087 部屋の中は、真っ暗だった。コツコツと響くぼくらの足音以外、何の音もないし、光もない。
ぼくの目でも、まるで何も見えない。
ぼくは足音だけを頼りに、マルシェさんの後を追った。多分、追っていた。
両手を突き出し、横に振ってみたり、意味もなく振り向いたりしてみる。しかし、何もない。
何も感じない真っ暗な空間が、ぼくのデータに新しくインプットされた。
今、何か段差を上がった気がする。なんとなく足を着いた場所が高かった。
もう一段上がる。この部屋には階段があるのだろうか?
その時、何かがぼくの額に当たってくもった音をたてた。
何かがぼくにぶつかったのか? いや、ぼくが何かにぶつかったんだ。
その時、パチンと軽い音がして、ぱっと目の前が明るくなった。
ぼくは額を押さえ、音のしたほうへ振り返る。
「アラン、何やってんだ」
マルシェさんがぼくのずっと後ろで、壁際の明かりのスイッチを入れていた。
いつの間にこんなに進んでいたんだろう。きっとぼくだけ前に進んで、マルシェさんは横に進んでいたんだ。
暗闇でウロウロする間抜けな自分を想像して、ぼくは少し苦笑いした。
明るくなった部屋は、とても広かった。
さっきの広間よりは広くないけれど、公司館のロビーより、お父様の部屋より、もちろんぼくらの部屋より広い。
しかし、何も置いていない、殺風景な部屋だ。壁は汚れ一つない白に統一され、明かりが反射して少しまぶしい。
こんな部屋で、ぼくは何に頭をぶつけたのかと、額をさすりながら考えた。
そんなぼくに、マルシェさんは顔を顰め、あごでぼくを指す。
その意味がわからず、ぼくは首を傾げた。
マルシェさんがもう一度あごでぼくを指す。
ぼくを? いや、ぼくの後ろだ。ぼくは振り返った。
「うわぁ!」
振り返ってすぐに、ぼくは思わず声をあげた。
ぼくが額をぶつけたものの正体がわかった。金色の大きな十字架だ。
天井にちょうどいい幅を持ってくっついている明かりに照らされ、さらにまぶしく光っている。
その両端には、生き生きとした色を咲かせている花束。左側には、表紙に何も書かれていない本が置かれている。
まるで、教会が丸ごと引っ越してきたようだ。ぼくは、その中心にいた。
キヨハルさんは?
「マルシェさん、ぼ、ぼく……キヨハルさんは……」
いまいち状況が理解できていないぼくに、マルシェさんはまたにやりと笑う。
「キヨハルなら、そこだ。ほら、お前の足元」
その言葉に、ぼくは慌てて、片足を上げた。
“タツミ=キヨハル”と白い石に綺麗に彫られた金の字を、ぼくは思いっきり踏んでいた。
「うわぁ」
ぼくは情けない声をあげ、祭壇から飛び降りる。
マルシェさんが歩み寄ってきた。ぼくも祭壇から離れ、マルシェさんに駆け寄る。
「ご、ごめんなさい。ぼく、いつの間にあんな所に……」
慌てるぼくに、マルシェさんはまたクックッと堪えるように笑った。
ぼくが意味がわからず苦笑いすると、マルシェさんは「いや」と首を横に振る。
「それは見せかけだ。キヨハルは、ここに居る」
マルシェさんはそう言って、ちょうど自分の真下を指さした。
ぼくはまた慌てて足を退かすが、今度は何もない。ただの床だ。
マルシェさんがまたクックッと笑う。なんだかからかわれているようで、ぼくはむっと顔を顰めた。
その時、歯車が動き出す音と、何かが擦れる音が同時に聞こえ、ぼくは辺りを見回した。
部屋全体に反響しているものだから、あの白い壁から何かが飛び出すんだと思っていたら、突然ぼくの足元が浮き上がってきた。
ぼくは半分転びそうになりながら、慌ててそこを退く。
マルシェさんはいつの間にか、とっくにその場所を退いていた。
一度声をかけてくれればいいのに、と思いつつ、ぼくは浮き上がってくる床を見つめる。
長方形に浮き上がってくる床は、ちょうどぼくの腰辺りまで上がり、ぴたりと止まった。
そして、ぴかぴかに磨かれた床が、縦に真っ二つに割れ、扉のようにゆっくりと左右に開いた。
箱だ。浮き上がってきたのは、床と同色の長方形の箱だった。
