貴方の名を呟く
先程の雰囲気とは打って変わり、リヴァイの登場に動揺を隠せない一同は誤魔化すように蒼白い空を見上げている。
「随分と帰りが遅いから来てみれば…。オルオ、てめぇの足の裏についた糞がそんなにへばり付いて取れないのかと心配したじゃねえか」
「ヒィッ…」
不機嫌を前面に出すそれが近づけば、オルオは恐怖から絞り出すような声を上げる。あんな暗い顔が近付けば当然だ。
「申し訳ありません、兵長。私が長話に引き留めたばかりに」
もとはと言えば自分が話し込んだのが悪いのだ。部下が謝り出すのも居た堪れないので素早く身を乗り出し、リヴァイが彼らに何かしらの罰則を与えない内に謝罪する。
オルオに向けられていた視線はつ、とサヤを捉え、どこかうんざりしたように眉を潜めた。
「…お前らは仕事に戻れ。今回のは不問にしてやる」
「はい!!失礼します」
助かったとばかりに走り去っていく面々を眺めて、サヤは胸を撫で下ろす。が、そう喜べる状況でもないようだ。
「どうもてめぇはお喋りのようだな…」
「は、はは、そうみたいです」
今度は不機嫌な上司と二人きりで取り残されていることに気付き、サヤの思考は白み始める。ぎこちなさを誤魔化すように、願わくばこのまま切り抜けられるようにと後ずさった足元は、一段下がった階段から見事に足を踏み外した。
「オイ、馬鹿っ」
伸びてきた腕が腰へ回り、ぶれない力で引き戻される。思わずしがみついた首と惜しみなく押し付けられた胸板の逞しさに瞑目する前に、それは鬱陶しそうにサヤの体を引き剥がしたのだった。
「その動きにくそうな格好じゃ足元も満足に見えねぇだろうが。無駄に動き回るんじゃねぇ」
「すみません…ご迷惑をおかけして」
確かに普段着ることのないワンピースで慣れないことは慣れないが、今のはリヴァイからあわよくば逃げ果せようとしたのが原因だ。バレていないかとひやひやしながら上目で見つめるサヤは、同時に男から一瞬漂った簡潔な石鹸の匂いを頭の隅に追いやろうと奮闘していた。
そこに黒塗りの馬車が建物の外周を縫ってやってくる。サヤはエルヴィンを待たせていたことを思い出しまたも気を飛ばしたくなった。
「君の到着が遅いから心配したよ。まさかリヴァイに熱く引き留められているとはね」
「どうしてそう見える。コイツが俺の部下達を捕まえて無駄話をしていたんだ」
「すみません…」
リヴァイに迷惑をかけたことに対してか、エルヴィンを正門で待たせていたことに対してか、区別のつかない謝罪をする。足元の見えないドレスの裾を見つめていると、白い手袋が視界に入った。エルヴィンが紳士宛らに手を差し伸べている。
「エルヴィン団長…そういうのは――」
「ドレス姿の女性に気遣うななど無理なことを言う。
資金集めの為に染み付いた癖だ。気にしないでくれ」
柔らかくそう言われては、断るのも気が引ける。観念して指先を重ねれば、そのまま馬車の階段へと導かれた。
座り際に窓を掻い潜った蝶を追えば、リヴァイもその白い蝶を追っていた。視線が交わる。相変わらず何を考えているか分からない瞳だ。けれど陽に照らされて、背後に蝶が舞う上司の光景は少し面白い。
と、考えていた所で訝しげに睨まれすぐに気を引き締めた。
「…いってきます」
「あぁ」
出発しようと馬が身震いをしたところで、リヴァイに声をかける。心なしか憂いのある返事に戸惑っていると馬車が勢い良く前進し、その姿はどんどん小さくなっていった。
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車輪が回る感覚と、蹄の音。
向かう先はかつてサヤとハンスが共に暮らした屋敷である。といっても今回は調査兵団として、新しく開発した対特定目標捕獲装置の資金の援助を申し込みに行くのが目的だ。これはエルヴィンがサヤに今回の極秘作戦で仰いだ協力内容であり、彼女に拒否権など無かったと言ってもいい。
内枠の景色が流れていく。エルヴィンは目的地へ向かう間、サヤの向かいに座り外を眺めていた。膝の上で手を握るサヤに、落ち着いた声色でふと話し始める。
「しかしリヴァイが見送りとは、珍しいものを見たな」
「そう、なんですか」
「あぁ…余程君のことが心配らしい」
