夫婦になった兄弟 | ナノ


▼ 32 ケージャの記憶

そこは夜の浜辺だった。雲がかかる暗闇の砂浜に、一人の男が倒れている。
水着のハーフパンツを履いていて、うつぶせの背中を見下ろすように俺は立っていた。

「に……兄ちゃん! 大丈夫か、しっかりして兄ちゃん!」

一生懸命声をかけるものの、横顔は青白く全身びしょ濡れで反応がない。
触ろうとしたがすり抜け、その場の寒暖も感じないことから、俺はここに存在してないのだと気づいた。

ムゥ婆の言った通りだ。これは兄の記憶の中なのだ。
驚愕していると遠くから槍を持った部族民と装束姿の男がやって来た。島の神官に見える。

「ーーいたぞ! ……だが息をしていない、死んでいる! 急いで長老のもとに連れていくんだ!」
「はい!」

彼らは兄を担いで島の奥へと消えていった。俺は呆然としたがすぐに後を追う。
死んでる?そんなわけがない。
恐怖と涙をこらえながらたどり着いたのは、長老一族の住居だった。

避難用の地下で、寝台に兄が寝かせられる。
筋肉質だが今よりも細身で、肌だってうっすら日焼けしている程度の昔の兄だ。懐かしい。
行方不明になったのは三年前に海でサーフィンしていた時だったから、やっぱりあの時この世界に送られたのだと確信した。

扉から白衣を着た男と着物姿の長老が現れる。
兄を見るなり彼らは必死の形相になり、あらゆる処置を施そうとした。
だが兄は起きなかった。

「長老。まだ生き返りません。どうしますか」
「そんなはずはない。ワシの力を半分使い切ったのだ。こんな……伝承実現の前に、死なせてたまるか!」

せわしなく息をするしゃがれた声が響き、何もできない俺は近くで震えながら見守る。

「……あっ! 心臓が……動き始めました、やりましたよ長老!」
「ふふ……やったか……よかった……先生、容態を安定させてくれ、頼む」
「はい、お任せください。……おお、この力は……精霊力ではありませんか。青いオーラが見えます」
「……そうか。このような奇跡が宿るとは……やはりこの者は、伝説の夫婦の片割れじゃ……!」

兄が息を吹き返したと知り、その場にへたりこみそうなぐらい、一気に力が抜けた。

長老は自分の力を使って兄を蘇生してくれたのだ。
そんなとてもありがたい事を俺は目の当たりにしたのだが、すぐに信じがたいことが起きた。

兄はゆっくり目を覚ます。

「う……ここは、どこだ……俺は……何をしている」

褐色の髪を掻き、頭を痛そうに抱えている。
嫌な予感がした。兄はそのときから、すでに記憶がなかったようだった。

「ここは島の医務室じゃ。もう怪我は治してやったから安心せい。……そうじゃ、お前の名はなんという?」

見下ろされて、兄は体を起こした。
力ない顔つきで、落ち着かないように視点をさまよわせている。

「俺は……ケー…ジャ……だ。……それ以外は、覚えていない」

放たれた台詞に度肝を抜かれた。
まさかだった。兄はここに来た初めから、違う人格になっていたのだ。
おそらく長老の蘇生術が原因だと考えられる。

「ふむ。記憶を失ってしまったか。残念じゃ。……だが、案ずるでない。お主は立派な島の男。ほら、この精霊力が見えるだろう? これは碧の島の男の証なのじゃ」

そう言って長老が兄の手を取り、手のひらをかざす。すると呼応するように青白い炎のような光が浮かび上がった。

「綺麗だ……」
「そうじゃろう。ワシも長年生きてきて、ここまで美しく気高い力は見たことがない」

長老は兄を褒めそやす。そして黒く淀んだ瞳で両目をじっと捕らえた。

「よいか。よく聞け、ケージャ。お主は集団を渡り歩き、この地に辿り着いたのだ。伝承のとおり、選ばれし唯一の強き男なのじゃよ。ほっほっほ……」

そう言った途端、がくんと兄の肩が落ち、意識が飛んでしまった。




なぜか場面が切り替わるごとく、俺もその場から消えていた。
次に目覚めた時は、しばらく時間が経っていた。
兄の一部始終を三年分見ることになったらどうしようと思っていたが、長老の術のおかげなのか所々で安心する。

