目が覚めたそこは、真っ白な天井の病室だった。横の棚に紫色の花が一輪花瓶に生けられていて、恐らく家のメイドが服を取り替えるついでに生けていったのだろう。花の香りと消毒液、そして肩に巻かれた包帯の独特な香りだけが充満している。
南の窓からは、黄色を帯びた光が射していた。

―――ポツリ。

視界に映る睫毛の先に、赤い染みが出来た。

ポツ、ポトポト…。
じわじわと広がっていくそれは天井を飲み込もうと縁をうねらせる。まるで白波が立っているようだ。四方へ足を伸ばす赤がついに壁に到達する。更に進行して、今度は床に水溜まりを作り始めた。
右肩が疼く。思わず左手で押さえつける。止まらない…赤、赤、赤、赤―――。

「サヤ」
「ハァッ……」

視界が再び真っ白になった。

「っどうしたの?肩が痛む?」
「ハンス…」

サヤをベッドの真上から覗き込んでいたらしいハンスは、サヤの唸され様に酷く焦っていた。やっと正気に戻ったサヤの視界には、赤い染みなどひとつもない。
震える溜め息とともに俯けば、ぐるぐるに巻かれた包帯が目に入った。それが恨めしく思えてまた眉間に皺が寄る。

(……ぜんぶ、夢ならよかったのに)

あの日の事件から数日間、ずっとそればかり考えていた。

あの日―――真っ暗な闇の中で起きた、一瞬の悲劇。ただがむしゃらに逃げていたサヤは、銃声を訝しんで会場から出ていた貴族の中にハンスを見つけた。目を見開いて抱き付くサヤを受け止めたハンスは、サヤの咳き込んだ状況説明でも全てを悟ったのか銃声がした方へと走っていく。一人にはなりたくなくて追いかけようとしたが、足が竦んで立つことも出来ないまま意識を失ってしまった。
病室で目覚めた時には事件に終止符が打たれた後で、両親の葬式も、ハンスの手配で密やかに行われていた。両親は、あの場で絶えていたという。


「……大丈夫」

心配そうな顔に笑顔を返せる気もしなくて、無表情のままハンスから目を逸らした。
その時。

「――失礼します。憲兵団の者です」

ノック音と共に一人の男が入ってきた。
カツカツと床を鳴らして部屋に入ってくる男のジャケットには、盾とユニコーンの紋章。男はベッドで横になるサヤの足先で気だるげに立ち、軽く頭を下げた。随分と歳を重ねた顔をしている。

「今回の事件の件で、サヤ・アンドレア様に事情を聴取したく参りました」
「…ええ。お待ちしておりました」

淡々と喋る男の瞳はサヤを捉えてはいない。
そんな投げやりな態度に不快感を覚えながらも、質問には出来るだけ詳しく答えた。しかし、男はサヤが述べた内容にも興味がないような、ただ形式的に聴取しているような、そんな様子で棒立ちしている。普通、なにか調査に役立ちそうな内容をメモする為の紙ぐらい持ってこないだろうか。
そう思って眉を寄せている間に、なんと男は話は以上だと言って扉へと足を進めた。

「ま、待ってください」

思わず背中に声を投げる。
面倒臭そうな瞳がこっちを見た。

「たったそれだけの事を一方的に聞いて、終わりですか?…あなた方には犯人を捕まえるつもりがあるの?今ので何が分かるのです?」
「十分、分かりますな」
「は…」

突然、男の声色が変わった。

「お聞きしたところ、貴女様の母親は東洋人だそうですねぇ?それならば原因は明確だ。人身売買ですよ」
「…」
「"人買い"はその情報をどこかから仕入れて、犯行に及んだのでしょう。しかし余程の阿呆だったのか、女とも撃ち殺してしまった」
「…それの何が犯人を捕まえる手掛かりになるのよ」
「この国の壁を越えるには厳重な警備を越えなければならりません。となると、ウォール・シーナ内に存在する"人買い"組織の可能性が高くなる。尻尾が出るのも時間の問題だ。……それよりご自分の心配をしては如何でしょう、アンドレア様」

相変わらず背を向けて話す男は、そう言って蔑むような瞳でサヤを見る。ビクリと肩が震えた。言われた意味が簡単に理解できたからだ。

「紛い血とはいえ貴女も母親から生まれた東洋人だ。ある一部の貴族には高値で取引されますからねぇ…。今回は運が良かった」
「話はそれだけですか」

体を震わせるサヤの目に、ハンスの背中が映る。庇うように立つハンスの顔には、至って冷静な眼光が宿っていた。

「そんな下らない話をしたいのなら、またいつでも付き合います。そうですね……憲兵の方はお忙しいでしょうから―――あなた方が抱え込んでいる全ての報告書を片してからはどうでしょう?」
「…ふん。そうさせて貰いますよ。生憎貴族のように堕落した生活は性に合わないもんでね」

どっちが。思わず吐き捨てるよりも早く、男は部屋を出ていく。再び沈黙を被る病室で、助けてくれたハンスにお礼を言おうとしたサヤの視線は彼の手元に留まった。背中を向けたままのハンスは、爪が食い込むほどに拳を握っている。

「…ごめんなさい」

思わず、呟いた。
弾かれたように振り返ったハンスから、一瞬だけ哀しそうな瞳が覗く。しかしそれは直ぐにぎこちない笑顔に戻り、サヤを見下ろした。

「サヤが謝るようなことなんて、何もないよ」
「……私、ずっとハンスに迷惑をかけてるわ…」

こうしてハンスはいつもサヤの隣で笑っていてくれる。どんな状況でもそれは変わらなかった。…自分だって、辛い筈なのに。
けれどそれを言葉に出来なかったのは、まだ甘えている部分があるからなのかもしれない。例えハンスが無理をしていたとしても、傍で自分の為に笑っていて欲しい。そんな気持ちが、心の何処かに。

「ありがとう…いつも…」
「ふふ。そんな顔してないで、泣きたいときは泣いていいのに。僕はここにいるでしょう」
「…っ」

じわり。
溢れた涙は真っ白な布団に灰色の染みを作った。真っ赤な悪夢が脳裏を過って、すがるようにハンスに抱き付く。
――悲しい。苦しい、甘えたい…。入り雑じった感情をぶつけるように掻き抱けば、弱々しく背中に手を添えられた。


「弱いね…僕たちは」

絞り出したような声が、鼓膜を擽る。どんな顔をしているのかなんて、今は考えたくない。

でも――。

このままではいけないんだと、今まで気付かない振りをしていた警告音が鳴った。



君の仮面をつくったのは

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