比較的ゆっくりとした曲調に変わった会場とディオのエスコートに流されそうになったサヤだったが、腹痛を訴えて借りた部屋で休むことにした。別に腹痛は嘘ではない。摘まみ食いのツケが回ってきたのだ。

「結局こうなる…」

むかむかとした腹をさすり、階段を探す。
数時間前の自分を恨みながら歩いていれば、庭園を窓際で眺めている見覚えのある姿を見つけた。

「お母様」

人が多すぎて会えないと思っていたので、素直に嬉しい。小走りで自分のもとへ寄ってくるサヤを認めて、黒髪の女性は目を細めた。

「こんなところで何してるの?"壁の花"だね」
「あら、よくそんな言葉知ってるわね。じゃあ、あの男性は"壁のシミ"ね」

そうして母親が指差した先には、またも見慣れた姿がある。

「お父様、……何をしているの?二人とも」
「しーっ」

やっと奇妙な光景に気づいたのか、眉を寄せて尋ねたサヤに母親は無邪気にそういってみせた。
奇妙な光景というのは、夫婦揃って庭園へ続く扉の縁で外を眺めている光景だ。まるで庭園への扉の門番をしているようで変だ。
一体二人揃ってなにをやっているのかと庭園を見たサヤはあぁ、と納得した声を出した。

ハンスと何処かのご令嬢が、噴水を背に笑いあっている。
見ているこっちにも、くすぐったい呼吸が伝わってくるようだった。

「この調子じゃあ、今夜ハンスは帰って来ないわね」
「うわぁ……」

思わず素の声が漏れる。
やけに楽しそうに笑う母親は、向かいで未だに二人を眺める父親の裾を引っ張った。

「今日はもう御暇しましょう。ハンスへの馬車は明日寄越せばいいわ」
「あ、あぁ…。もう遅いしな」

こういうときは女性の方が手回しが早い。まだ名残惜しそうに二人を肩越しで見る親心は、サヤに分かる由もなかった。


::::


「馬車は会場の前には止まれないのかしら?」
「…そんな筈ないわ。私達は会場の前で降ろされたもの」

すっかり遅くなってしまった辺りは、注意して歩かなければならないくらい真っ暗になっていた。このままでは帰れないと嘆く母に、父が考え込む動作をする。
馬車がくる気配もなかった。

「とにかく、大通りに出てみない?もしかしたらそこで待機しているのかもしれないし」
「…そうだな。この辺りは地価が高い割には地形がなっていないし、馬車が入れない可能性もある」
「ええ。サヤ、足元に気をつけるのよ」
「大丈夫よ」

それでも心配なのか母の暖かい指が、サヤの手を握る。思えば、こうして両親と同じ時間を過ごすのは久しぶりだった。
母親はよく家を開けて父の仕事関連の交渉をしに行くし、父親は毎日仕事漬けでろくに顔を合わせない。そんな両親の疲れを癒す方法など、父が趣味で集めている紅茶をプレゼントするぐらいしか思い付かなかった。

「お父様、ずっと聞きたかったことがあるの」
「………なんだ?」

父親が、自分の言葉に身構えたのが分かった。
何故外の世界の資料を集めていたのか。ぽつんと浮かんだ疑問を尋ねようとしたサヤは、やっぱり…と躊躇してしまう。

「心配しないで。昔みたいな異端なことは、もう聞かないから――」

そう言って笑った。暗闇の中では見えないが、父親が気まずそうに口を噤む。母親が繋いでいる手が震える。それ程までに壁の外へ興味を持つことは、タブーとされているのだと思った。

「、紅茶のことよ」
「紅茶?」
「そう。新しく見つけた紅茶専門店、見たことない種類の茶葉が売ってあるんだけど、今お父様が持っている種類が分からなくて。新しいのをプレゼントしたいの」
「そうか。そうだな…」
「ふふっ。貴方ったら、サヤから貰った紅茶の種類が多すぎて、把握しきれてないんでしょ」

取り繕うように笑い声を上げた母にのっかる。戯ける父にくすくすと声を鳴らしていたら、母が耐えかねたように呟いた。

「…それにしても可笑しくないかしら?道を歩く限り馬車が入れない程の道幅ではないと思うのだけど……」
「うっ!…急に、お父様…」

父の背中に勢いよくぶつかる。
痛い―――、頭を押さえて顔を上げたサヤは、突然灯った明かりに目を細めた。

「誰だ…お前達は」
「ィヒヒヒッ。―――人買いだ」

どすの効いた声が頭に響く。
咄嗟に引っ張られた腕は父のものだった。今まで来た道を逆走している。目だけで横を見れば、口を恐怖に歪めて走る母もいた。
追いかけてくると思った男達の気配は、不気味なほどに無い。

(何が、起こって――)

―――バァアン。

「……ぁ…」

横にあった靡く髪のシルエットが、宙を舞うように沈んだ。
銃声はその後も数発撃たれ、全て三人の身体を貫通する。肩に鋭い痛みが走った。
地面に膝を打った反動で叩きつけられる。ズザァ、と引き摺られ慌てて状態を上げれば、二つの塊が後方で倒れこんでいた。

「う…ぁ…お母様…っ、お父様……」

駆け付け、ダラリと垂れた右腕と反対の手で二人を揺さぶる。地面に染み込む鮮血。渇れそうな程、大量だ。気息が聞こえない――。このままじゃ――。

「……オイオイ、女の方も撃ってんじゃねえのかっ!?――クソッ…」
「ひっ」

先の方から、男達の声が聞こえた。ズ、ズと靴底を鳴らす音は、着々と近づいてきている。
歯がガチガチと震えた。まともな判断が出来ない。どうすればいい?どうしたら助けられる?どうしたら助かる?

「……サヤ…」
「…!」

無いに近い力で、母がサヤの手首を掴んだ。
安心で見開いた目からポロリと涙が零れて、血で滲んだ母の腕を滑り落ちる。最初は透明だった涙も、地面につくと赤色に染まっていた。

「お…、お母さん……」
「…サヤ」
「どうしよう…っ…どうしたらいいの…?」

泣いている場合じゃないのに、ぼろぼろと涙が溢れてくる。考えなくちゃ、考えなくちゃ――必死でそう言い聞かせても、震えは酷くなる一方だ。
冷えた指先が、サヤの顔の滴を拭う。ひゅ、と音を立てて息を止めれば、僅かな風のような声を拾った。


「生きなさい…」

まるで優しい月の光のような、そんな笑顔を向けられた。瞬きを忘れて見つめていたら、力を無くした手がはらりと地面に落ちる。

悪夢の足音が、もうそこまで来ていた。

迷う暇なんて与えられない。いくら考えたって正解などない。

"生きなさい―――"

「…っ!!」

ふらりと立ち上がったサヤは、勢いよく駆け出した。



透明な声で泣き叫ぶ

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