▼ 40 隠れていた気持ち
「くそっ……ありえねえ、何考えてんだあの野郎……ッ」
声音からして怒り狂った兄が立ち上がり、薄暗い部屋から出ていった。
ふぅ。ひとまず大目玉は免れたか。そう思ったのも束の間、光が差し込むドアの隙間から怒鳴り声がした。
「ーーてめえら何もんだ、ここはどこだッ、お前もあいつに酒飲ませたのか!?」
「ど、どうしたのですか部族長、さきほど皆で晩餐を楽しんだではないですか」
「おいなんだいきなり、お前、そいつに掴みかかるんじゃねえ!」
三人の男達がもみ合う様子に、さすがの俺も焦り這いつくばって向かった。
戸を開けると、兄も酔いが回ってる様子で頭を押さえ、呻いたあとに炉の前に座る。
「う……頭がガンガンするぜ……人の体で勝手しやがって…」
「に、兄ちゃん、大丈夫…?」
びびりながら声をかけると、一瞬険しい顔をした兄だが手を伸ばしてきた。
本物の兄に会うのは実にあの記憶の儀式ぶりだ。
分厚い胸板に抱きしめられてとりあえずほっとする。
「優太、今いつだ?」
「ええと……秋の月8日だよ。兄ちゃんが目覚めたとき、ケージャだったんだよ。それで、今北地区に旅行しててーー」
事の顛末を説明した。なぜ俺達がこの酒蔵を訪ねてきたかもだ。
兄は怪訝な反応をしつつも、納得をしてくれた。
だがまだ俺の問題行動はもちろん許されていない。
一方、人格交代を目の当たりにした酒作りの兄弟は、驚きと混乱からようやく覚めた様子だった。
「まさか……あの話は事実だったのですか。ケージャ様と、ケイジ様……長の体に二つの人格が存在してらっしゃったとは」
「ああ、すげえなあんた。完全に病気だろ。医院で見てもらえよ」
兄のゼツさんの指摘がぐさりと俺達に突き刺さる。
確かに他人から見たら、病なのかもしれないが。
「もう見てもらってんだよ。でも治らねえんだ。言っとくがこの体は俺のもんだからな。貸してやってるだけなんだよ。……つうか、あんたら。この二人、どんな様子だった」
まだ癪に障っている様子で兄が聞かなくてもいいことを尋ねる。
しかし優しいカルミさんは微笑み、素直に答えてしまった。
「とても親密なご様子でしたよ。お酒のことは本当に申し訳ありません…しかし部族長はとても貫禄のある落ち着いた方で、奥方様を優しく支えていらっしゃいました。なのでどうぞケイジ様もご心配なくーーあっ、そうだ。お二人とも一緒に元の世界に帰るんだ!とはりきった様子だったのもすごく印象的でーー」
「ちょっとちょっと! 何言ってんだよカルミさん! バラさないでよそれ!!」
俺は顔面蒼白で割り入る。
酔った際の出来事が蘇り、この兄にだけは話してはいけないと焦りに焦った。
案の定兄は凍りついた真顔で俺を見た。
「……冗談だろ? 優太」
「えっ……あの……にいちゃん……」
「ありえねえ。お前、あいつに……そんなに……」
切なく鋭い眼差しに言葉がつっかえる。
兄は隣に座った俺に、腕を広げて覆い被さってきた。
「うおっなんだよ、重いよ兄ちゃんっ」
だがそのまま倒れこみ木目の床に挟まれた。
背中を叩いても起きない。ショックで失神したのか?
