところ問題はなく、誰も不満を持つことなく過ごせている。
平日のある朝、俺は兄の部屋の前にいた。
「兄ちゃん、お母さんがご飯出来たって。もう着替えた?」
「ああ。入っていいぞ、ユータ」
ドアを開けると、逞しい上半身裸の兄が振り向いた。下はぴちっとしたボクサーパンツで長い手足がむき出しだ。
「いや着替えてないじゃん! なんで裸なんだよっ」
「……むっ。これでいいではないか。あいつの服は全てが肌にまとわりついて窮屈なのだ。とくにズボンというやつ、動きにくい上に着脱が面倒くさい」
ケージャが文句たらたらで腕を組む。俺は理解しながらも常夏の島じゃないんだからと、きちんと兄の首にTシャツをくぐらせ下も履いてもらった。
朝起きた時は兄だったが、今日はバイト関係で1日忙しいため、朝をケージャ担当にしている。ちょうど母も一緒に食事が取れる日なので、いい考えだと思ったのだ。
碧の腕輪を揺らし、俺は兄とリビングに向かった。すると食卓にはすでに色とりどりのおかずが並び、笑顔の母が台所から土鍋と味噌汁を運んできた。
「おはようー、二人とも。さあさあ座って」
「おはよう、母上。なんとも豪勢な食事でうまそうだ。ありがたい」
「ほんとだよ、どうしたのお母さん。今日誰かの誕生日?」
「ふふっ違うわよ。初めてケーちゃんにも食べてもらうから気合い入っちゃった。次からは普通だからね」
長い髪を束ねた母が笑ってウインクをし、席につく。
俺達も真向かいに並んで座り、朝から鯛めしと蟹の味噌汁を堪能した。
「う、うますぎる。最高の味だ。さすがユータの……いや、俺達の母上だな」
「うん! おいしー!」
ぱくぱくと興奮し初めての母の手料理を味わうケージャを見ていると、俺まで幸せな気分になった。
ああ、この兄も一緒に家で過ごす時間が出来たのは本当に嬉しいなぁ。
「よかったわ〜。おかわりもあるからね。私もいつもは仕事で中々朝一緒に取れないから、たまにはこうして作ってあげるわよ。三人にねっ。あ、お父さん忘れちゃった」
冗談めかす母に皆が和やかに笑う。父は今日仕事で県外に行っているが、また揃える日も近いだろう。
「それにしても、一日一時間だけだなんて。平気なのケーちゃん。ちょっとあの子ケチじゃない?」
「いや、大丈夫なのだ。俺はケイジには感謝している。こうして家族の皆と接することが出来るのは、奴のおかげだ。気にしないでくれ、母上」
大人びた微笑みを見せ頷く兄に、母もどきっとした表情で納得をした。皆が驚くのも分かる。根本の性格は変わらないのだが、この兄は本当の兄よりも落ち着いていて少し年上に見えるほどだ。
にしてもケージャのやつ、かなり聞き分けがよくなっている。
我慢なんてしてないといいけど。
なんにせよ、俺は兄二人をどんな時も支えていくと、胸に誓ったのだった。
食事のあと、母は早速出勤をし、まだ夏休みの俺達は揃って見送った。時間はちょうどあと10分ぐらいだ。
別に兄もそこまで厳しくはしてないため、二人とも精神的にも余裕をもって過ごせていた。
「ねえ、ケージャのしたいこと少しずつやってこうね。時間はこれから一生あるんだし」
「ああ。楽しみだな、ユータ。俺は本当に幸せ者だ」
ここに来てからのように何度も感謝を口にし、俺の髪を優しく撫でる。口にちゅっとキスをしてから、穏やかな笑みのまま抱きしめられた。
俺も兄二人分の愛情をこんなに受け取っていいのか?と思うほど、リラックスし幸福を味わっていた。
それから兄の部屋に移動し、ケージャにはベッドに横たわってもらった。なんだかお休みをするみたいで見た目は変かもしれないが、大人しく言うことを聞いてくれている。
「ふむ。ではまた明後日だな。良い子にしているのだぞ、俺の奥さん」
「うん、おやすみーーって、え? なにそれ、どこで覚えたんだよそんな言葉っ」
「駄目か? 妻よりも可愛いらしいと思ったのだが」
無邪気に言い放つ兄に力が抜けながらも、強く否定は出来ず二人だけの時ならいいかと許した。
それに響きはともかく、まだ俺のことそんな風に思ってくれてるんだと、本当はちょっぴり嬉しく感じた。最初はあれだけ拒否ってたのだが。
