第17話 02
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「変やんなあ……」
「Yes. アヤカ、来ません。でした」
 十八歳と九歳の溜息。テュシアが冷めた目で二人を見下ろしつつ、ミネラルウォーターをそっと置いていた。城条は目を瞬かせている。
「たまにあったろう。そこまで落ち込まんでもいいんじゃないかい?」
「But, she said. “I’m coming too tomorrow”……」
「……すまん。おっちゃん英語は全く分からなくてな?」
「やけん、あやが『また明日来る』っち言いよったのに来んかったって、ルトは言いようと」
 ああと、城条は生暖かい笑みだ。テュシアは淡々と片づけをしている。
「あやちゃんだって来れん時はあるだろう。そうそう気にする事はないさ。明日にはひょっこり来るよ」
「ばってん……あや、明日来るっち言ったら必ず来よったやん」
 城条が目を瞬かせた。テュシアが皿を食器棚にしまい、扉を閉めている。
 ルトが「Yes」と、やる気がなさそうに呟いた。
「そうです。アヤカ、約束、破りません」
「患うものも患うものだなあ」
「Yes.コウキ、病気です」
「そ――なんでオレなん!? ルトも溜息ついとったろうが!」
「Yes. ボクは、アヤカ、遊べない。淋しいです」
「ほら見りい――」
「子供だから淋しい、です」
 ふぅ。
 やれやれと首を振るトルストに、弘輝は冷めた目で沈黙してしまった。
 嘘つけと言いたげな顔で。
「コウキの、落ち込む、病気です」
「誰も風邪とか引いとらん」
「No, no! You are loving her!」
 ぎょっとする弘輝。トルストは憤慨した顔で弘輝を見上げている。
 いきなり何がどうしたのだろう。
「Everyone understands it. You alone do not notice!」
「き、気づとらんって……違う、オレ別にそんな」
 自分だけ気づいていない?
 そんなにまくし立てて言われるなんて、おかしい
 気づいてないなんて、そんなはず――愛して? 違う
「そげんとはいかん……やろ」
 目を見開いたトルスト。その顔が一瞬にして怒りに変わり、椅子を蹴飛ばすように弘輝の胸倉を掴み上げたではないか。目を見開く弘輝が慌てて振り払おうとした途端、トルストが小さな拳で弘輝の胸を殴ってきた。
 何度も、何度も。何度も、何度も何度も。
「Foolish! You’re! Fool! Why do you say so!? It’s a foolish, very foolish thinking!」
 なんでそう言うの?
 あなたが考えている事は、とっても馬鹿だ。
 目を見開く弘輝。木城が溜息をついて間に割って入った。トルストの拳を優しく受け止めて、弘輝から離してくれる。
「トー坊。止めてやれ」
「But!」
「トー坊」
 二度目の声は、厳しい色をしていた。トルストが不服そうに英語で小さく悪態をつき、城条は眉根を寄せた。弘輝へと下ろされる視線は、余りにも複雑そうだ。
「こー坊が言いたいのは、自分が司子だからか?」
 俯く姿は肯定だろうか。トルストが「Foolish!」とまた苛立ちを吐き出し、城条がその頭を強く撫でて黙らせた。
「そげんとやなくても……オレ、人を好きになるっち、あんまり分からん」
「どうしてだい?」
「小中って、学校には行っとったばってん……いじめられとったけん……本当に気許せる奴おらんかったっちゃん」
 トルストが「Can’t understand」と呟いた。テュシアは溜息をつく。
「いじめ程度で愛する事から逃げるのね」
「そげんとじゃなか!!」
「そういう事でしょう。いじめられたから人を愛する事が怖い。いじめを受けた人は人を愛してはいけない。あなたの言葉と何が違うというの」
「お前らには関係なかろうもん!」
 叫ぶような声だった。トルストが目尻を釣り上げている。
「It misjudged(見損ないました). コウキ、変わる、言った。聞きました。But、今のコウキ、変わる、してません」
「そげん意味の変わるとは誰も言っとらん」
「コウキ、親に捨てる、られて、いません!」
 目を見開いた弘輝は、トルストへと目を疑うように向けた。
 言葉が、詰まる。
「コウキ、逃げている、です! コウキ、友達、いました。今もいます! But you’re running away! (でもあなたは逃げている!) 日本にいる、日本に生まれた、勝者なのに……! いじめ!? 殺されていません、迫害されていません、帰る家、あります! ごはん、あります! 家族、待っています! 勝者なのに、コウキ、逃げています!」
 瞳が揺れる。
 なおも怒り任せに声を荒げるトルストの頭に、ついに城条が力強く手を下ろして無理やり黙らせた。泣きそうな声が、拳を震わせて呻いている。
「こー坊。ちょっとだけ、一人の時間を作ってよく考えてみろ。それとトー坊もだ」
「Why!」
「今のお前さんの言葉はもちろん正しいさ。だけどな。正しいからいつも通用するわけじゃない。周りをきちんと考えるんだ」
 トルストの唇が震える。睨みつける先が城条に変わっている。それでも喫茶店の店主は、じっとトルストを見つめるだけ。
 勢いよく部屋へと駆け戻った少年を見送り、城条は溜息をついて弘輝を見下ろした。
「今が今じゃなかったら、トー坊はあんなにお前さんを心配して言っちゃあいないだろうな」
「心配しとらんやろ、あいつ」
「それは違うだろうさ――こー坊」
 改まった呼ばれ方をされ、弘輝は重たい頭をほんの少し持ち上げて店主を見やった。心配そうな顔に、罪悪感すら湧いてしまう。
「お前さんどうした、何があった?」
「なんもなか。――すまん、ちょっと出てくる」
 席を立つしか、できなかった。
 なんだか、怒られたような。自分がいけないような気がするのに。
 それがいてはいけないという意味にしか感じられない自分に、怒りさえ、あるのに。
 それではだめだ≠ニ何かに止められている。止めようとしている自分がいる事に、瞳が揺れてしまった。


