痛みへの代償


「ハンジさん、気になることが」
「あぁ…分かってる」

予期せぬエレンの巨人化に動転し目を血走らせる班員を元本部に待機させた後、サヤは静かに別室のハンジを訪れた。上への説明を今しがた終えた彼女の机には白いハンカチの上に小さなスプーンがある。
それは、エレンが出した巨人の右手に人差し指と親指の間で握られていたもの。

「サヤも気付くと思ってたよ。このティースプーン、熱や圧力による変形が一切見られない。あんな大きな手に摘まれていたくせに」
「エレンが巨人化したのは、その落ちたティースプーンを拾おうとした直後でした」

訝しげにスプーンを持ち上げるハンジに、扉を後ろ手に閉めるサヤは付け加えるように言った。途端ハンジの眼鏡は白く反射し納得したように口を結ぶ。

「なるほどねぇ…今回巨人化出来なかった理由はそこにあるのかも知れない」

その呟きに、サヤも納得したように目を細めた。

巨人を殺す、砲弾を防ぐ、岩を持ち上げる――。今までのエレンの巨人化の直前には、何かしらの明確な目的があるのだ。しかし、今回の実験は”巨人になること”の実験であって確かな理由がない。更にハンジ達が想定していたのは、自傷行為による巨人化である。つまり、条件を満たしていないのだ。

「…これは確認を取る必要があるね」


ハンジとサヤが扉を開けた瞬間、暗晦な空気がもわっと二人の横を流れた。
見ればペトラ、オルオ、エルドにグンタが神妙な面持ちで俯いている。重々しい空気は彼らから漏れていたのか。上司の入室に辛うじて気付いたそれらは、僅かに佇まいを正した。

「みんなに聞いて欲しいことがある。さっきの巨人化のことだけど、私たちはそのお陰である仮説に辿り着いた」
「仮説、ですか?」
「もしかしたらって話だよ。エレンが巨人化出来るのにはある条件があるんだ」
「自傷行為ではないのですか」
「それだけじゃなかった」
「ハンジ分隊長!お連れしました!」

そこにエレンとリヴァイが入室してきた。硬い表情で周りを見渡すエレンと目が合う。半ば不安で頬に汗を滲ませるエレンは、閉扉と共に唾を呑み込んだ。
先に部屋に入ったリヴァイは重い空気を気にすることなく手前の椅子に腰掛け、それを合図にハンジが話を再開する。

「丁度いいから確認させてもらおう。エレン、これを見てくれ」
「ティースプーン…ですか?」
「エレン、貴方が巨人化したのってこのスプーンを拾おうとした瞬間だったよね?」

首を捻るそれを思い出させるように、サヤは声をかける。するとハッとしたエレンはコクコクと頷いてスプーンを指差した。

「確か…巨人化はその直後でした」
「……やっぱり…」

呆然と手元を見つめるハンジの瞳は揺れている。
自傷行為だけが引き金になっているわけでなく、何かしらの目的がないといけないのは明確になった。しかし――。

「…」

サヤは思考に薄靄が掛かっていくのを感じていた。
気味の悪い、なにか。サヤにはどうもこれが自然に発生したようには思えない。無意識に手で口を隠して考える仕草をしながら、エレンの困惑する姿を眺めた。
そもそもだ。どうして条件が必要なのか。それが何かしらの用途があって存在している道具のような気がして不安にさせる。

(道具…?違う、兵器――)

"人を食べる"必要のない"人を食べる巨人"は、一体なんなのだろう。

「私が甘かったよ…。人に戻る方法も考え直したい」
「作戦が破綻しかねないような無茶はしないってことか?」
「うん…今回の所は」

そんな会話にふと思考を遠くに追いやる。

「つまり…お前が意図的に許可を破ったわけではないんだな」
「!?」

しかし次いでグンタが確認するや否や親指の付け根を一斉にガリッと噛んだペトラ達に、サヤは驚きの声を上げた。ハンジは目を点にし、エレンは心配そうに非難の声を上げる。

「これはキツイな…」
「ちょっと、なにしてるのっ」

たまらず駆けつけてハンカチを押さえつけようとしたサヤをエルドはやんわりと断る。

「いいんです、班長。これは俺たちなりのエレンへのけじめですから」
「俺達が判断を間違えた…そのささやかな代償だ。だから何だって話だかな…」

エレンを決まり悪そうに見つめるグンタ達に、サヤは呆然とする思いだった。
彼等はエレンを疑ったことに落とし前を付けたかったのだ。エレンに剣を向け、疑い、敵意を向けたことに対して――そして、それに少なからずとも傷を負ってしまったであろう仲間へ。

「お前を抑えるのが俺達の仕事だ!それ自体は間違ってねぇんだからな!調子乗んなよガキ!」

右手の拳にしっかりと歯型を付けたオルオが吠える。

「ごめんねエレン…私達って、ビクビクしてて失望したでしょ?でも…だから組織で活動するの。私達はあなたを頼るし、私達を頼ってほしい。だから」

私達を信じて。そう言ったペトラにエレンは口を強く結ぶ。
信頼という言葉で固められていく空間の中で、サヤは無意識にリヴァイの背中を見つめていた。



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