「どうやら眠っているようですね……長もかなり飲んでおられましたから。兄さん、部屋に運んであげてくれ」
「ったく。騒がしい奴らだな。こいつの人格、もうお前の兄貴のままなのか?」
兄を力強く持ち上げてくれるゼツさんに問われたが、そんなの俺にも分からない。
ケージャに変わってから約一週間ほど。今度はまた兄の番なのだろうか。
これらは夜中の出来事だったため、俺達はまた眠ることにした。
だが俺は中々深い眠りに入れず、時々兄を確認しては布団の中で寄り添って眠った。
そして朝になる。
兄より早く起きた俺は、そわそわして浴衣を羽織る大きな体を起こした。
「兄ちゃん、起きてよ。昨日のこと謝りたいんだ」
「ん……なんだ、昨日のこととは……」
眠そうに目を擦り、俺と視線が合った兄は、朝から機嫌が良さそうに口元を笑む。
そして伸びをしながら起き上がった。
「おはよう、ユータ。何を謝る? 俺こそお前に飲ませ過ぎてしまったな。だが、おかげで素敵な愛の言葉をもらえたぞ」
嬉しそうに微笑み俺の頬を撫で、そこに口づける兄ちゃん。
俺はだらり、と背中に汗を感じた。
「え、ケージャ……?」
「なんだ。こう見えて俺は昨日のことをすべて覚えているのだ。可愛いお前の姿を忘れたくなかったのでな。感動しすぎたのか、すぐに寝てしまったようだが……ところで、朝の接吻はもうしていいか? ユータ」
近づいてくる唇を手のひらで押し返すと、ぶつかる兄の声が聞こえた。
「むっ。痛いぞ。ひどいではないか。昨日はあれほど仲むつまじく盛り上がったというのに」
「やばいよ兄ちゃん! なんか変だ、これおかしいって!」
俺は右往左往して兄の手を引っ張り、外にある居間へ向かった。
こんなに早く人格が変わったことに軽く恐怖を覚える。
朝の光が窓から入り、明るい炉の間にゼツさんが座っていた。お茶と朝食を運ぶ銀髪美青年のカルミさんが挨拶をする。
「おはようございます、奥方様、ケイジ様。ぐっすりお休みになられたでしょうか? ご朝食を用意しましたのでよろしければーー」
「……ケイジだと? 何を言っているのだ、お前」
ぴしりと動きを止めた兄にまた兄弟が目を見張る。
俺はすぐさま兄を座らせ、皆に異常な事態を教えた。
「ーーというわけなんだ、ケージャ、昨日少しだけ兄ちゃんが出てきたんだよ! だよね? 皆」
「は、はい。飲酒をしたことを大層お怒りになられてました。そうだよな、兄さん」
「おう。てことはあんた、また昨日の長に戻ったのか? こりゃ大変な病気だな」
呆れるゼツさんと心配するカルミさんの眼差しがつらい。
それ以上に沈んだ様子なのは兄だった。
「ユータ。嫌な予感がする……これはよくないぞ」
「うん、俺もそう思うよ、そうだ、先生に診てもらおう」
ここでの任務は済んだし、休暇を切り上げて東地区に戻ろうと提案した。しかし兄は「まだ一日残っている」と了承しなかった。
「奥方様、迎えの船が来るまでまだ時間がかかります。ひとまずここでお休みになられてください」
カルミさんに言われ俺も頷くが、色々と考えを巡らせる。
「なあゼツさん、まさかお酒のせいでこうなったんじゃないよな?」
「なんだと? 昨日出したものは島で普通に出回ってるもんだ。それにお前の兄貴はそこまで飲んでなかったぞ、そうだろ」
「ああ……」
兄が頷いたかと思えば、急に頭が痛くなかったのかこめかみを押さえる。
やっぱり二日酔いも関係あるんじゃないか。
「ケージャ、大丈夫だよ。とりあえず休もう。きっと、もう人格がころころ変わることなんかないからさ」
うつむく兄の肩を優しく触る。
すると褐色の短髪がゆらりと動いて顔を上げた。
俺はもう、表情でわかった。変わった瞬間はいつも怒らせてしまってる兄ちゃんだ。
「……俺に変わったら何かまずいのか? おい優太……」
眉をいつもより更にキリッと上げて睨まれ、俺は蛙のようにすくむ。
「やばい、やばいよ。また兄ちゃんになっちゃった」
「だから何がヤバい? お前ふざけんなよ、なぁ」
兄が腰を上げようとして俺に手を伸ばす。
するとその筋肉質な腕を同じくガタイのいいゼツさんが掴んだ。
「おい、弟を責めるんじゃねえよ。かわいそうに。ずっとお前のこと心配して憐れだぜ」