俺からも愛情をこめて頬にちゅっとやり、名残惜しく挨拶をして静かに部屋を出た。
自室に帰り、腕輪をそっと外す。
俺は兄の人格交代のとき、こうした対応を取っていた。なんとなく、兄も目覚めた時俺といるよりいいんじゃないかと思ったのだ。
そういえば、交代に関しては気になることがあった。
島にいた頃は二人とも、眠っている間ほぼ時間の経過を感じていなかったようだった。
例えば本人からしてみれば、起きたとき違う場所にいきなりワープするような感覚だ。
俺も今回それを懸念した。ケージャは長くても数時間の滞在だから、実際に眠らないこの兄は、ずーっと連続すると疲れるだろうし、精神も異常をきたすだろう。
しかし、ケージャに聞くと「きちんと眠っている」と答えられ驚愕した。島での時より兄との同化率が高くなったのか、いない時間は休んだ感覚があるらしい。
俺はその事実を知ってかなり安心したのだった。
「ーーおい、優太? いるのか?」
「ぅわっ! びっくりした! 兄ちゃんっ? いるよ!」
勉強机の前で考えていたら、扉を叩いた兄がそっと開けて入ってきた。腕輪は外してあるが、顔つきでもう兄だと分かる。
ドキドキしていると、俺の隣に立って頭を触り何か言いたげだった。
「ちょっとお前さ、なんで俺を放置すんの? 起きたときそばにいろよ。無性に寂しいだろうが」
「えっ? そうなの? いてもいいの俺」
見上げて尋ねると、顔が硬い腹筋に押しつけられる。
「当たり前だろ。変な気遣わなくていいから。俺が戻ったときは絶対お前がいるの。わかった?」
「……うんっ」
嬉しくなって胴に腕を回す。
やっぱり、なんだろう。俺はこの兄に対して、更に心が落ち着かなくなったり、恋をしているような状態になってる感じがする。
ケージャのことももちろん愛している。二人に対する愛情はたっぷりだ。
でもこの胸の高鳴りは、一体どこから来ているんだろう?
この前兄が俺達が恋人だみたいなこと言ったから、変に意識をしていた。
◇
それから日が経ち、とうとう夏休みが終わりを告げた。といっても高校生の俺だけで、兄はまだ三週間ほどあるらしく、時々塾講師のアルバイトをしていた。
行方不明になる前にお世話になっていたところで、心配をかけたことを謝りに連絡したら、塾長の人がぜひ戻ってこいと言ってくれたそうだ。
三年間島にいた兄は日本でこれからお金も必要だし、幸運だと感謝して働きに行っていた。
「優太、はよー。お前も今日から高校生か。寂しいよ。兄ちゃん一人でどうすんの」
「いやもう一学期は通ってるから。ていうか起きるの早いね。バイト夜でしょ?」
両親がすでに出払っている朝に、洗面所に入ってきた兄に振り向く。歯ブラシをおき、タオルを使っているとなぜか兄がまじまじと俺を見下ろしてきた。
ぼさぼさの褐色の髪と同色の瞳が、感動を表して光っている。
「うっ、うおぉっ! 優太の制服! 俺と同じ高校の着てる! やっべ、すっげえ似合ってる、かっこ可愛い〜!」
肩をがしりと掴んで爪先から頭のてっぺんまで笑顔で観察され、少し恥ずかしくなった。ただの半袖白シャツにネクタイ、紺ニットのベストとズボンなのだが、そういえば見るの初めてだったか。
「へへ。褒めすぎだろ。兄ちゃんみたいにスタイルはよくないけどな」
「何言ってんだよ、ぴっちぴちキュートすぎて俺はもう心配だわ。…お前電車通学なんだろ? 大丈夫なのかっ? やっぱ俺もついてかないと! もし満員電車に変態痴漢野郎がいたらッーー」
どすっと腹に拳をいれるフリをしたらスッと避けられて笑いをもらされた。
一番変態の兄ちゃんに心配されてもな。
兄は俺が中学生だった頃のことしか知らないため、高校生の姿を初めて見て改めて衝撃を受けたのだろう。
「よしっ。じゃあ優太、帰り待ち合わせしない? バイトは夜だし、昼飯おごってやるから。一緒になんか食おうぜ」
「えっ? 本当?」
「おう! ……なに、そんな嬉しそうな顔して。かわいいなーお前。まぁ俺もめちゃくちゃ楽しみだけど。優太と制服デート」
にんまり顔を緩めさせて俺の頭をぽんぽん触ってくる。
俺だけ制服でも制服デートって言うのか…?