マルシェさんが軽く靴を鳴らし、箱に近づく。
「よう、キヨハル」
マルシェさんは箱を見下ろし、ぽつりと呟いた。
その名前に敏感に反応し、ぼくも箱に近寄る。
箱の中身を覗き込み、ぼくははっと息を呑んだ。
棺桶の中には、一人の男性が納まっていた。
ガラス張りの棺桶の中で、まだ摘みたてのような白い花に周りを囲われ、苦のない穏やかな笑顔で眠っている。
セイの言っていた通り、ゆるくウエーブのかかった黒髪と、白い肌の普通の青年だ。
どこも特別な所なんてなさそうだ。そう思う反面、この人こそが話に聞いていたキヨハルさんなのだと、ぼくははっきり確信していた。
どこも特別な所なんかない。そう、どこも特別には見えない。
けれど、この人は特別だ。なぜだろう、そう思わせる雰囲気がある。
こうして見ていると、今にも目を開いて起き上がり、「やあ」なんて、明るく声をかけられそうだ。
そう思いながらふとマルシェさんを見ると、懐かしそうにキヨハルさんを見つめていた。
丸いサングラスの奥で、マルシェさんが目を細める。それは古いアルバムを懐かしんで見るような目。そして、どこか寂しげな目だった。
ガラスの向こうのキヨハルさんは、ヒトの抜け殻なんだ。
この人はもう、起き上がることはない。
ぼくはそう思い、顔をうつむかせた。
この人が、マルシェさんの一番の親友で、セイとアンドリューの憧れの人で、そして、このアンダーグラウンドの主。
誰からも好かれ、誰もを好き、差別も、偏見もなし。
人のものは人のもの、自分のものは人のもの。本当に、そんな感じだ。
「言った通りの奴だろう」
ぼくがじっとキヨハルさんに見入っていると、マルシェさんがぽつりと呟いた。
ぼくは顔をうつむかせたまま、少し頷く。
「……どうした?」
そんなぼくに、マルシェさんが少し声を落とした。
ぼくは黙ったまま、ぎゅっとこぶしを握り、首を横に振る。
胸の上で組まれたキヨハルさんの両手を見つめ、ぼくは目を細めた。
キヨハルさんを見た瞬間、ぼくに何かが圧し掛かった。その中に、間違いなく罪悪感があった。
ぼくは、キヨハルさんを殺したやつを知っている。
マルシェさんは、そいつに復讐したいと思っている。きっと、他のアンダーグラウンドの住人も。
だけど、ぼくはマルシェさんにアイツの正体を言わない。
なぜだ? それは、あいつがこのぼくの仲間だからだ。
本当の仲間だなんて、意識したことは一度もない。
だけど、ぼくとあいつは切っても切れない仲間なんだ。
ぼくは首を横に振った。嫌だ、本当は仲間だなんて思いたくない。恐ろしい。
どうしてあいつは、この人を消した?
お父様の命令だろうか? 自分の意思だろうか?
なぜ消す必要があった? この人を、なぜ殺すことができた?
わからない……ぼくには、わからないよ!
気づいたらぼくは、床に膝をつき、キヨハルさんに縋るように倒れていた。
ぼくの頭の中を、ぼくの忌々しい過去が駆け回る。
体が変わっても、ゼルダが過去のぼくであるに違いない。
ぼくはこの手でヒトを消した。ヒトを殺した。
命令された。誰に? お父様に。
自分の意志で動いたことは? ない。うそだ。
自分で思ったことがあった。この人を殺してしまおうと。
ただお父様に褒めてもらうためだけに、ただ、優等生で居たいがために。
ぼくはゼルダのせいにして、前のぼくの行動を消そうとしていた?
全ての罪は前のぼくが、ゼルダがやったことだと決めつけて、ぼくは無実だと思おうとしていた?
そうだ、ぼくは、また逃げようとしていたんだ!
ぼくは棺に肘をつき、頭を抱えていた。頭が熱い。目が熱い。頭が割れるようだ。
しまいこんでいた膨大なデータが、ぼくの頭の中を飛び交う。
ぼくは結局弱虫だった。
髪の色を変えても、体を変えても、ぼくはちっとも変わってなかった。
すべてをゼルダのせいにして、すべてを過去だと決めつけて、ぼくは逃げていたんだ。
ぼくはやっぱり、造られたもので、ロボットだから、
自分自身を変えることなんて、出来ないのだろうか……――?