 コツン
 コツン、コツン
「ん……んん〜……え!?」
 窓を叩く音に目を開ければ、部屋の中は真っ暗だ。いつの間に机を枕に寝ていたのだろうと目を瞬かせると、ずんと重たくなったまぶたに呻いてしまう。
 どれぐらい泣いてどれぐらい寝たのか分からない。頭が重たい。
「飲み物……あーうー、水筒も下だ……」
 台所まで取りに行かねば……面倒だけれど、仕方がない。
 そろり、そろりと部屋を出て、携帯の明かりを頼りに廊下の電気をつけた。一階に降りて、彩歌はがらんとしたダイニングキッチンの冷蔵庫から麦茶を出して――首を傾げる。
 どうしたのだろう。こんな時間に人影が――あ。
 見覚えのある赤い服。彩歌は顔がほころぶも、慌ててキッチンに駆け込んで顔を洗い、タオルを忘れたことに顔が青くなった。
 拭くものがない!
「せ、洗濯物――ああああ外だー!!」
 どうしよう、外に出るという事はつまり弘輝にも泣いていた事がばれてしまう。
 それだけは避けないと――!
「拭くもの……! いいもん拭いちゃえ!」
 独り言で決心を固めて、いざ、手拭きタオルに顔を突っ込んだ。
 新しいものを出して。
 乱暴に顔を拭いて、急いで外に飛び出す。ぼんやりと俯いて歩いている弘輝が、窓が開く音にぎょっとして顔を上げたのと、彩歌がぽかんと見つめたのはほぼ同時だった。
 ……。
 …………。
 ……………………。
 なんだか、気まずい沈黙。
「こ、こんばんは?」
「こん――どげん、したん? 勢いよかばってん……」
 あれ、いつもあたしどういう感じで弘輝さんと会ってたっけ……。
「こ、弘輝さんもどうしたの?」
「オレ? オレは……」
 ……沈黙。
 どうしたのだろう。
「……ちょっと、散歩」
「そ、そうなんだ……」
 間が続かない。
 弘輝の視線を、いつも以上に見られない。
 どうしよう……

 あんたの行動全部子供すぎるのよ。ちっとも周りの事考えられてない

 あんたが今やってるのは、相手の優しさにつけこんで一緒にいるだけの、偽善者なの

「あや、な――あや?」
 地面だけが、見える。
 真っ暗闇に覆われた、地面が――
 黒が――
 薄汚れたスニーカーの白を、受け入れた。
「あや、どげんしたん? 顔色悪かぞ」
 え。
 心配そうに見つめてくる青年の手が、彩歌の頭に優しく触れてきた。


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