そう言われて兄が彼を睨み付ける。
だがその眼差しが次第に力を失っていく。
「いや、俺は大丈夫だよ、兄ちゃん」
「……わかってんだよ、俺だってイライラしたくねえ。……悪い優太」
今度は優しいハグをされて俺も背に手を回した。
「ということは、またケイジ様になってしまったと。このような事はよく起こるのですか?」
「ううん。こんな短時間に何回も変わったことないよ。絶対に変だ」
俺はこの時ようやく二重人格の本当の大変さを痛感したのだった。
今までは一週間とか二週間とか、どちらかに固定された期間が長かったから逆に余裕があったのかもしれない。
もしこれからも兄が頻繁に人格交代してしまうと、本人はもちろんのこと周囲も説明や対応などが困難になっていく。
俺達はひとまず船が来るのを待ち、やはり自分達の場所に帰ることにした。
症状が悪化していることから、胸騒ぎが止まらなかった。
「ーーじゃあ、お世話になりました。二人とも。御神酒も本当にありがとう。カルミさん、ぜひ島に来てね。俺の権限で「カルミさんに何か言ったらぶっ潰す」っていうお触れ出しとくからね」
「奥方様ーーご自身も大変な時に、ありがとうございます。……私も勇気を出して、島を訪れてみようと思います。兄とともに」
約束を交わした俺に、ゼツさんは心配なのか複雑な感じだったが、俺は島の人一人一人に楽しく生活してほしい。
ようやく長の伴侶としての思いが育ってきたようだった。
酒作りの兄弟と別れ、俺と兄は小船に揺られていた。
気持ちが落ち着いたのか、兄ちゃんは俺の隣に座り波間を静かに眺めている。
「優太」
「な、なにっ?」
ぎくりと声が上ずってしまった。
昨日のことをまだ兄も覚えているだろう。
俺がケージャを好きだと言ってしまったことを。
それを咎められたら、俺はどう反応するのだろう。
兄ちゃんなんだからしょうがないって、お茶を濁すのだろうか。
名前を呼んだきり黙る兄を恐れていると、ぶ厚い胸板に体を抱きよせられた。
兄はその後も何も言わず、ただ俺を腕に閉じ込めていた。
◇
北地区に着いた後、俺達は御神酒を酒蔵に運んでもらい、ルエンさんに会った。彼は到着を待っていたらしく、港で迎えてくれていた。
交渉が上手くいったことを伝えると大いに喜び褒めてくれた。
だが俺は医院に兄を連れてく為ひとまず帰宅することを告げた。
「そんなことがあったのですか。では今はケイジなのですね、部族長」
「ああ。新婚旅行とかいうバカげた休暇中で逆に良かったわ。こいつは俺が見張ってないとな」
俺の肩を叩く兄だが、なんだか元気がなさそうに見える。
色々罪悪感を感じていると、ルエンさんが急ぎの俺達のためにシャーマンの女性を手配してくれた。
その人は呪術による転移魔法が使えるため、ここから数時間ほどの距離の東地区へ、一発で送ってもらえるらしい。
俺達は彼にお礼を言い、その着物姿の中年女性についていった。
「では、お二人とも。今からお送りしますので、精神をくつろがせてくださいませ」
「はい。よろしくお願いします」
木目張りの道場に集まり、この上なく丁寧に魔法が発動される。
紫色の光に包まれ、目を開けた時にはそこは東地区の集会所の一室だった。
女性に礼を言いまたすぐに別れる。
気持ちが急いていた俺は、兄の手を取り外へ向かおうとした。
「ーー待て。ユータ。どこへ行く……うっ、ここは……なんだ? いつ東地区に帰ってきた?」
「えっ」
もう何が何やら分からない。背筋がぞっと冷えた。
船では持ちこたえていたのに、魔法のせいなのか、それともただ無作為なのか。
俺は簡単に説明をしケージャと医院に向かうことにする。
しかしまた予期せぬことが起こった。
白い光がもやもやと集まったかと思うと、長い銀髪で白衣姿のジルツ先生が立っていた。
突然求めていた人物が現れ、度肝を抜かれる。
「せ、先生! 今ちょうど行こうと思ってたんですよ、兄ちゃんが大変なんです! ころころ変わっちゃって、不安定で……!」
「ほう。それはよくないな。つまり今はケイジなのか? ちょうどユータの気配が現れたから、旅行を終えたのかと思い迎えに来たのだが」
迎えに来た?