兄は記憶を失い、最初は長老一族のもとで暮らしていた。
そこで俺はまだ少し若いエルハンさんに出会った。

「おい。お前に頼んでいた調査はどうなっている。この島に俺と親しかった者はいないのか」
「はっ。島中に聞き込みをしているのですが、なぜかケージャ様の痕跡はうまく掴めず……ひょっとすると、貴方は一人でこの地を勇敢に生きてきた、孤高の戦士なのかもしれません」

信じきったキラキラした瞳で、黒髪の青年が兄にひざまずいている。
対して兄は彼と同じくすでに部族の半裸腰巻き姿だが、その視線は呆れたものだ。

「それはいいんだがな……お前、恥ずかしくないのか。部族長のくせに名しか分からぬ俺のような者に終始頭を下げるとは…」
「ケージャ様は伝承にある通り、伝説のお方ですから。我々一同、皆その時を心待ちにしていたのです、なによりーー」
「その話はやめろと言っている!」

突然切れ出した兄にエルハンさんも息を止める。
俺は今と違う兄の姿に目を見張らせた。
どうやらこの時のケージャはまだ伝承に乗り気ではなかったらしい。

「くだらん、何が伝説の夫婦だ。俺はただの島の男だ。長老もそうだが、訳の分からぬ期待をかけようとするな。俺はただ、自分のことを思い出したいのだ。家族や友人……そういったものはいないのか」

切なげな表情に胸が締めつけられる。
家族ならここにいるよ。俺だよ兄ちゃん。
そう呟いて寄り添うが、兄の孤独は周囲にだだ漏れていた。
エルハンさんも何も言えず謝るだけだ。

「……くそっ。なぜこんなことに。……まあいい。そうだ。どうせお前達がまた規則がどうのといって俺をこの東地区から出さないつもりなら、他の地区の統括者と会わせろ。彼らなら俺のことが分かるかもしれない。手始めに、西地区からはどうだ」

兄が提案すると、エルハンさんは明らかに難色を示す。

「西地区ですか? あのようなならず者集団とは、貴方は関わりはないと思いますが…」
「ほう。そこは孤児が多い地区だと聞くが。……というかお前、島の長でありながら地域差別をするとはな。その名が汚れるぞ」

蔑みの目で語る兄に、青年はみるみるうちに恥で顔を赤らめる。

「も、申し訳ありません、……貴方の仰る通りです、ケージャ様…! 私はなんと恥ずべき長なのだ!」

我に返り床に額を押しつける彼を見て、俺も大丈夫かと心配した。
どうやらエルハンさんは、当時から兄を信奉して疑わない男だったようだ。


◇◇


長老により力が宿ったためか、兄は狩りに出た時も周りの者と遜色ない働きをしていた。
島の中央にあるジャングルで、けたたましく鳴く巨大な鳥獣を男達が狩っていた時のこと。一人の若い部族民が正面から衝突され、体ごと足で掴まれそうになる。

「うっ、ぐぅう!」

暴れる体が浮かび上がり鳥が飛び立とうとした。騒然となった男達も刀や弓矢で応戦するものの、中々当たらず連れ去られそうになる。
しかし、突如鳥の瞳に一本の矢が射られ命中した。
落ちてくる鳥から解放された青年は無事でほっとする。

「……ケージャ様、ありがとうございます!」
「怪我はないか? このぐらい、同じ島の民ならば当然のことだ」

手を差し出す兄に皆の歓声が上がる。
涼しい顔をしている兄だが、俺にはすでに完成された強さや貫禄に見えた。
遠くから様子を見ていた部族長も駆け寄ってきた。 

「さすがですね、貴方の腕前はこの場でも抜きん出ている。剣だけではなく弓の扱いも師範級とお見受けしました」
「ふふ。体にしみこんだ闘いの精神のおかげだろうな。何者にも負ける気はせん」

上半身裸の兄が胸を張る。それを聞いて瞳を輝かせたエルハンさんだが、近くには他の男二人もいた。
金髪ドレッドヘアのラドさんと、柔らかい物腰の美男子ルエンさんだ。

今日はこの南と北の統括者が、わざわざケージャと知り合うために狩りに同行していたのだった。

「素晴らしいな、ケージャ。このような強い男の噂を今まで一度も聞かなかったのは、なんとも不思議なことだ。なあルエン」
「ああ。神隠しにあっていたのかもしれないな。きっと彼が特別な人間だから、大切に守られていたのだろう」