まるで深い底へ落ちていくような感覚にうずくまるぼくの頭上で、すうっと空気を吸い込む音がした。
「……ねえ、生きてるって、どういうことだと思う?」
マルシェさんが言った。しかし、それはぼくに問いかけているわけではなかった。
ぼくは顔を上げ、マルシェさんは続ける。
「心臓が……動いていること」
「じゃあ、花や草は生きていないの?」
「……いや……」
「じゃあ、心臓がなくても生きているんじゃない?」
「……じゃあ、成長すること」
「それって体?」
「普通そうだろう?」
「じゃあ、石や水は?」
「それは……別ものだろう」
「いいや、違うよ。マルシェ、この星はどうして生まれたんだと思う?」
「……ああ……そうだな、こう……宇宙のチリやほこりが集まってだな……」
「ほら!」
「は?」
「この星は、生きているんだよ。もうずっとずっと昔から。たった一つの僕らの母から生まれた、この世の全てのものは生きているんだよ。微生物も、石も、水も、火も、花も、草も、そして僕らも。鉄やなまりだってそうさ」
「……納得いかないな」
「それでいいのさ。しょせん、僕らの小さな脳みそでは、この大きなマザーにはかなわないんだから」
「じゃあ何なら敵う?」
「そうだなぁ……神様じゃないかな」
「……お前の言うことを聞いていると、まるで俺の脳みそとは別次元だ」
「それって、僕が特別だってことかい?」
「さあな」
「僕、いつか神様になるんだ」
「なれるもんならな……」
「きっと、なれるよ。君たちが手伝ってくれるならね」
マルシェさんは目を伏せ、最後に少し笑み、口を閉じた。
ぼくはぽかんと口を開けたまま、マルシェさんを見つめる。
まるで、呆れるマルシェさんを前に、生き生きと話す生前のキヨハルさんが、ぼくの目の前に浮かんできたようだった。
マルシェさんは少し苦笑いして、ぼくのほうを向く。
「キヨハルの、夢見る言い分だ」
キヨハルさんを指さし、マルシェさんは呆れ顔で言った。
「デタラメだろう?」
その問いかけに、ぼくは思わず、正直に頷く。
マルシェさんも頷いた。
「デタラメで、夢のようで、まるで幼い子供の言い分だ。こいつはこの星は母で、神はその中心に居ると言いやがった。この星の中心は、轟々と燃える赤い液体でしかないのにな」
マルシェさんはそう言って、一歩キヨハルさんに近づいた。
白い花が明かりを反射して、マルシェさんを照らす。
「事あるごとに、僕は神様になりたい、神様になるんだって、これがこいつの口癖さ」
マルシェさんはキヨハルさんのガラスの棺桶を、軽く指で叩いた。
ぼくは体を起こし、もう二度と開かれることないキヨハルさんのまぶたを見つめる。
「なあ……キヨハル。こいつに説明してやってくれよ。お前の言い分だったら、こいつも生きているんだぜ」
そう言ったマルシェさんの表情は、今まで見たことがないぐらい、悲しそうに歪んでいた。
辛そうなその表情に、ぼくの喉の奥が震えた。部品故障ではない。何かが、ぼくを揺れ動かしている。
まるで息が詰まったように、苦しい。ぼくは顔を顰めた。
マルシェさんはピクリとも動かないキヨハルさんをしばらく見つめ、深呼吸するように長いため息をつく。
ゆっくりと体を起こし、そして、ぼくのほうを向いた。
「新しく仲間に入った奴らは、必ずここへ連れて来られる。お前と同じように、キヨハルに縋って泣く奴はたくさん居る。こいつを見ていると、過去の全ての過ちが体中を駆け巡って、最後にはキヨハルに吸い込まれるようになくなるんだとよ。まるで何かの力に……そうだな、魔法のように」
マルシェさんはそう言って、非現実的な自分の言動に半分呆れながらも、また子供のようにニッと笑った。
ぼくはなんだか気が抜けて、まるで何時間も走った後のように、気持ちのいい疲労と、肌を撫でる清々しい空気を感じながら、ぼんやりと宙を見つめる。
その時、ぼくは不思議と、さっきまで背負っていた重たい罪悪感を、ちっとも感じていなかった。
「さあ、行くぞ。キヨハルの魔法にかかるまで、そう時間はいらないだろ」
マルシェさんはそう言って、ぼくより先に扉へ向かって歩き出した。
ずっと持ち続けていた荷物を降ろしたように、ぼくの体は軽く、ぼくは跳ね上がるように立ち上がる。
「はい」
ぼくは笑顔で返事をし、そして最後にキヨハルさんを見下ろした。
優しい微笑みが、ぼくに語りかけてくる。
「君も生きているよ」
そう。
ぼくは、生きています。
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