訝しんだ俺とは対照的に、兄は堂々と口を開いた。
「いいや、俺はケージャだ。何の話だ、先生」
「ふむ。そうか。ちょうどいい。非常に悪い話がある。診療所に来てくれ、二人とも」
先生は手をかざし、俺達を瞬く間に転移させた。
またそんなことしたら、人格変わるんじゃ…と焦ったが、兄はケージャのままだった。
診療所に着くと、俺達はすぐに異変に気づく。
なぜか紫の着物を着た長老が、診察室の窓際に佇んでいたのだ。
予定されてたかのような珍しい二人のツーショットに、俺はたじろぐ。
兄も「どうしたのだ、長老」と声をかけた。
「なにか大事が起こったのか? すぐに行かねば」
「いいや、そうではない。お主に大切な話があるのじゃ」
白髪を結わえた長老は、悲しげな表情を隠さなかった。
俺は嫌な予感がつのり、心臓の音を抑えようとする。
俺達は椅子に座り、真向かいに腰を下ろす先生と、その後ろに立つムゥ婆の話を聞いた。
「ワシは、本当はすぐに言うべきだった。しかし言えなかったのじゃ。ケージャ、お主の嬉しそうな笑顔を見ていると。だからせめて、この旅行の後にしようと思った。じゃが……」
長老が動揺し、手を前に握って言いよどむ。
俺達はますます混乱に陥った。
「長老。彼に人格障害の診断を下したのは私です。主治医の私から言いましょう」
先生が丸眼鏡を直し、まっすぐと兄を見る。
この島の誰よりも冷静な男から放たれたのは、残酷な言葉だった。
「ケージャ。以前話したことがあったな。君の人格の行く末を。その時私は、ある仮説を出した。もし君が消えることがあるとすれば、それは君の誕生が必然であった場合だと。……君の記憶を読み、我々は君の人格が蘇生術によって生まれたのだと知った。これは故意ではなく偶然ではあるが……精霊力によって創られたのならば、ケージャ、君は儀式の後に消えてしまうことになる。君達の体内に宿る精霊力を、儀式に全て捧げることになるためだ」
淀みなく言い終わった先生を、俺は抜け殻のように見つめる。
二人ともすぐに反応出来なかった。
そんな。
ケージャが消えるなんて。
「……嘘だよ、そんなの……嘘だ……」
「事実なのだ。ユータ。我々も心苦しいがーー」
重苦しい空気の中、兄が突然立ち上がる。そして先生の胸ぐらをグッと掴んだ。
「ふざけるな……俺が消える…だと? ……俺はユータと、約束したのだ、全てを捨ててでもそばにいると……! おい、貴様、医術師ならばなんとかしろッ!」
悲痛に叫ぶ兄の声に俺も居ても立ってもいられなくなる。
しかし先生は首を横に振るだけで、「君の誕生はある意味島の神秘だ。残念ながら打つ手はない」ととどめを刺した。
兄は激しく悪態をつき、診察室から飛び出していってしまった。
「ちょっと、兄ちゃん! 待って!」
すぐについていこうとしたが、怒りがまず二人に対して沸き上がる。
「どうしてケージャに言ったんだよ! ひどいよ!」
わななく口で必死に吠えたが、責めても仕方ないことはわかっていた。長老が悔やんだ表情で唇を噛む。
「すまん、ユータ。全てワシのせいじゃ。あやつの優しさに甘え、今までどうしても、言えんかった。本当はワシも消えてほしくなどない。家族だと思っているのじゃ…」
弱々しい言葉が胸に突き刺さる。
そうだよ。もう家族だったんだ、ケージャは。
俺にだって、そうだったんだ。
涙をこらえ、俺も診察室を飛び出した。
廊下を走り、玄関から外に出る。
すると砂利道に、兄の後ろ姿がぽつんと立っていた。
よかった。ここにいてくれたんだ。
そう思って駆けていく。
「兄ちゃん! あのねっ……」
兄はくるりと振り返った。
しかし頭に手を当て、また考えるような素振りをする。
「優太……? なんで俺、またここにいるんだ。医院に来たのか……?」
あまりに無邪気に聞こえたその台詞に、俺はもう駄目になった。
食いしばってた口もとが崩れ、涙がぽとぽとと落ちる。
兄は当然顔色を変えて、俺のそばに駆け寄る。
「兄ちゃん……、兄ちゃん…っ」
「どうした優太、おい、なんで泣いてる」
焦って指で顔をごしごし拭かれる。
しかし俺は悲しみのあまり兄の胸に顔をこすりつけ、崩れ落ちそうになった。
「どうしてっ……! ケージャ、消えちゃうんだって、嫌だよ、かわいそう、なんで……っ、嫌だっ、……ああぁぁあーっ!」
知らず知らずに溜まっていた感情が噴き出し、泣き叫ぶ俺を前に兄が立ち尽くす。
「なんで……かわいそうだよ、やだっ……ケージャぁ……っ」
俺はただ、兄の胸元でその名をずっと、呟いてた。
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