「心配?」
「私が君の兄と組んで、何か企んでいたことを知っている」
「っ」
驚いて顔を上げる。青い瞳が悪意なくサヤを捉えて、小首を傾げた。
「もう勘付いていると思ったが、違ったか」
「いえ……。貴方の口から直接聞くことになるなんて思ってもいなくて…」
動揺で声色を硬くするサヤに、エルヴィンは静かに微笑む。その笑みもサヤには不気味に写った。
何故今、その話に触れたのか分からず警戒心が首を跨げていく。
「知らないフリを貫くのも、お互い骨が折れるだろう。最も、君は触れられたく無いから黙っていたのだろうが」
「…聞いたんですね、ハンスから。でも、さっきの口振りだと、兵長には何も…」
「彼と私の契約だったからだ。誰が依頼相手だったのかは、リヴァイは把握していないだろう。ちなみに伯爵は契約を打ち切った。これ以上依頼により君を詮索することはないよ。…ハンス伯爵に面会する今、この状況を知っておくべきだと思ってね」
毅然と答えるエルヴィンに、サヤは僅かに眉を寄せた。そんな様子を宥めるように、エルヴィンは膝の上で手を組んで続けようとする。
「どうして」
しかし、先に口を開いたのはサヤの方だった。
疑懼のような、不服のような感情。
「…貴方はいつも、私を試すような真似をするんですね。ハンスから事実を知らされた後も、なぜか私を兵団に置き続けた。異質だと分かっていながら……どうして」
サヤがこの世の者ではない可能性を知っておきながら、”知らない”振りをしたこの男の真意は何だ。
腹の底の見えない目の前の人物に緊張が高まり、黄色のスカートを無意識に握る。
「ならば問おう。お前は何者だ」
「っ」
急に冷えた声色に、息を止める。
何者だ――その問いに答えるには、あまりにも自分自身が無知過ぎた。
遠慮のない視線。それはサヤの脳内に踏み込もうとでもするように強烈で見たことがない。
「君の存在を証明する者は?なぜ記憶を持つ?人類の敵か、味方か?」
「それは…」
「答えられない、或いは判らないのだろう。そんな不確かな情報を問い質した所で何になる。君の正体を暴こうとしても、他の組織へ露呈する危険性が高まるだけだ」
「他の組織…?」
恐る恐ると返したサヤに、エルヴィンは静かに頷く。
「文明の発展や外への興味を規制する組織にとって、君は脅威になるだろう」
その言葉が暗に示すのは、言わずもがな憲兵団である。
意図を察したサヤが冷静になっていくのを察知し、エルヴィンは再び声に温もりを取り戻す。
「内々の動きでも、どこで情報が漏れるかは分からない。君が神経質になるのも道理だ。だから安い三文芝居を演じていた訳だが、君には胡散臭く写ったみたいだな」
微笑をたたえた男と対照的に、サヤは依然暗い顔をしている。どんな弁明をされようとも、この長年無意識に育ってきた警戒心を収めることは簡単ではないようだ。
けれどエルヴィンの言うことも決して間違っていない。この壁内の秩序を制する憲兵団からサヤを隠そうとしたことは、寧ろ大きな救済ですらある。
それでも。
利用なんかされない、と誓ったあの夜を思い出す。
社交界の会場の喧騒から逃げて、この世に独りなのだと、居場所など無いのだと痛感した夜。
しかし同時に浮かんだペトラやエルド達の姿に、サヤは戸惑った。訓練の日々を貫いた班員達の姿が過ったかと思えば、自由の翼の紋章を翻す男の後ろ姿に変貌する。
切り揃えられた黒髪が靡く。銀色に反射する剣を握り振り向こうとするそれに、サヤは思わず名を呟こうとした。
「着いたようだ」
現実的な声に呼び戻され、サヤの意識は覚醒する。窓を見れば、ずいぶんと懐かしい屋敷が静かに佇んでいた。幼い頃を過ごした場所。この世界の両親と幸せに暮らした記憶が蘇る。
エルヴィンは先に外に降り、右手を差し出していた。ドレスの裾を上げ立ち上がるサヤは、その上に手を乗せて階段の前で立ち止まる。
「私を信用していいんですか」
どこか拗ねたように、それでも挑発的な声で問いかけた。一拍目を丸くしたエルヴィンはすぐに笑みを取り戻し、優雅な仕草で切り返す。
「君に全ての信頼を捧げているよ」
優しく包まれた手に導かれる。
やはり底の見えない男の答えに、サヤは諦めたような面持ちで馬車を降りた。