二人とも笑顔を浮かべ兄に接していて、最初から友好的な様子だ。
しかし自信家な兄とはいえ伝承のことで持ち上げられるのはまだ納得がいかないようだった。

「俺に会いに来てくれるのはありがたいが、身に覚えのないことで褒めるのはやめてくれ。俺はまだ何も大きな手柄を立てていないんでな」
「ははっ。謙虚さをも併せ持つとは、益々長の器だ。ーーそうだエルハン、お前も早くケージャと闘いたくてたまらないんじゃないか?」

楽しそうに言うラドさんに、エルハンさんはやや照れた顔つきで頷く。

「ああ、そうだ。俺が長になって二年。今は誰も俺より強い者がいない。ケージャ様はきっとそんな自分を瞬殺してしまうほどの力の持ち主だろうと思う。本当に楽しみにしているんだ」

まるで少年に戻ったように生き生きと語り出す彼を、友人らは微笑ましく見ていた。俺は兄が呆れる一方で、ほんとはただの日本人である兄を過大評価しすぎなんじゃ、と焦りがわいた。

「俺もケージャの力は楽しみだよ。だがそういえばお前、また直にガイゼルとの決闘があるんだろう?」

気がかりな様子でルエンさんが尋ねる。
過去においてもその男の名はどこか不穏に響いていた。

「まあな。毎年の風物詩だ。昔から突っかかってくる奴だったが、まさか長になっても挑んでくるとは…」
「長だからだろうな。今は西地区の統括者だが、やがては長になるという野望があるんだ、あいつは」

ため息まじりにルエンさんが口にした。
兄の眉がぴくりと動く。そしてエルハンさんを見た。

「ほう? お前もずいぶん忙しいのではないか。しかしその西地区の男、面白そうだな。なぜ今日は来てくれなかったのだ」
「ケージャ様……奴と会えば貴方の評価も丸ごと変わるかと思われます。荒々しく、とても面倒な男なのですよ」

きっぱりと言い放った彼に、兄は首を傾げていた。




それから日が経ち、場面はエルハンさんとガイゼルとの決闘に移り変わった。
この間の兄の決闘の時とまったく同じく、白い砂浜に設けられた神聖な土俵の上で、闘いは繰り広げられていた。

俺の目に映ったのは、圧倒的な力と剣技でガイゼルを下すエルハンさんの姿だった。

「ーーくそっ、クソッ、クソッ!」

口汚く悪態をつく短い黒髪の男は、恨めしげに下から長を見た。
対して部族長は、体についた砂を払い涼しい顔で場を去る。

体格のよさはどちらも引けを取らないぐらいだが、やはり長の風格は段違いであった。

「すごいなお前。あの男、けっして弱くはなかったが、お前の足元にも及んでなかったぞ」
「ありがとうございます、ケージャ様。貴方に褒めて頂けることが、私の何よりの喜びです」

長なのに皆の前で胸に手を当て頭を垂れるエルハンさん。
観戦していた島民達も、誰も文句を言わずむしろ彼ら二人に尊敬の眼差しを向けていた。

ガイゼルはぎりぎりと奥歯を噛み、悔しさを通り越した表情で睨んでいる。その矛先が兄に向かっているのだと、俺はその後気づくことになる。

部族長の防衛に対する戦勝会は、東地区でその夜に行われた。
集会所の広間で、皆好きに飲んだり食べたりする宴だ。

酒に弱い兄を、俺は斜め後ろで背後霊のように見守っていた。
日々の生活から島の男の自覚が備わってきていたのか、兄は自分のことのようにエルハンさんの勝利を喜んだ。

「ほら、もっと飲め。エルハン。酒だ、酒を持ってこい!」
「ふふ。ケージャ様、貴方は意外にも私より酒が弱いようですね。でも一つぐらい弱点があるほうが人間味がありますよ」

彼も酔ってるのか何でも肯定しながら、互いに楽しんでいた。
しかし遠くから酒瓶をお盆にいれて運ぶ少女を見て、兄は瞬時に眉をつり上げる。
浴衣姿の少女は兄のそばにつきお酒を注いだ。

「おいお前、年はいくつだ。小さいおなごに男達の酒をつがせるとは、親は何を考えている!」
「ひっ。申し訳ありませんっ。ですがぼくはこのぐらいしか出来ることがないので……ごめんなさいっ」

怯えた顔で酒を注いだあと小走りで逃げていったのは、あのラウリ君だった。今よりさらに華奢で子供だった彼だが、勝手に俺はもう友達のような気がしていたので会えて嬉しくなる。

