「送ってくださって、ありがとうございました」

目的の階につくと同時に、サヤは令嬢らしく優雅に…ではなく、訓練所にいる時のような立振る舞いで上司に挨拶をした。どうせ明日からこんな贅沢な世界とは再び無縁になるのだ。それに、この目の前の男が誰もが恐れる上司なことに変わりはない。…けれど、一瞬だけ彼に複雑そうな顔が浮かんだのは、少しでも自分を不憫だと思ってくれたからであろうか。

「兵長」

そう思うとつい声が喉をついて出た。
思い込みだったら、なんて後悔は後からついてくる。

「なんだ」
「…私、気にしていません」

何をいきなり。そう言いたげな視線が突き刺さった。

「今日の社交界参加も、エルヴィン団長の意図を理解しています。兵長がそのように」

だから、上司に要らない心配はかけたくないし、ディオの言葉も気にして欲しくない。そんな思いで見つめれば、碧い瞳からは納得や戸惑いといった色がちらつく。
リヴァイとしては本当のところ、もっと別の点に釈然としないでいたのだ。その内心を多少なりとも言い当てられたことに、思わず何も言えなくなってしまう。

「……俺が同情しているように見えたか」
「…はい。それに怒っているようにも。…いつも、そうだけど」
「…そうか」

リヴァイはそこで視線を捕らえてきた。

「もしそうだとしても、見当違いだ。お前にたかって利用しているのは事実で、今回の目的はそれでしかない。そこに私情を挟んだところで無駄だろう」
「…はい。でも、じゃあ、見当違いって…?」
「自分を犠牲にするのはやめろ」

低く、意思を持った声だった。
犠牲。その意味に理解しあぐねていると、突然一番近くのドアが開く。光で煌めいたプレートを目で追えば、予約していた部屋番号がちらついた。

「どうも、先刻ぶり」
「ハンス…」

ひょっこりと顔を出したのはハンスであった。
声を聞き出てきたのであろうハンスは、余裕のある手つきでサヤを部屋の中へ引き寄せ、リヴァイに視線だけ投げる。

その瞬間、リヴァイは霧がかった違和感を覚えた。不信感が表情に出て、微笑む男をじっと睨み観察しようとしてしまう。

「護衛ご苦労様でした、リヴァイ兵士長。今夜はお泊りに?」
「いや、もう俺達は兵団へ戻る。明日の訓練に差し支えるからな」
「そうですか、じゃあここでお別れですね。今夜はお疲れ様でした。実に良い夜だった」
「……」
「あぁ…、そんな怖い顔しないでください。サヤはゆっくり休んでからお返しすることにしますよ。エルヴィンには許可を貰っているから。ね?サヤ」

そこまで長居つもりはなかったが、サヤはつい反射的にハンスの言葉に頷いてしまった。明日の朝すぐにでも兵団へ戻ろうと思っていたのに。
リヴァイを見るとまだハンスの顔から視線を離さないでいる。あまりにも探るような視線だったので自分もハンスの横顔を見上げた。

特に違和感はない。どこか胡散臭い笑顔は社交性を身に着けたからだと思っている。貴族の世界では無くてはいけない仮面だと父が言っていた。彼がそうなっても仕方がない。

ならばどこにそんなにリヴァイが訝しむ点があるのか。
聞きたいけれどハンスはもう話を切り上げてリヴァイを立ち去らせようとしている。
そういえばさっきの"犠牲"の意味も聞きそびれてはいないか。

「ではいい夜を、リヴァイ兵士長」
「あ、…」

そうこう思案している間にリヴァイは階段を降りて行ってしまった。
だらりと肩を落とすサヤを振り返って、ハンスは不思議そうな顔をする。だがすぐに笑顔をつくり部屋の奥へと歩き出した。
やはり特別とあってかなり広い。無意識に兵団の自室と大きさを比べて更に部屋のだだっ広さが明確になった。家具の一つ一つが大き過ぎて落ち着けない。

紅茶をついだハンスがリビングへ戻ってきた。

「随分と遅かったね。このままだと彼と朝まで戻ってこないかと思ったよ」
「な」

こんな茶化しをされるのは初めてで、意図せず顔が赤くなる。クスクスと笑うハンスが恨めしく思えて、サヤも負けじと言い返した。

「ハンスこそ、私と同室で良かったの?こんなんじゃ誰も招けないわよ…」

口端を吊り上げて微笑んで見せたが、ハンスの表情を見た途端声が出なくなる。
何かが違った。
冷たい空気が頬を刺したような、それはそこはかとない予感。


「そんなのどうだっていいよ。今日の本当の目的はね、サヤ…君なんだ」

その瞳は慄然とする程真剣で、見たことが無いくらい暗澹としていた。



青が侵食する

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