今にも舌なめずりをしそう


空気を揺らすほどの地響きが、夕焼けの空に轟く。何よりも大きなその足音は、ゆっくりと、そして確実に、人類と巨人とを隔てる生命線に向かっていた。

「アルミン、あなたはミカサ達と合流して。エレンを扉で援護すれば、私達の勝ちだよ」

エレンが去った大岩の跡に立ち、サヤは隣で岩を抱えたエレンを見上げるそれに声をかける。
魅入ったように顔を上げていたアルミンはハッとして此方を振り返った。金色の髪が戸惑ったように揺れる。

「サヤさんはどうするんですか…」

その目はまじまじとサヤの右腕を捉えていた。先程から一切使っていない片腕を賢い彼が不審に思わない訳はないと思っていたが、正直その鋭さは今は無い方が良いと思ってしまう。
無かったら、余計な心配はさせずに済んだのに。

「私はここにいる」
「…サヤさん」
「お願いだから行って。迷惑をかけたくてここに残ったんじゃないの。私の仕事は果たせたんだよ」

立体機動装置も満足に使えない人間を庇いながら戦場にいるのは不可能だ。サヤの強い口調に押されて、アルミンはぐっと口を結ぶ。その瞳はサヤの腕――大量の血が黒く固まったそれを一心に捉え、葛藤していた。
やがてそれは真剣にサヤを見つめて、問う。

「さっき貴女がエレンに話していたこと…あれは、…」
「うん…」
「本当なんですか。海を見たことがあるって…」

自分の質問が信じられないとでも言いたげに、それは汗を滲ませる。

どう答えたらいいか分からなかった。

外を夢見ている彼らに、奇異の目を向けられることはないのだろう。彼の目は真剣そのもので、きっとさっきの言葉の真意を知りたいだけだ。
でも、どうしてこんなに、彼に秘密を明かすことを躊躇っているんだろう。どうしてこんなに後ろめたいんだろう、彼らに希望を持たせることが…。

「……ごめん。私の妄想…」
「…」

ついて出たウソに、アルミンの顔は残念そうに歪んだ。その顔が見たくなくて目を逸らす。

―――ズシン。

「っ」

近くに巨人の足音がした。向かいの建物から頭を出す巨大な横顔に、アルミンの表情は真っ青になる。
今襲われたら、サヤを助けるどころか自分まで殺されてしまう。

「…様子がおかしい」

黙って観察していたサヤは妙な違和感に眉を寄せた。
巨人が自分達に反応しないのだ。奥にある門の方向ばかりを見つめて、ゆっくりと歩んでいる。あれの狙う先はまさか――?

「巨人がエレンを狙ってるんだ!」
「その可能性が高い。…このまま壁の中の巨人全てがエレンに向かうとなると、…すごく嫌な予感がする」
「っ僕はエレン達と合流します!サヤさんは出来るだけ壁の内側に避難してください!巨人がエレンを狙うってことは、逆に言えば他の対象に危害は加えないはずです!!」

両腕のブレードを抜き、アルミンは走りながら叫ぶ。アンカーを刺し高く跳躍した。噴き出したガスが視界を霞ませる。

誰もいなくなったそこには、ただ遠くを見据えるサヤだけが残った。

(そろそろ気が飛びそう…)

一先ず役目を果たし脱力した体は、思い出したように負傷した部分から激痛を訴えだした。血が固まりペンキのように肌へ張り付いている。
向こうの様子はどうなっているのだろう。どんな惨劇が広がっているのだろう。岩を担ぐ大量の蒸気を上げるそれが、遥か向こうに見えている。そろそろ門に近づくはずだ。アルミンは?イアン部隊は無事なのだろうか――。考えれば考えるほど脆い体がもどかしくなってくる。

刹那―――。

ドスンッ…!!

真後ろで轟いた大きな地響きに、体が硬直するのが分かった。…嫌な息遣い。湧き出る冷や汗は背中をピリピリと伝い、最悪な状況を嘲笑うようになぞっていく。

「……っ、」

ブレードを抜いた。足を引いて静かに後ろを振り返る。
…巨大な、脚…長い腕に、大きな口。それは引き裂かれたように吊り上がり、今にも舌なめずりをしそうだ。

(逃げ、ないと…っ)

けれどサヤの足は一向に動こうとしなかった。煩い足音を響かせて、巨人はサヤへ手を伸ばしてゆく。
昔にもみた光景だ…。
サヤを覆う真っ黒な影。

ただあの時と違うのは、死にたくないと…心の底から怯えていること。

サヤはその瞬間、足を叱咤して駈け出した。建物の隙間を通れば、それは乱暴に手を捩じ込んで家を破壊する。残骸が次々と行く手を阻んだ。

奥へ、奥へ。
ついに陽が滅多に当たらない、肌寒くなった壁の隅へと行き当たる。錆びついた臭いと壁に張り付く苔が、鼻の奥を刺激した。



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