「あの、ケージャ様。今のはおなごではなく私の弟です。母はもう亡くなりましたが、父と祖母は知っての通りあそこにおります」

恐縮しながらエルハンさんが説明する。ラウリ君は島の男達のように精霊力がないため、この地区に暮らしていた時は呪術を学ぶ傍ら側仕えの仕事をしていたらしい。

事情を知った兄は驚いていた。

「なるほど、そんな理由があったのだな。しかし長の弟があのような……本当にいいのか」
「はい……弟も島の中で役立つことをしたいと、懸命に生きていますから」

真剣に話す彼の表情からは、家族ならではの特別な気持ちを感じ取った。



宴が過ぎ、兄は一足先にほろ酔い気分で集会所から抜け出た。
眠いのだろうか、足元がおぼつかなく後ろからついていく俺は心配する。

だが異常なことは直後に起きた。
兄が廊下の部屋の前を通ろうとすると、突然引き戸が開いた。
中から細い腕が伸びてきて、兄の肩をぐいと引っ張る。

すぐに戸が閉められた。空間も通り抜けられる俺が何事かと部屋に侵入すると、薄暗い明かりの中に着物姿の艶やかな女性がいた。

それだけでなく、なんと兄の裸の上半身に自らの体をもたれかからせ、色っぽい表情で見上げている。

「ん…? なんだお前は。どうした」
「やだ、とぼけないでよ色男さん。分かるでしょう…?」

腰を押し付けて壁際に迫られる兄を見て俺は思わず「うわぁぁあ!」と叫んだ。

まさかである。俺も年頃の高校生だから、記憶を読むにあたり万が一こういうことに出くわすかもしれないと恐れてはいた。
しかしケージャは俺だけだと言ってたし…と弟なのによく分からないショックが襲う。

兄ちゃん、どうするんだ?
もしや誘惑に負けるのか?

近くでハラハラと見守っていると、兄はやんわりと女の体を引き剥がした。
しかし女も「あぁっ」と反応し強い意思で大きな胸を押しつけて諦めない。

「ねえ……いいでしょう。あなた全く女を相手にしてないって聞いたわよ。そろそろ溜まってるんじゃ?」
「俺の下のことなど心配するな。悪いが俺は、知らん女は抱けん。……それにな、もうすぐ未来の妻が見つかるかもしれんのだ」

だから帰れ、と言って女性の背をそっと押し、部屋の外へと逃がした。
格好よく誘いを断り、部屋に一人たたずむ兄を見て俺は感動し、一気に体の力が抜ける。

「兄ちゃん……っ!」
「……ふふっ。何が未来の妻だ。……俺はあんな伝承を信じているというのか」

自嘲気味に話す兄に触れようとした手が止まる。
あれだけ否定していた兄だったが、少しは頭の中に残っていたのだろうか。

「俺はここだよ、兄ちゃんっ。絶対に現れるからね!」

必死に言うも木霊するだけで虚しい。
妻というより弟としてだが、なぜかこの時は何でもいいから兄を支えたくなった。

佇んでいた兄は、しばらくして部屋を出る。
すると視線が鋭く廊下の向こうへと投げられた。

俺も目を見張る。そこには宴の席にいたはずの小麦肌の男、ガイゼルが立っていた。

「へえ。お前見た目によらずお堅い男なんだな。俺の地区でもかなりの上玉を用意したんだが」

悪気もなく奴は種を明かした。
こいつのハニートラップだったとは。俺は憤慨して「はあ?ふざけんなよ危ないだろーが!」と聞こえない文句をぶつけた。

兄はとくに驚いた様子もなく、ガイゼルの正面に立った。
じろじろと見たあと、嘲るように笑みを浮かべた。

「そうか、お前だったのか。自分の物差しで人を計ろうとするから失敗する。俺は別に女に飢えてはいない。そんな小さなことよりも、今は自分の運命の行方に精一杯なのだ」
「……んだと……ッ。お前は伝承の長なんかじゃねえ! あんなもんは嘘っぱちだ!」

血管を浮き上がらせてガイゼルが吠える。

「俺も信じてるわけじゃない。だがーーでは、ここにいる意味は何だと思う? その答えは、俺にも分からん。お前が知っているなら教えてくれ」

逆に鬼気迫る顔つきで睨む兄の気迫に押されたのか、奴はぐっと言葉を呑み後ずさった。

そのまま「知るかよ、ただの記憶喪失の輩だろ! お前のような出自不明の男に島を任せてたまるか、さっさと出ていけ!」と吐き出し、背中を向けた。

兄が悩ましげな視線をずっとガイゼルの後ろ姿に向けていたのが、印象的だった。



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