そんな事をしたことがない俺は基礎的なことを疑問に思いつつも、照れを隠せず頷いたのだった。
高校は私立で、電車を乗り継ぎ40分ほどの場所にある。
街中のわりと賑わった所の近くに校舎があり、立地はいいと思う。制服だから派手なことは出来ないが、ちょっと店に立ち寄るぐらいなら友達と帰りに遊ぶこともしていた。
その日は始業式と担任からの話や委員の会議などがあり、昼頃には終わり早かった。
俺の失踪が突っ込まれるかと思ったが、夏期休暇中だったためか大事にはなっておらず、先生からよかったなと声をかけられただけでほっとした。
「優太ぁ、部活どうする? 俺カードゲームの集まりが今日入っちゃってるんだよね」
「え、そっか。俺も実は私用があってさ、明日でいいんじゃね? 今日はちょっと顔出すだけで。橋田はどうすんの?」
「俺も今日無理! 地元でバスケの試合があるんだよ。じゃあ明日にしようぜ!」
ちょうどクラスの友人達と取り決め、俺は無事すぐに帰れることになった。部活というのは俺達の他にあと数人の部員しかいない、趣味の文芸系クラブだ。
オタク活動に精を出す小林と、趣味はスポーツだが部活ではやりたくないという自由な橋田に誘われ、俺も適当に活動している。
先輩も仲間も堅苦しくなく皆気ままなので、そんな所が気に入っていた。
水泳部でバリバリに活動していた兄とは大違いではあるが。
そもそも難しい進学校というほどではないものの、かなり自分にしては苦労して入った学校だったため、勉強だけで十分な感じだった。
その後学級の時間が終わり、俺達はしばらく机のそばで喋っていた。窓に近い俺の席に、小林達の後ろから一人の女子が近づいてくる。
肩ぐらいの黒髪でスカートが膝丈の女の子だ。
「あの、夏山くん。委員会もうすぐだけど、一緒に行かない?」
「……えっ? あ、うん」
正直いきなり声をかけられてびっくりしたため、少し声が裏返った。友人達はにやにやしている。
俺は鞄を持って二人で校舎内の違う教室へと向かった。
委員は男女一組で担当するため、この人は入学以来同じ委員で会議にも出席していたが、今まで別々に行っていたのに何故だろう。
何気に緊張しつつもあまり話すこともなく、世間話だけでなんとか会議も終えた。
教室に戻ろうとすると、途中小林が足早に上階から降りてきて、「あ。優太、部活には話しといたから、もう帰っていいって。じゃあまたなー!」とまたもやニヤッとした顔で通りすぎた。
それはよかったけど、俺達はその後おのずと一緒に下駄箱へと向かうことになった。
「あ、じゃあこのへんで。気を付けてねー……」
「夏山くん、駅だよね? 私もなんだ」
にこっと女子スマイルに当てられて、俺は頷くしかなかった。
校舎を出て、晴天でまだ残暑の中並んで歩く。女の子と二人きりで下校なんて、小学生の時以来だ。
この子も俺と同じくクラスでは目立つグループではなかったと思うが、女らしくて結構可愛い顔をしていると思う。男子の中でも意識してるやつはいそうだ。
きっと、数ヵ月前の俺だったら初彼女のフラグか?なんて早とちりをしていてもおかしくなかっただろう。
でも今は、正直まったくドキドキしていなかった。
それどころか、やばい。もうすぐ兄ちゃんとの待ち合わせ場所に着いてしまうーー。
そう兄のことばかり考えていた。
「あのっ。夏山くんに聞きたいことがあって。……うちのお母さんから聞いたんだけど、夏休み一時期行方不明になっちゃったんだよね? 大丈夫だった…?」
心配げに尋ねられて俺は「う、うん。平気だよ」と頷いた。
なんでも彼女の母親はあの近辺が地元だったらしく、俺のことを知ったそうだ。
「ーーというわけで、ちょっと記憶喪失な面もあるんだけど、体も頭も平気だし、心配しないでね。声かけてくれてありがとう」
頭をかきながら微笑むと、なぜか彼女が恥ずかしそうにもじもじし始めた。俺は時間稼ぎに立ち止まり、視線を動かして挙動不審になる。
「よかった……ほんとに心配で。委員のとき、もっとたくさん話せばよかったな、とか…考えちゃって」
「あ、はは。大丈夫だよ。まだ会議あるしさ。それにクラスメイトだし」
マジで何を言ったらいいのか分からず、温かい言葉にはすごく感謝が沸いたのだが、背汗をだらだらと感じた。
そんな時だった。
彼女の視線が俺の後ろに向かい、少し不安げにまばたきをする。
「あっ……もう行こうか。なんか男の人がこっちじっと見てる。格好いいけどちょっと怖そうな人…」
ぽろっと言葉を発した彼女が歩き出し、俺は振り向いて足を踏み出そうとした。
するとそこにいたのは、停めたバイクを背にして鉄の柵に腰をかけ、がっしりした腕を組んでいる兄だった。
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